← Library‹ 五瓣の椿 第二話 三

半刻はんときほど経たって、男おとこはその「花田はなだ」という料理りょうり茶屋ちゃやから出でた。日ひが昏くれかかって、街まちには灯あかりがつきはじめているが、空そらは磨といだように青あおずんで高たかく、大川おおかわのほうから吹ふいて来くる微風そよかぜは、肌はだにしみとおるほど冷つめたかった。

「お勘定かんじょうは済すんでおります、おこころづけも頂戴ちょうだいいたしました」

男おとこは歩あるきながらよろめき、片手かたてに持もっている折詰おりづめをぶらぶらさせた。

「これがお土産みやげ」と彼かれは呟つぶやいた、「――これはお師匠ししょうさんへといってお預あずかり、あけてみれば一両いちりょう、へっ、到いたれり尽つくせりか」

やけ酒ざけでも飲のんだらしい。おそらく、おりうという女おんなに帰かえられたあと、独ひとりでやけ酒ざけを呷あおったのだろう、前後ぜんご左右さゆうへよろめきながら、口くちの中なかでぶつぶつ独ひとり言ごとを云いった。

「おい、しっかりしろ」と彼かれは自分じぶんに云いった、「おめえは痩やせても枯かれても岸沢きしざわ蝶ちょう太夫たゆうだぞ、そうだろう、常磐津ときわづ綱つな太夫たゆうの弟子でしでは、小天狗こてんぐといわれた、いまの綱つな太夫たゆうなんか、へっ、おれの履物はきものを直なおしたもんだ、ほんとだぜ」

黄昏たそがれのことで、街まちは人ひとの往いき来きが多おおかった。家並いえなみの軒下のきしたはみるみる暗くらさが濃こくなり、足早あしばやにゆき交かう人ひとたちをせきたてるかのように、夕餉ゆうげの煮炊にたきの匂においが漂ただよって来きた。

「だが正直しょうじきなところ、おれは唄うたより糸いとのほうが好すきだった、うん、あの小しょう式部しきぶ師匠ししょうの糸いとを聞きくと、骨身ほねみがぐたぐたになるような気持きもちだったからな」彼かれは自分じぶんに頷うなずいた、「――そうよ、浄瑠璃じょうるりは唄うたじゃあねえ三味しゃみ線せんだ、浄瑠璃じょうるりを活いかすも殺ころすも、三味しゃみ線せんの撥ばちさばきひとつに、かかってるんだ、いまの豊後大掾ぶんごたいじょうだなんていばっていたって、おれの撥ばちのさばきのかげんでどうにでもなるんだ、それこそ客席きゃくせきのやじでうたえなくすることもできるんだ、ほんとだぜ」

終おわりの言葉ことばがどなるような声こえだったので、向むこうから来きた男おとこがひょいと脇わきへよけたが、彼かれは気きもつかずに、柳橋やなぎばしを渡わたっていった。

「ふん、仲次郎なかじろうのほうが三味しゃみ線せんは上うえだって云いやあがったが、なにょう云いやがる」彼かれは持もっている折詰おりづめを振ふった、「世間せけんにゃあ耳みみのねえ野郎やろうがそろってるから、音締ねじめひとつ聞きき分わけることもできやしねえ、みやあがれ、仲次郎なかじろうはたちまちあのざまだ。なんだ、……なんのためにあの野郎やろうのことなんぞ云いいだすんだ、ちぇっ、よしゃあがれ縁起えんぎでもねえ」

「おれの云いいてえのはそんなことじゃあねえ」彼かれはそれまで饒舌しゃべったことを打うち消けすように、ゆらゆらと首くびを振ふり、するとよろめいて、よろめいたまま道みちを斜ななめに歩あるきながら呟つぶやいた、「――おれは天下てんかの岸沢きしざわ蝶ちょう太夫たゆうだ、女おんなにかけたって人ひとにひけはとりゃあしねえ、おぼこから年増としままで、娘むすめ、かみさん、後家ごけ、くろうとの差別さべつなく、これと眼めをつけておれのものにならなかった女おんなは、一人ひとりもいなかった、こっちからもちかけるまでもねえ、捌さばききれなくてげっぷの出でるほど向むこうからもちかけて来きた、それが、……あの娘むすめ、おりうに限かぎってこんなことになるなんて、へっ、初はじめて逢あってからもうすぐ一いち年ねんにもなろうってのに、手てを握にぎったのが今日きょうが初はじめて、おまけにいまいましいのはこっちがのぼせてることだ」

彼かれは立停たちどまった、「なんだ」と彼かれは左右さゆうを見みまわした、「仲次郎なかじろうがどうしたってんだ、誰だれだ、仲次郎なかじろうがどうしたってんだ」

「へっ」と首くびを振ふって、彼かれはまた歩あるきだした、「小娘こむすめのくせにのぼせるな、今日きょうまで手ても握にぎらなかったのはな、そっちが熱あつくなるのを見みたかったからだ、それをなんでえ、ちょっと下したへおりて、小こ部屋へやへ支度したくをするように云いって、帰かえるともういねえ、へっ、いい面つらの皮かわだ、こっちは小こ部屋へやの支度したくを頼たのんだんだぜ、岸沢きしざわ蝶ちょう太夫たゆうともあろう者ものがさ、――お伴つれさまはお帰かえり、土産みやげの折詰おりづめにはなまで置おいてある、いいざまだぜ」

人ひとの混雑こんざつする広小路ひろこうじを横切よこぎり、薬研堀やげんぼりから旗本はたもとの小こ屋敷やしきのあいだを、住吉すみよし町まちのほうへぬけていった。

彼かれはいっときなにも云いわなかったが、胸むねの中なかは圧迫あっぱくされるような不安ふあんと、誇ほこりを傷きずつけられた者ものの怒いかりとでいっぱいだった。――ふしぎな娘むすめだ、と彼かれは心こころの中なかで思おもった。初はじめて逢あってから今日きょうまで、家いえがどこにあるのか、商家しょうかの娘むすめか金持かねもちの娘むすめか、年としは幾いくつになるのか、すべてがわかっていない。おりうという名なでさえ、ことによると偽名ぎめいかもしれない。――初はじめに中村なかむら座ざの楽屋がくやへ迎むかえが来きて、逢あったのは中洲なかすの「大八だいはち」だった、と彼かれは思おもった。「大八だいはち」では二に度ど、次つぎは堀留ほりどめの「蔦屋つたや」だろう。いや、「蔦屋つたや」はその次つぎで、三さん度どめは「伊賀いが梅うめ」だった。

「五ご月がつまでにななたび、逢あう場所ばしょも二に度ど以上いじょうは続つづかない」と彼かれは呟つぶやいた、「二に度どいったのは大八だいはちだけで、あとの五ごたびはみんな違ちがううちだった」

顔かおを知しられたくないんだな、と彼かれは思おもった。

酒肴しゅこうをふるまわれ、いい機嫌きげんに酔よわされて、島村しまむら東蔵とうぞうに仕込しこまれたかと思おもうような、年増としまも及およばないいろけとてくだでひき廻まわされ、しかもお預あずけをくいっ放ぱなしで、また迎むかえに来こられれば尻尾しっぽを振ふって参上さんじょうする。これでも岸沢きしざわ蝶ちょう太夫たゆうか、え、おい、これでも岸沢きしざわ蝶ちょう太夫たゆうかよ、と彼かれは心こころの中なかで自分じぶんを嘲笑ちょうしょうした。

「おい師匠ししょう、どこへゆくんだ」とうしろで声こえがした、「うちへけえるんじゃあねえのか」

彼かれは立停たちどまって振ふり返かえり、よろよろした。

「誰だれだ」と彼かれは眼めをそばめた。

めくら縞しまの長半纒ながばんてんに三さん尺しゃく、唐桟とうざん縞しまの半纒はんてんをひっかけて、素足すあしに麻裏あさうらをはき、手拭てぬぐいで頬冠ほうかむりをした男おとこが、妻つま楊枝ようじで歯はをせせりながらこっちを見みていた。

「うちへけえるんだろう」と男おとこはまた云いった、「おめえ路地ろじを通とおり越こしちゃってるぜ」

「おめえ誰だれだ、松まつ公こうか」

「まあいいや、うちへいこう」

「おかしなやつだな」彼かれは引返ひきかえしながら云いった、「松まつ公こうじゃあねえな、誰だれだ」

「大おおきな声こえをだすなよ、わからねえのか」路地ろじへはいってゆきながら、男おとこは声こえをひそめて云いった、「むささびの六ろくだ」

「へっ」と云いってから、彼かれは急きゅうに立停たちどまり、ゆっくりと深ふかく息いきをした、「――誰だれだって」

「人ひとに気きを悪わるくさせるなよ、上方かみがたからけえって来きたんだ、さあ、あいびねえ」男おとこは先さきに立たって歩あるきだした、「うちにゃあもっとびっくらすることがあるぜ」

蝶ちょう太夫たゆうは男おとこのあとからついていった。路地ろじの中なかはすっかり昏くれて、遊あそんでいる子供こどももなく、煮炊にたきの煙けむりもおさまった長屋ながやの家々いえいえでは、夕餉ゆうげを喰たべる賑にぎやかな声こえが聞きこえていた。――むささびの六ろくとなのる男おとこは、鼻唄はなうたをうたいながら歩あるいてゆき、井戸いど端はしから三さん軒けんめにある蝶ちょう太夫たゆうの住居じゅうきょの格子こうしを、声こえもかけずにあけて、さっさとはいっていった。肝きもを抜ぬかれて放心ほうしんしたような蝶ちょう太夫たゆうは、ぼんやりと、まるで他人たにんの家いえへでも来きたように、戸口とぐちのところで立停たちどまった。

「さっさとあがんねえな」と家いえの中なかから男おとこが呼よびかけた、「おめえのかみさんは出でてっちゃったぜ」

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