← Library‹ 五瓣の椿 第二話 五

「佐吉さきちにどこで会あった」と蝶ちょう太夫たゆうが訊きいた。

「まずい酒さけだったな」六ろくはそう云いって立たちあがった、「金きんが出来できたら例れいの仲間なかま部屋へやへ知しらせてくれ、五いつ日かだけ待まってやる、今日きょうから数かぞえて五いつ日かだ、掛かけ値ねなしだぜ」

「まずい酒さけで悪わるかったな」と蝶ちょう太夫たゆうが云いった、「こんどふところのあったかいときにはうまい酒さけを飲のませてやるよ」

六ろくはなにも云いわずに出でていった。

出でていった六ろくの暢気のんきそうな鼻唄はなうたが聞きこえなくなると、蝶ちょう太夫たゆうは肱枕ひじまくらで横よこになった。その顔色かおいろはいま蒼黒あおぐろくなり、唇くちびるがたるみ、眼めは壁かべの一いち点てんをみつめたまま動うごかなくなった。お由よしは出でていった、と彼かれは思おもった。しかしそれは重大じゅうだいなことではない、お由よしの躯むくろの持もっている魅力みりょくは稀まれなものであるが、美味びみなほど飽あきやすいもので、その特徴とくちょうの稀まれなものであることが、却かえって彼かれには鼻はなについて来きていた。これまでの女おんな遍歴へんれきで彼かれが得えたものは、石いしを踊おどらせようとして汗あせみずくになって徒労とろうに終おわるか、反対はんたいにこっちが踊おどらされて疲労ひろう困憊こんぱいするか、いずれにせよ、結局けっきょくはこちらのへたばるのがおちであった。

「これであの娘むすめにもいなやは云いわせないぞ」と彼かれは呟つぶやいた、「夫婦ふうふにならなくてはいやだって、自分じぶんのほうから云いいだしたんだからな、こんどこそ逃にがさないぞ」

ああいう嬌いたしなや、いろけの溢あふれるような表情ひょうじょうをもった女おんなは、そのことになると却かえってつつましく、求もとめかたも控ひかえめで、静しずかなのが一般いっぱんの例れいだといわれる。蝶ちょう太夫たゆうの経験けいけんでもそういう例れいが多おおかったし、そういう相手あいてには興味きょうみがなかった。しかしいまは違ちがう。おれもそろそろおちつく年としだ、と彼かれは思おもう。一生いっしょうおちつくというわけでもない、男おとことしてはまだこれからであるが、このへんでいちどおちついた世帯しょたいを持もち、芸げいのほうに専念せんねんしてみるのもいいだろう。そうだ、三十さんじゅう二にといえばそのくらいの年としだ、おりうならちょうどいい、親おやから金かねも出でるだろうし、半年はんとしばかり芝居しばいのほうを休やすんで、みっちり腕うでにみがきをかけてやろう、と彼かれは心こころの中なかで思おもった。

「だが、六助ろくすけのやつ」暫しばらくして、彼かれはふと声こえをあげた、「いやそうじゃあない」彼かれは自分じぶんに首くびを振ふった、「――仲次郎なかじろうのことなんか構かまわない、たとえ腕うでを折おった裏話うらばなしをしたって、折おった本人ほんにんは六ろくの野郎やろうで、おれが頼たのんだなんていう証拠しょうこはない、もし仲次郎なかじろうが仕返しかえしをするとしたら、当とうの相手あいては六助ろくすけにきまっている、そのことはいいんだ」そして彼かれは眼めをつむり、口くちの中なかで不審ふしんに呟つぶやいた、「それよりも気きになるのは、佐吉さきちが誰だれかに飼かわれているということだ、――佐吉さきちは正月しょうがつに桝屋ますやをよした、おれはそうかと思おもっただけで気きにもとめなかったが、誰だれかに飼かわれているというのはへんな話はなしだ、誰だれに、どんな理由りゆうで飼かわれているのかは、口くちを割わらなかったというが、……芝居しばい茶屋ちゃやの人間にんげんで、女客おんなきゃくと役者やくしゃや芸人げいにんを取とり持もっていた、そんな見当けんとうになにか曰いわくがありそうだと云いったな」

蝶ちょう太夫たゆうはじっと眼めを据すえて、暗くらい天床てんじょうの一いち点てんを見みまもった。

――おめえなんぞも気きをつけたほうがいいぜ。

むささびの六ろくの嘲笑ちょうしょうするような声こえが、耳みみの奥おくのほうで聞きこえた。慥たしかに、彼かれも佐吉さきちの取持とりもちで幾いく人にんかの女客おんなきゃくと逢あった。後家ごけ、人妻ひとづま、娘むすめ。年増としまもあり若わかいのもあった。たいていは顔かおつきも思おもいだせないが、中なかには覚おぼえている相手あいても二人ふたりや三さん人にんはあった。

「だが、それがどうした」と彼かれは眼めをつむったままで記憶きおくにある女おんなを思おもいうかべながら、居直いなおったように呟つぶやいた、「――桝屋ますやでわけのできた相手あいては、みんな向むこうから手てを出だしたんだ、こっちは座敷ざしきを勤つとめただけなんだから、そんなこって因縁いんねんをつけられる筋すじはねえ、おどかすなってんだ」

その呟つぶやきには、言葉ことばほどの強つよさはなく、彼かれは眼めをあいて起おき直なおった。

「引越ひっこしだな」と彼かれは声こえに出だして云いった、「六ろくのやつにうろうろされても迷惑めいわくだし、この町内ちょうないにも長ながくいすぎた、気きを変かえるためにも引越ひっこすとしよう」

その翌日よくじつ、蝶ちょう太夫たゆうは引越ひっこしをした。

彼かれはふところが苦くるしかった。その月つきの芝居しばいでは「松朝扇ときわのいろおうぎのうつし絵え」という、大切おおぎりの所作事しょさごとに出でるだけで、前借まえがりが溜たまっているため、給金きゅうきんも半分はんぶん止とめになっていたし、座敷ざしきの数かずも少すくなかった。おりうから貰もらった一両いちりょうのうち、(これも溜たまっている)店賃たなちんに一いち分ふんだけ入いれ、家財かざい道具どうぐのうちごく必要ひつような物ものを残のこして、あとはきれいに売うってしまった。お由よしの衣類いるいなどもあったが、それもいっしょに売うり払はらい、僅わずかな荷物にもつは車屋くるまやに頼たのんで置おいて、家いえを捜さがしにでかけた。九きゅう間けん堀ほりに常磐津ときわず三千さんぜん太夫たゆうというなかまがあり、そこで訊きいて、浅草あさくさの福井ふくい町まちまでいっしょにいってもらった。――福井ふくい町ちょう一いち丁目ちょうめの横町よこちょうで、下したは老人ろうじん夫婦ふうふが荒物あらもの屋やをしてい、二に階かいの六ろく帖じょうを貸かすというのであった。荒物あらもの屋やは隠居いんきょしごとで、生活せいかつ費ひは息子むすこのほうから来くるらしい。こっちのしょうばいを聞きくと、ちょっと渋しぶい顔かおをしたが、うちで弟子でしは取とらないという約束やくそくで、はなしはきまった。

その日ひの芝居しばいの済すんだあと、三千さんぜん太夫たゆうと一杯いっぱいやりながら、彼かれは六助ろくすけが上方かみがたから戻もどって来きたことを告つげ、こんどの住居じゅうきょをないしょにしてくれるように、と頼たのんだ。三千さんぜん太夫たゆうも六助ろくすけの戻もどったことは知しっていて、おれは饒舌じょうぜつりはしないが、六ろくの眼めから逃にげることはできないだろう、と云いった。べつに逃にげるわけではない、うるさいだけなんだ、と蝶ちょう太夫たゆうは云いった。三千さんぜん太夫たゆうはちらと横眼よこめをはしらせたが、私わたくしは黙だまってるよ、ともういちど云いった。

蝶ちょう太夫たゆうはおりうからの「知しらせ」を待まった。それはいつも中村なかむら座ざの楽屋がくやへ来くるのであるが、十じゅう月がつの芝居しばいが終おわり、次つぎの顔見世かおみせは十じゅう一いち月がつ二十はつ日かが初日しょにちなので、知しらせを受うける手掛てがかりに困こまった。小屋こやは休やすみでも、楽屋がくや番ばんはずっと詰つめている。次つぎの興行こうぎょうのために、裏方うらかたの出入でいりがあるためだが、出語でがたりの芸人げいにんが、毎日まいにちそう楽屋がくやを覗のぞくわけにはいかない。楽屋がくや番ばんの平造へいぞうという老人ろうじんにはそれだけのこともしてあり、平造へいぞうもよく心得こころえてはいるが、それにしても「知しらせはなかったか」と訊ききにゆくことは、自尊じそん心しんがゆるさなかった。

「一いち年ねんちかくも逢あっていて、いどころも訊ききだせなかったなんて」彼かれは自分じぶんに舌打したうちをした、「岸沢きしざわ蝶ちょう太夫たゆうともある者ものが、だらしのねえ話はなしだ」

いや、こっちもだらしがなかったかもしれないが、あの娘むすめも隙すきはみせなかった。もう一いちと押おしというところでいつも躰たいを躱かわす、あのみごとさはどうだ、と彼かれは思おもった。彼かれはよく考かんがえてみて、それから独ひとりで笑わらった。

「おい、しっかりしろ」と彼かれは云いった、「生娘きむすめだから遠慮えんりょをしていたんだ、それだけのこった、こんどこそ、力ちからずくでもものにしてみせるから見みていやあがれ」

むささびの六ろくは姿すがたをみせなかった。

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%