← Library‹ 五瓣の椿 第二話 四

蝶足ちょうあしの膳ぜんのまわりに一いち升しょう徳利とっくりが二ふたつ。仕出しだし屋やから取とったらしい肴さかなの、喰たべちらした皿さらや椀わんや鉢物はちものが、油あぶらの燃もえきって、うす暗ぐらくまたたく行燈あんどんの光ひかりに、さむざむとちらかっているのがみえた。

蝶ちょう太夫たゆうはかしこまって、両手りょうてを膝ひざへ突張つっぱり、うなだれた頭あたまをぐらぐらと、張子はりこの虎とらのように振ふっている。顔かおは蒼黒あおぐろく、筋すじがたるんで、唇くちびるの端はしから涎よだれが垂たれるのを、ときどき思おもいだしたように、右手みぎての甲こうで横撫よこなでにしていた。むささびの六ろくは大おおあぐらをかき、左手ひだりてに持もった飯めし茶碗ちゃわんの酒さけを、ちゅうちゅうと音おとをさせて、さもうまそうに啜すすりながら話はなしていた。

「もう辛抱しんぼうがきれた、ってえわけだ」と六ろくは云いった、「おれがへえって来きたとき、このくれえの風呂敷ふろしき包つつみを拵こしれえていたっけ、あら、六ろくさんじゃないの、っていうわけさ、それからいきなりお面めんへ来きたね、いきなりだ、あたしはこのうちを出でていきますからってよ」

「辛抱しんぼうがきれたって」と蝶ちょう太夫たゆうがとぼんと云いった、相手あいてに訊きくというのではなく、自分じぶんに問といかけるような口くちぶりで、そうして、それから眼めをあげて六ろくを見みた、「――おめえいつ来きたんだ」

「なんど訊きくんだ、昨日きのうの午ひるさがり江戸えどへ着ついて、ゆうべは三さん番ばん町ちょうの織田おださまの仲間部屋ちゅうげんべやへ泊とまり、今日きょうの午ひるめえにここへ来きたんだ」と六ろくは云いった、「するとお由よしさんがいま云いったとおりの愁嘆しゅうたん場じょうよ、酒さけの支度したくをしてくれながら、そうだ、愁嘆しゅうたん場じょうじゃあねえ、からりしゃんとしたあいそづかし、まったくのところあいそづかしだ、おい師匠ししょう、――おめえいいいろができたんだってな」

「そうか、出でていったか」彼かれは手てで口くちのまわりを横よこ撫なでにしながら、べそをかくような表情ひょうじょうでだらしなく笑わらった、「そいつあ、お誂あつらえむきだ」

「そりゃあよかった」

「合あいの手てぴったりだ、こっちは別わかれ話ばなしをどう切きりだしたらいいかと、迷まよってたところなんだ」

「そりゃあよかった」と六ろくが云いった、「それでこっちも口くちがききいいや、師匠ししょうにがっかりされでもしたら、いくらおれがむささびの六ろくにもしろ、こんなむしんはできやしねえ、仲次郎なかじろうとでも相談そうだんしなくちゃあなるめえかと思おもってたところだ」

蝶ちょう太夫たゆうが眼めを細ほそくして六ろくを見みた、「――仲次郎なかじろうがどうしたって」

「おめえに五十ごじゅう両りょう、都合つごうしてもらいたいんだ」

「おれか、おめえか」と蝶ちょう太夫たゆうがまをおいて云いった、「どっちか酔よってるらしいな」

「こんどのいろは凄すげえってえじゃねえか」と六ろくは茶碗ちゃわんから飲のんで云いった、「年ねんはまだ十じゅう七なな、八はち、姿すがたかたちがずばぬけていて、うちは大おお金持かねもち、師匠ししょうのためなら百ひゃく両りょうや二百にひゃく両りょう、右みぎから左ひだりへ貢みつぐってえ話はなしだぜ」

「景気けいきがいいな」と蝶ちょう太夫たゆうが云いった、「嘘うそにもしろそういう話はなしは景気けいきがいい、ひとつ、そういう穴あながあったら世話せわをして」

ぴしっという音おとがし、蝶ちょう太夫たゆうの頭あたまが左ひだりへ傾かたむいた。六ろくの平手ひらて打うちは激はげしいもので、蝶ちょう太夫たゆうの頬ほおが白しろくなり、それがしだいに赤あかくなった。六ろくは一いち升しょう徳利とっくりを取とって、自分じぶんの茶碗ちゃわんへたっぷり注そそいだ。

「勘弁かんべんしてくんな師匠ししょう」と六ろくは柔和にゅうわな声こえで云いった、「おらあこのごろこらえ性しょうがなくなっていけねえ、痛いたかったかい」

「こんなまねをして、おれがちぢみあがるとでも思おもってるのか、六ろく――」と蝶ちょう太夫たゆうがしめっぽい調子ちょうしで反問はんもんした、「やきがまわったな、おめえはやきがまわっちゃった、まえにはそんなやぼなまねはしなかった、上方かみがたへいって悪わるい食くい物ものにでもあたったんだろう」

「そんなところだろう」六ろくはおとなしく微笑びしょうした、「自分じぶんでもこらえ性しょうがねえのに驚おどろいてるんだ、なにしろすぐにまた江戸えどを売うらなきゃあならねえ始末しまつなんだから、――ときに五十ごじゅう両りょうはいつもらえるね」

「もういちど横よこっ面つらを張はるか」

「とんでもねえ、ありゃあおれのしくじりだ、勘弁かんべんしてくれって云いったじゃあねえか」

「もういちどやる気きはねえか」

「こっちの手ても痛いたえからな」と云いって六ろくは声こえをださずに笑わらった、「それより仲次郎なかじろう師匠ししょうのところへゆくほうが話はなしは早はやそうだ」

蝶ちょう太夫たゆうは黙だまった。

「七なな年ねんめえ、うん、ちょうど七なな年ねんめえだ」と六ろくは一いちと口くち飲のんで云いった、「そのころ岸沢きしざわで、大だい師匠ししょうのたて三味しゃみ線せんを弾ひいていた仲次郎なかじろうが、むりな喧嘩けんかを売うられたうえ、大事だいじな右みぎの腕うでをぶち折おられた、骨ほねは接ついだが撥ばちは満足まんぞくに動うごかねえ、岸沢きしざわをはなれてすっかりおちぶれてしまったが、仲次郎なかじろうのお鉢はちはおめえにまわって来きた」

六ろくは茶碗ちゃわんへ口くちを当あて、さもうまそうに喉のどを鳴ならして飲のみ、大おおきなおくびをして続つづけた、「――蝶ちょう太夫たゆう師匠ししょうは岸沢きしざわのたて三味しゃみ線せんで、世間せけんからやんやと騒さわがれている、柳橋やなぎばしきっての名妓めいぎをかみさんにしたうえ、なお女おんなにも金かねにも不ふ自由じゆうはねえ、それに比くらべると仲次郎なかじろうは可哀かわいそうに、いまでは門付かどづけをしながら酒浸さけびたりで、よく色街いろまちの裏うらなんぞに酔よい潰つぶれてるそうだ」

蝶ちょう太夫たゆうはくすくす笑わらいだした。手てを伸のばして汁椀しるわんのつゆを切きり、それに酒さけを注そそいで、ゆっくりと二にた口くちすすった。

「そいつあ気きの毒どくだ」と彼かれは云いった、「あの仲次郎なかじろうがそんなざまになってるとは気きの毒どくだ、どうだ六助ろくすけ、おめえ引取ひきとって世話せわをしてやらねえか」

「相談そうだんずくでな」と六ろくが云いった、「七なな年ねんめえ、なんのために喧嘩けんかを売うられ、なんのために腕うでを折おられたか、っていうことを話はなして、相談そうだんしたうえでなんとかするとしよう」

蝶ちょう太夫たゆうはまた笑わらった、「うまくゆくといいな」そしてまた笑わらった、「うまくゆくように願ねがってるぜ」

「云いうことはそれっきりか」

「訊ききてえことが一ひとつある」蝶ちょう太夫たゆうはひそめた声こえで云いった、「おめえ上方かみがたから帰かえって来きたばかりで、それだけのことをよく探さぐり出だせたな」

「知しりてえか」と云いって、空そらになった茶碗ちゃわんを六ろくはみつめた、「まずい酒さけだ」

そして、その茶碗ちゃわんを膳ぜんの上うえへ抛ほうりだした。汁椀しるわんがころげ、皿さら小鉢こばちが破やぶれて飛とんだ。

「おめえ、――」と六ろくは蝶ちょう太夫たゆうを見みた、「中村なかむら座ざの桝屋ますやにいた、佐吉さきちっていう出で方かたを知しってるか」

蝶ちょう太夫たゆうは黙だまっていた。

「この正月しょうがつっから、桝屋ますやをやめたってことは知しらねえか」

「そうか」と暫しばらくして蝶ちょう太夫たゆうは頷うなずいた、「佐吉さきちから聞ききだしたのか」

「佐吉さきちは誰だれかに飼かわれてるらしいぜ、誰だれが、なんのために飼かってるか知しらねえ、それについてはどうしても口くちを割わらなかったが、――女客おんなきゃくと役者やくしゃなんぞを取とり持もって来きた野郎やろうだから、そんな見当けんとうになにか筋すじがありそうだ、おめえなんぞも気きをつけたほうがいいぜ」

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