← Library‹ 五瓣の椿 第二話 二

「貴女きじょと初はじめて逢あったのは正月しょうがつの二十はつ日かですよ、覚おぼえていますかおりうさん」

「覚おぼえていますとも」おりうと呼よばれた女おんなは、男おとこをながし眼めに見みながら、舌したがだるいとでもいうような、あまえた口くちぶりで云いった、「――だってあたしのほうで呼よんだんですもの、そうでしょ」

「それから五ご月がつまで月つきに一いち度どか二に度ど、夏なつのうちは音おん沙汰さたなしで今月こんげつはもう十じゅう月がつ、もうすぐ一いち年ねんになるんですよ」

「また年としを一ひとつとるのね、いやだこと」

「おりうさん」

「飲のんでちょうだい」と女おんなは云いった、「月がつなんか数かぞえるから年としのことを思おもいだしちゃったじゃないの、いやなお師匠ししょうさん」

「ふしぎだ」と男おとこが云いった、「その声こえのまわしようと、左ひだりの肩かたをおとして躯むくろをかしげるしなは、そっくり沢田さわだ屋やの得意とくいの型かただ」

「またあんなことを」

「そらその眼めつき、――お嬢じょうさん、貴女きじょはきっと沢田さわだ屋やとわけがおありですね」男おとこは盃さかずきを置おいて云いった、「いいや、ただのひいきじゃあない、舞台ぶたいを見みているだけで、あの東蔵とうぞうの声こえまわしや身振みぶりが、そんなにぴったり写うつるものじゃあない、私わたくしも岸沢きしざわ蝶太夫ちょうだゆうです、そのくらいのことは見当けんとうがつきますよ」

「そんなふうにからむんなら、あたし帰かえるわ」

「図ず星せいというわけですか」

「いいこと」女おんなは坐すわり直なおした、自分じぶんでは無む意識いしきかもしれないが、坐すわり直なおすと却かえって、躯むくろの線せんのやわらかさと、嬌かしさとが際立きわだつようにみえた、「いいこと、お師匠ししょうさん」と女おんなはあまえた口くちぶりで云いった、「あたしは芝居しばいは好すきだし、見みることはむろん見みるわ、沢田さわだ屋やの舞台ぶたいだって見みているけれど、役者やくしゃ衆しゅうとは誰だれに限かぎらず、これまでいちども逢あったことなんかありゃあしなくってよ」

「それはお師匠ししょうさんとこんなふうに逢あっているんだから」と女おんなは続つづけた、「どんな浮気うわき者ものと云いわれてもしかたがないでしょう、でもお師匠ししょうさんにそんな女おんなだと思おもわれるなんて辛つらいことよ」

「それが本当ほんとうなら」と男おとこが云いった、「どうしていつまでこんなふうに、蛇へびのなま殺ころしのようなめにあわせるんですか」

「お師匠ししょうさんにはあたしの気持きもちがわからないのね」

「おりうさん」と男おとこは手てを伸のばした。

女おんなは片手かたてを男おとこに与あたえながら、躯むくろは反対はんたいに遠とおのけて、「はあ」と熱あつい太息といきをもらした。

「触さわらないで、お師匠ししょうさん」と女おんなはふるえ声ごえで云いった、「ごしょうだから触さわらないで、お師匠ししょうさん、それでなくっても辛抱しんぼうが切きれそうなんですもの、お師匠ししょうさんに触さわられたらおしまいよ」

「いったいなにを辛抱しんぼうするんです、おりうさんがもし本当ほんとうに私わたくしを好すいていてくれるなら、辛抱しんぼうすることなんかないじゃありませんか」

「ひどいわ」女おんなは握にぎられている手てを、握にぎられたままやわらかに振ふった、「――わかっているくせに」

「なにがです」

「おかみさんよ」と女おんなが云いった、「お師匠ししょうさんにはちゃんとおかみさんがあるじゃないの、もと柳橋やなぎばしの、――そうよ、この土地とちの売うれっ妓こで、気きだてもよし縹緻きりょうもいいりっぱな姐ねえさんだったのが、お師匠ししょうさんのためになにもかも捨すてていっしょになったって」

「ちょっと、ちょっと待まった」

「あたしそんな人ひとにはとてもかなやしないし」と女おんなは構かまわずに続つづけた、「かといって、おかみさんのあるのを承知しょうちで、そのときばったりの浮気うわきや、囲かこい者ものになるのなんかいや、それだけはあたしいやよ」

「そのことはまえにもいちど話はなした」と男おとこがせきこんで云いった、「おりうさんが本当ほんとうにそのつもりならあいつとは別わかれる」

女おんなは握にぎられている手てを放はなした、「うそ、口くちばっかりよ」

「嘘うそじゃあない、あいつはひどいやきもちやきだし、飯めしもろくに炊たけず針はりも持もてず、私わたくしあもうずっとまえから鼻はなについているんだ」男おとこはそこで調子ちょうしをととのえて云いった、「嘘うそいつわりのないところ、あいつとはいつ別わかれてもいい気持きもちになってるんだから、もしおりうさんが私わたくしといっしょになってくれるんなら、明日あすにでもあいつとは別わかれてみせる、本当ほんとうだ」

「あたしも御飯ごはんなんか炊たけやしないわ」

「おりうさんにそんなことをさせるもんか」

「針はりも持もてないし洗濯せんたくや掃除そうじなんかもできやしないわ」女おんなはあまえた声こえでゆっくりと云いった、「おまけにあたし、たいへんなやきもちやきよ、もしかしてあたしがお師匠ししょうさんのおかみさんで、お師匠ししょうさんがほかの女おんなとこんな逢曳あいびきなんかしたら、あたし二人ふたりとも生いかしてはおかないわ」

女おんなは頭あたまへ手てをやり銀ぎんの平打ひらうちの釵かんざしを抜ぬき取とると、それを逆手さかてに持もって云いった、「二人ふたりともきっと殺ころしてみせるわ、きっとよ」

「うれしいね、うれしい心しん意気いきだ」男おとこはひからびたような声こえで笑わらい、眼めにけものめいた色いろを湛たたえながら、上下じょうげの唇くちびるを舐なめた、「おりうさんのような人ひとにそれほど思おもいこまれれば本望ほんもうだ、ああいいとも、もしそんなことがあったら殺ころして下ください、逃にげも隠かくれもしませんから」

女おんなは釵かんざしを持もち替かえ、その釵かんざしで左ひだりの手てのひらを静しずかに打うちながら、「これでね」と囁ささやくように云いった。

男おとこがつと立たちあがり、女おんなが眼めをあげた。

「手洗てあらいにいって来きます」と男おとこが云いった、「ついでに酒さけのあとをね」

女おんなは頷うなずいた。

男おとこは二に階かいをおりて女中じょちゅうを呼よび、なにやら囁ささやいて手洗てあらいにいった。俗ぞくににがみばしったといわれる、眉まゆの濃こい、おもながの、ひきしまった顔かおに微笑びしょうがうかび、たのしそうに鼻唄はなうたをうたった。にがみばしった顔かおが、にわかに浅薄せんぱくな卑いやしさをあらわし、その眼めはさらにけもののような貪欲どくよくな光ひかりを帯おびてきた。

「踊おどりの品しながよいとやら」と彼かれは常磐津節ときわずぶしをたのしそうにうたった、「――わたしもどうか乙おつ声せいの、音頭おんどのふしが気きにいって、ぞっとしんから戻もどりがけ」

階段かいだんを登のぼり、さっきの座敷ざしきの前まえでうたい終おわると、彼かれは障子しょうじをあけて中なかへはいった。若わかい女中じょちゅうが空あいた燗かん徳利とっくりや皿さら小鉢こばちを片かたづけてい、女おんなの姿すがたはみえなかった。

「身みにしみじみと村雨むらさめは――」そう続つづけて坐すわりながら、彼かれは女中じょちゅうに呼よびかけた、「こちらの、あれはどうしたの」

「お伴つれさまですか」と女中じょちゅうが云いった、「たったいまお帰かえりになりましたわ」

「か、――」男おとこは口くちをあき、それから疑うたがわしげに訊きき返かえした、「帰かえったって、ここにいた、私わたくしの、あの人ひとがかい」

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