「貴女と初めて逢ったのは正月の二十日ですよ、覚えていますかおりうさん」
「覚えていますとも」おりうと呼ばれた女は、男をながし眼に見ながら、舌がだるいとでもいうような、あまえた口ぶりで云った、「――だってあたしのほうで呼んだんですもの、そうでしょ」
「それから五月まで月に一度か二度、夏のうちは音沙汰なしで今月はもう十月、もうすぐ一年になるんですよ」
「また年を一つとるのね、いやだこと」
「おりうさん」
「飲んでちょうだい」と女は云った、「月なんか数えるから年のことを思いだしちゃったじゃないの、いやなお師匠さん」
「ふしぎだ」と男が云った、「その声のまわしようと、左の肩をおとして躯をかしげるしなは、そっくり沢田屋の得意の型だ」
「またあんなことを」
「そらその眼つき、――お嬢さん、貴女はきっと沢田屋とわけがおありですね」男は盃を置いて云った、「いいや、ただのひいきじゃあない、舞台を見ているだけで、あの東蔵の声まわしや身振りが、そんなにぴったり写るものじゃあない、私も岸沢蝶太夫です、そのくらいのことは見当がつきますよ」
「そんなふうにからむんなら、あたし帰るわ」
「図星というわけですか」
「いいこと」女は坐り直した、自分では無意識かもしれないが、坐り直すと却って、躯の線のやわらかさと、嬌かしさとが際立つようにみえた、「いいこと、お師匠さん」と女はあまえた口ぶりで云った、「あたしは芝居は好きだし、見ることはむろん見るわ、沢田屋の舞台だって見ているけれど、役者衆とは誰に限らず、これまでいちども逢ったことなんかありゃあしなくってよ」
「それはお師匠さんとこんなふうに逢っているんだから」と女は続けた、「どんな浮気者と云われてもしかたがないでしょう、でもお師匠さんにそんな女だと思われるなんて辛いことよ」
「それが本当なら」と男が云った、「どうしていつまでこんなふうに、蛇のなま殺しのようなめにあわせるんですか」
「お師匠さんにはあたしの気持がわからないのね」
「おりうさん」と男は手を伸ばした。
女は片手を男に与えながら、躯は反対に遠のけて、「はあ」と熱い太息をもらした。
「触らないで、お師匠さん」と女はふるえ声で云った、「ごしょうだから触らないで、お師匠さん、それでなくっても辛抱が切れそうなんですもの、お師匠さんに触られたらおしまいよ」
「いったいなにを辛抱するんです、おりうさんがもし本当に私を好いていてくれるなら、辛抱することなんかないじゃありませんか」
「ひどいわ」女は握られている手を、握られたままやわらかに振った、「――わかっているくせに」
「なにがです」
「おかみさんよ」と女が云った、「お師匠さんにはちゃんとおかみさんがあるじゃないの、もと柳橋の、――そうよ、この土地の売れっ妓で、気だてもよし縹緻もいいりっぱな姐さんだったのが、お師匠さんのためになにもかも捨てていっしょになったって」
「ちょっと、ちょっと待った」
「あたしそんな人にはとてもかなやしないし」と女は構わずに続けた、「かといって、おかみさんのあるのを承知で、そのときばったりの浮気や、囲い者になるのなんかいや、それだけはあたしいやよ」
「そのことはまえにもいちど話した」と男がせきこんで云った、「おりうさんが本当にそのつもりならあいつとは別れる」
女は握られている手を放した、「うそ、口ばっかりよ」
「嘘じゃあない、あいつはひどいやきもちやきだし、飯もろくに炊けず針も持てず、私あもうずっとまえから鼻についているんだ」男はそこで調子をととのえて云った、「嘘いつわりのないところ、あいつとはいつ別れてもいい気持になってるんだから、もしおりうさんが私といっしょになってくれるんなら、明日にでもあいつとは別れてみせる、本当だ」
「あたしも御飯なんか炊けやしないわ」
「おりうさんにそんなことをさせるもんか」
「針も持てないし洗濯や掃除なんかもできやしないわ」女はあまえた声でゆっくりと云った、「おまけにあたし、たいへんなやきもちやきよ、もしかしてあたしがお師匠さんのおかみさんで、お師匠さんがほかの女とこんな逢曳きなんかしたら、あたし二人とも生かしてはおかないわ」
女は頭へ手をやり銀の平打の釵を抜き取ると、それを逆手に持って云った、「二人ともきっと殺してみせるわ、きっとよ」
「うれしいね、うれしい心意気だ」男はひからびたような声で笑い、眼にけものめいた色を湛えながら、上下の唇を舐めた、「おりうさんのような人にそれほど思いこまれれば本望だ、ああいいとも、もしそんなことがあったら殺して下さい、逃げも隠れもしませんから」
女は釵を持ち替え、その釵で左の手のひらを静かに打ちながら、「これでね」と囁くように云った。
男がつと立ちあがり、女が眼をあげた。
「手洗いにいって来ます」と男が云った、「ついでに酒のあとをね」
女は頷いた。
男は二階をおりて女中を呼び、なにやら囁いて手洗いにいった。俗ににがみばしったといわれる、眉の濃い、おもながの、ひきしまった顔に微笑がうかび、たのしそうに鼻唄をうたった。にがみばしった顔が、にわかに浅薄な卑しさをあらわし、その眼はさらにけもののような貪欲な光を帯びてきた。
「踊りの品がよいとやら」と彼は常磐津節をたのしそうにうたった、「――わたしもどうか乙声の、音頭のふしが気にいって、ぞっとしんから戻りがけ」
階段を登り、さっきの座敷の前でうたい終ると、彼は障子をあけて中へはいった。若い女中が空いた燗徳利や皿小鉢を片づけてい、女の姿はみえなかった。
「身にしみじみと村雨は――」そう続けて坐りながら、彼は女中に呼びかけた、「こちらの、あれはどうしたの」
「お伴れさまですか」と女中が云った、「たったいまお帰りになりましたわ」
「か、――」男は口をあき、それから疑わしげに訊き返した、「帰ったって、ここにいた、私の、あの人がかい」