← Library‹ 五瓣の椿 第二話 六

六助ろくすけも来こず、仲次郎なかじろうのあらわれるようすもなかった。

蝶ちょう太夫たゆうは師匠ししょうの岸沢きしざわ小しょう式部しきぶの稽古けいこ所しょへかよい、弟子でしたちに稽古けいこをつけると、次つぎに常磐津ときわず豊後ぶんご大掾だいじょうの家いえへまわって、次つぎの狂言きょうげんに出だす語かたり物ものの三味しゃみ線せんを合あわせる、という日ひを送おくっていた。三み日かにいちどくらいの割わりで、中村なかむら座ざの楽屋がくやへ寄よってみたが、おりうからの「知しらせ」はなく、ふところは苦くるしくなる一方いっぽうであった。まるでみんなが牒しめし合あわせでもしたように、お由よしもあのまま寄よりつかない。残のこした道具どうぐや衣類いるいにみれんはないとしても、あいそづかしの一ひと言ことくらい云いいに来くる筈はずである。――そうすれば小遣こづかいのちっとはねだれるんだ、と蝶ちょう太夫たゆうは心こころの奥おくで呟つぶやいた。万一まんいちにも、おりうがこれっきりよりつかないとすれば、お由よしとはっきり別わかれてしまうわけにはいかない。お由よしは世帯せたい持もちもいいし、困こまったときの金かねのくめんも上手じょうずだ。

「お由よしと手切てぎれになるのはまずいな、うん」と蝶ちょう太夫たゆうは思案しあんし直なおすように呟つぶやいた、「どっちにしろいまはまずい、いちおう紐ひもを付つけておくほうがいいだろう」

彼かれは柳橋やなぎばしへゆく気きになった。

柳橋やなぎばしにはお由よしの姐ねえさんに当あたるお政まさがいる。身みを寄よせるとすればまずお政せいのところであろう。そう思おもい立たったとき、中村なかむら座ざの狂言きょうげんがつき替かわって、常磐津ときわずは出でないことになり、彼かれのからだもあくことになった。それは十じゅう一いち月がつ十とお日かのことで、蝶ちょう太夫たゆうはすっかり慌あわてた。

「なにもかも見当けんとうが外はずれやあがる、おかしいな」彼かれは不安ふあんそうに呟つぶやいた、「みんながおれを覘ねらって、おれの物ものを一いち枚まいずつ剥はいでゆくようじゃないか」

こうなればいよいよ、お由よしと縒よりを戻もどしておかなければならない、そう思おもったとき、おりうから「知しらせ」があった。――豊後ぶんご大掾だいじょうの家いえで芝居しばいがつき替かわったのを知しったあと、中村なかむら座ざへまわってみると、楽屋がくや番ばんの平造へいぞうが手紙てがみを渡わたした。引越ひっこし先さきがわからないので、どうしようかと迷まよっていたところだ。平造へいぞうがそんなことを云いうのを聞ききながしにして、蝶ちょう太夫たゆうはいそぎ足あしにそこを去さった。

彼かれは胸むねがときめいているのを感かんじた。少年しょうねんのころ恋人こいびとから文ぶんを貰もらったときのように、みぞおちのところが熱あつくなり、足あしが地面じめんから浮うくような気持きもちだった。

「こんなこともあるんだな」彼かれは自分じぶんでてれながら云いった、「おい蝶ちょう太夫たゆう、きさまにもそんなところがあったのか」

場所ばしょは深川ふかがわの門前もんぜん仲町なかちょう「岡田おかだ」という料理りょうり茶屋ちゃやで、時刻じこくは午後ごご四し時じと書かいてあった。走はしってでもいかなければまにあわない、蝶ちょう太夫たゆうは慌あわてて駕籠かごをひろった。――二ふた日かも湯ゆにはいっていないし髪かみも三み日かまえに結ゆったままで、元結もとゆいの緩ゆるんでいるのが気きになった。髭ひげの濃こい性せいで、朝あさ剃そったのだが、撫なでてみると口くちのまわりや顎あごがもうざらざらしていた。

「逢曳あいびきにゆく風態ふうていじゃないな」彼かれは舌打したうちをした、「これじゃあ濡ぬれ場ばも怪あやしいもんだ」

その茶屋ちゃやはまだ建たててからまがないらしく、二に階かい造つくりの大おおきな建物たてものだし、広ひろい中庭なかにわには池いけがあり、石いしや植込うえこみの配置はいちなども凝こったものであった。――女中じょちゅうに案内あんないされたのは、二に階かいの廊下ろうかをずっといって、右みぎへ曲まがった座敷ざしきで、そこだけ離はなれのようになっていた。その八はち帖じょうにはもう膳ぜんが出でてい、火ひのよく熾おこった火鉢ひばちには燗鍋かんなべが湯気ゆげを立たてていたし、派手はでな色いろの座ざ蒲団ふとんが二に枚まい出だしてあった。

「あちらはいまお化粧けしょうを直なおしていらっしゃいますから」と女中じょちゅうが云いった、「どうぞ先さきにめしあがっていて下くださいと仰おっしゃってました」

そして膳ぜんの脇わきから燗かん徳利とっくりを取とって、燗鍋かんなべの中なかへ入いれた。見みると、そこには盆ぼんにのせて、燗かん徳利とっくりが七なな本ほん並ならんでいた。

――水みずいらずという趣向しゅこうか。

ここで燗かんをつけて、二人ふたりっきりで飲のもうというのであろう。若わかいにしてはできすぎた膳立ぜんだてだ。こいつは手てごわいかもしれないぞ、と蝶ちょう太夫たゆうは思おもった。燗かんは自分じぶんでするから、と云いって女中じょちゅうを去さらせ、座ざ蒲団ふとんを火鉢ひばちの側そばへ移うつして坐すわった。――彼かれが徳利とっくりを出だして、盃さかずきに二ふたつ飲のむとおりうが来きた。襖ふすまの外そとで声こえをかけたので、女中じょちゅうかと思おもったが、はいって来きたのを見みるとおりうであった。

湯ゆにはいったのだろうか、洗あらい髪がみをさっと束たばねて背せに垂たらし、浴衣ゆかたに丹前たんぜんを重かさねた上うえへ、黒衿くろえりを掛かけた半纒はんてん、紫色むらさきいろの地ちに絞しぼりで大おおきく紅葉もみじの飛とび模様もようを染そめた、――をひっかけ、口紅くちべにはつけず、うす化粧けしょうをしていた。蝶ちょう太夫たゆうは心こころの中なかで「うっ」といった。これまでの娘むすめむすめしたつくりと裏返うらがえしのような、あだっぽい、むしろ伝法でんぽうな姿すがたであって、しかもその身みごなしの柔軟じゅうなんさや、羞はにかみのために消きえたそうな表情ひょうじょうのういういしさは、たとえがたいほど嬌かしく、いろめいてみえた。

――沢田さわだ屋やだ、と蝶ちょう太夫たゆうは思おもった。東蔵とうぞうそっくりだ。

おりうは膳ぜんの前まえへ来きて坐すわり、そっと微笑びしょうしたまま俯向うつむいてしまった。蝶ちょう太夫たゆうはまた胸むねのときめきを感かんじ、もう一ひとつ手酌てじゃくで飲のんだが、酒さけをこぼした。

「貴女あなたは薄情はくじょうなひとだ」彼かれは自分じぶんの声こえが昂たかぶっているのに気きづいた、「あのときはあんなふうに消きえてしまうし、それっきり鼬いたちの道みちで、いくら逢あいたくっても逢あうてだてはなし、罪つみなひとだ、おりうさんというひとは」

おりうは顔かおをそむけた。俯向うつむいたままで、重おもたげにゆっくりと脇わきのほうへ向むき、しんと黙だまっていた。――蝶ちょう太夫たゆうは怨うらみを述のべた。どんなに彼女かのじょが恋こいしかったか、どんなに逢あいたかったか、そのうえ大事だいじな話はなしがあること、それは自分じぶんたちの一生いっしょうにかかわることで、そのためにも早はやく逢あいたかったことなど、――話はなしているうちに呼吸こきゅうが荒あらくなり、ふしぎな感動かんどうのため躯からだがふるえてきた。

「私わたくしがこんな気持きもちになったのは初はじめてだ」と彼かれは云いった、「生うまれてこのかた初はじめて、恋こいが辛つらい苦くるしいものだということを知しった」

おりうはなにも云いわず、身動みうごきもしなかった。

「聞きいておくれ、おりうさん」と彼かれは思おもい詰つめた調子ちょうしで云いった、「私わたくしはお由よしと別わかれた、おまえの望のぞみどおりお由よしと別わかれたよ、おりうさんの望のぞみどおりだ、あのときの約束やくそくは覚おぼえておいでだろうね」

おりうは顔かおをそむけたまま、「本石ほんごく町まちのむさし屋やという薬問屋くすりどんやを知しっているか」と訊きいた。蝶ちょう太夫たゆうはけげんそうな眼めをした。

「さあ、――聞きいたようにも思おもうが」

「おそのっていうおかみさんがいたって」と云いって、静しずかにおりうは振ふり向むいた、「――お師匠ししょうさん、知しってらっしゃるんでしょう」

蝶ちょう太夫たゆうはあいまいに頷うなずいた、「そう云いえば、ひところごひいきになったことがあるようだけれど」

「うそ仰おっしゃい」とおりうが云いった、「あたしすっかり聞ききましたよ」

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