蝶足の膳のまわりに一升徳利が二つ。仕出し屋から取ったらしい肴の、喰べちらした皿や椀や鉢物が、油の燃えきって、うす暗くまたたく行燈の光に、さむざむとちらかっているのがみえた。
蝶太夫はかしこまって、両手を膝へ突張り、うなだれた頭をぐらぐらと、張子の虎のように振っている。顔は蒼黒く、筋がたるんで、唇の端から涎が垂れるのを、ときどき思いだしたように、右手の甲で横撫でにしていた。むささびの六は大あぐらをかき、左手に持った飯茶碗の酒を、ちゅうちゅうと音をさせて、さもうまそうに啜りながら話していた。
「もう辛抱がきれた、ってえわけだ」と六は云った、「おれがへえって来たとき、このくれえの風呂敷包みを拵れえていたっけ、あら、六さんじゃないの、っていうわけさ、それからいきなりお面へ来たね、いきなりだ、あたしはこのうちを出ていきますからってよ」
「辛抱がきれたって」と蝶太夫がとぼんと云った、相手に訊くというのではなく、自分に問いかけるような口ぶりで、そうして、それから眼をあげて六を見た、「――おめえいつ来たんだ」
「なんど訊くんだ、昨日の午さがり江戸へ着いて、ゆうべは三番町の織田さまの仲間部屋へ泊り、今日の午めえにここへ来たんだ」と六は云った、「するとお由さんがいま云ったとおりの愁嘆場よ、酒の支度をしてくれながら、そうだ、愁嘆場じゃあねえ、からりしゃんとしたあいそづかし、まったくのところあいそづかしだ、おい師匠、――おめえいいいろができたんだってな」
「そうか、出ていったか」彼は手で口のまわりを横撫でにしながら、べそをかくような表情でだらしなく笑った、「そいつあ、お誂えむきだ」
「そりゃあよかった」
「合の手ぴったりだ、こっちは別れ話をどう切りだしたらいいかと、迷ってたところなんだ」
「そりゃあよかった」と六が云った、「それでこっちも口がききいいや、師匠にがっかりされでもしたら、いくらおれがむささびの六にもしろ、こんなむしんはできやしねえ、仲次郎とでも相談しなくちゃあなるめえかと思ってたところだ」
蝶太夫が眼を細くして六を見た、「――仲次郎がどうしたって」
「おめえに五十両、都合してもらいたいんだ」
「おれか、おめえか」と蝶太夫がまをおいて云った、「どっちか酔ってるらしいな」
「こんどのいろは凄えってえじゃねえか」と六は茶碗から飲んで云った、「年はまだ十七、八、姿かたちがずばぬけていて、うちは大金持、師匠のためなら百両や二百両、右から左へ貢ぐってえ話だぜ」
「景気がいいな」と蝶太夫が云った、「嘘にもしろそういう話は景気がいい、ひとつ、そういう穴があったら世話をして」
ぴしっという音がし、蝶太夫の頭が左へ傾いた。六の平手打ちは激しいもので、蝶太夫の頬が白くなり、それがしだいに赤くなった。六は一升徳利を取って、自分の茶碗へたっぷり注いだ。
「勘弁してくんな師匠」と六は柔和な声で云った、「おらあこのごろこらえ性がなくなっていけねえ、痛かったかい」
「こんなまねをして、おれがちぢみあがるとでも思ってるのか、六――」と蝶太夫がしめっぽい調子で反問した、「やきがまわったな、おめえはやきがまわっちゃった、まえにはそんなやぼなまねはしなかった、上方へいって悪い食い物にでもあたったんだろう」
「そんなところだろう」六はおとなしく微笑した、「自分でもこらえ性がねえのに驚いてるんだ、なにしろすぐにまた江戸を売らなきゃあならねえ始末なんだから、――ときに五十両はいつもらえるね」
「もういちど横っ面を張るか」
「とんでもねえ、ありゃあおれのしくじりだ、勘弁してくれって云ったじゃあねえか」
「もういちどやる気はねえか」
「こっちの手も痛えからな」と云って六は声をださずに笑った、「それより仲次郎師匠のところへゆくほうが話は早そうだ」
蝶太夫は黙った。
「七年めえ、うん、ちょうど七年めえだ」と六は一と口飲んで云った、「そのころ岸沢で、大師匠のたて三味線を弾いていた仲次郎が、むりな喧嘩を売られたうえ、大事な右の腕をぶち折られた、骨は接いだが撥は満足に動かねえ、岸沢をはなれてすっかりおちぶれてしまったが、仲次郎のお鉢はおめえにまわって来た」
六は茶碗へ口を当て、さもうまそうに喉を鳴らして飲み、大きなおくびをして続けた、「――蝶太夫師匠は岸沢のたて三味線で、世間からやんやと騒がれている、柳橋きっての名妓をかみさんにしたうえ、なお女にも金にも不自由はねえ、それに比べると仲次郎は可哀そうに、いまでは門付をしながら酒浸りで、よく色街の裏なんぞに酔い潰れてるそうだ」
蝶太夫はくすくす笑いだした。手を伸ばして汁椀のつゆを切り、それに酒を注いで、ゆっくりと二た口すすった。
「そいつあ気の毒だ」と彼は云った、「あの仲次郎がそんなざまになってるとは気の毒だ、どうだ六助、おめえ引取って世話をしてやらねえか」
「相談ずくでな」と六が云った、「七年めえ、なんのために喧嘩を売られ、なんのために腕を折られたか、っていうことを話して、相談したうえでなんとかするとしよう」
蝶太夫はまた笑った、「うまくゆくといいな」そしてまた笑った、「うまくゆくように願ってるぜ」
「云うことはそれっきりか」
「訊きてえことが一つある」蝶太夫はひそめた声で云った、「おめえ上方から帰って来たばかりで、それだけのことをよく探り出せたな」
「知りてえか」と云って、空になった茶碗を六はみつめた、「まずい酒だ」
そして、その茶碗を膳の上へ抛りだした。汁椀がころげ、皿小鉢が破れて飛んだ。
「おめえ、――」と六は蝶太夫を見た、「中村座の桝屋にいた、佐吉っていう出方を知ってるか」
蝶太夫は黙っていた。
「この正月っから、桝屋をやめたってことは知らねえか」
「そうか」と暫くして蝶太夫は頷いた、「佐吉から聞きだしたのか」
「佐吉は誰かに飼われてるらしいぜ、誰が、なんのために飼ってるか知らねえ、それについてはどうしても口を割らなかったが、――女客と役者なんぞを取り持って来た野郎だから、そんな見当になにか筋がありそうだ、おめえなんぞも気をつけたほうがいいぜ」