六助も来ず、仲次郎のあらわれるようすもなかった。
蝶太夫は師匠の岸沢小式部の稽古所へかよい、弟子たちに稽古をつけると、次に常磐津豊後大掾の家へまわって、次の狂言に出す語り物の三味線を合わせる、という日を送っていた。三日にいちどくらいの割で、中村座の楽屋へ寄ってみたが、おりうからの「知らせ」はなく、ふところは苦しくなる一方であった。まるでみんなが牒し合せでもしたように、お由もあのまま寄りつかない。残した道具や衣類にみれんはないとしても、あいそづかしの一と言くらい云いに来る筈である。――そうすれば小遣いのちっとはねだれるんだ、と蝶太夫は心の奥で呟いた。万一にも、おりうがこれっきりよりつかないとすれば、お由とはっきり別れてしまうわけにはいかない。お由は世帯持ちもいいし、困ったときの金のくめんも上手だ。
「お由と手切れになるのはまずいな、うん」と蝶太夫は思案し直すように呟いた、「どっちにしろいまはまずい、いちおう紐を付けておくほうがいいだろう」
彼は柳橋へゆく気になった。
柳橋にはお由の姐さんに当るお政がいる。身を寄せるとすればまずお政のところであろう。そう思い立ったとき、中村座の狂言がつき替って、常磐津は出ないことになり、彼のからだもあくことになった。それは十一月十日のことで、蝶太夫はすっかり慌てた。
「なにもかも見当が外れやあがる、おかしいな」彼は不安そうに呟いた、「みんながおれを覘って、おれの物を一枚ずつ剥いでゆくようじゃないか」
こうなればいよいよ、お由と縒を戻しておかなければならない、そう思ったとき、おりうから「知らせ」があった。――豊後大掾の家で芝居がつき替ったのを知ったあと、中村座へまわってみると、楽屋番の平造が手紙を渡した。引越し先がわからないので、どうしようかと迷っていたところだ。平造がそんなことを云うのを聞きながしにして、蝶太夫はいそぎ足にそこを去った。
彼は胸がときめいているのを感じた。少年のころ恋人から文を貰ったときのように、みぞおちのところが熱くなり、足が地面から浮くような気持だった。
「こんなこともあるんだな」彼は自分でてれながら云った、「おい蝶太夫、きさまにもそんなところがあったのか」
場所は深川の門前仲町「岡田」という料理茶屋で、時刻は午後四時と書いてあった。走ってでもいかなければまにあわない、蝶太夫は慌てて駕籠をひろった。――二日も湯にはいっていないし髪も三日まえに結ったままで、元結の緩んでいるのが気になった。髭の濃い性で、朝剃ったのだが、撫でてみると口のまわりや顎がもうざらざらしていた。
「逢曳きにゆく風態じゃないな」彼は舌打ちをした、「これじゃあ濡れ場も怪しいもんだ」
その茶屋はまだ建ててからまがないらしく、二階造りの大きな建物だし、広い中庭には池があり、石や植込みの配置なども凝ったものであった。――女中に案内されたのは、二階の廊下をずっといって、右へ曲った座敷で、そこだけ離れのようになっていた。その八帖にはもう膳が出てい、火のよく熾った火鉢には燗鍋が湯気を立てていたし、派手な色の座蒲団が二枚出してあった。
「あちらはいまお化粧を直していらっしゃいますから」と女中が云った、「どうぞ先にめしあがっていて下さいと仰しゃってました」
そして膳の脇から燗徳利を取って、燗鍋の中へ入れた。見ると、そこには盆にのせて、燗徳利が七本並んでいた。
――水いらずという趣向か。
ここで燗をつけて、二人っきりで飲もうというのであろう。若いにしてはできすぎた膳立てだ。こいつは手ごわいかもしれないぞ、と蝶太夫は思った。燗は自分でするから、と云って女中を去らせ、座蒲団を火鉢の側へ移して坐った。――彼が徳利を出して、盃に二つ飲むとおりうが来た。襖の外で声をかけたので、女中かと思ったが、はいって来たのを見るとおりうであった。
湯にはいったのだろうか、洗い髪をさっと束ねて背に垂らし、浴衣に丹前を重ねた上へ、黒衿を掛けた半纒、紫色の地に絞りで大きく紅葉の飛び模様を染めた、――をひっかけ、口紅はつけず、うす化粧をしていた。蝶太夫は心の中で「うっ」といった。これまでの娘むすめしたつくりと裏返しのような、あだっぽい、むしろ伝法な姿であって、しかもその身ごなしの柔軟さや、羞みのために消えたそうな表情のういういしさは、たとえがたいほど嬌かしく、いろめいてみえた。
――沢田屋だ、と蝶太夫は思った。東蔵そっくりだ。
おりうは膳の前へ来て坐り、そっと微笑したまま俯向いてしまった。蝶太夫はまた胸のときめきを感じ、もう一つ手酌で飲んだが、酒をこぼした。
「貴女は薄情なひとだ」彼は自分の声が昂ぶっているのに気づいた、「あのときはあんなふうに消えてしまうし、それっきり鼬の道で、いくら逢いたくっても逢うてだてはなし、罪なひとだ、おりうさんというひとは」
おりうは顔をそむけた。俯向いたままで、重たげにゆっくりと脇のほうへ向き、しんと黙っていた。――蝶太夫は怨みを述べた。どんなに彼女が恋しかったか、どんなに逢いたかったか、そのうえ大事な話があること、それは自分たちの一生にかかわることで、そのためにも早く逢いたかったことなど、――話しているうちに呼吸が荒くなり、ふしぎな感動のため躯がふるえてきた。
「私がこんな気持になったのは初めてだ」と彼は云った、「生れてこのかた初めて、恋が辛い苦しいものだということを知った」
おりうはなにも云わず、身動きもしなかった。
「聞いておくれ、おりうさん」と彼は思い詰めた調子で云った、「私はお由と別れた、おまえの望みどおりお由と別れたよ、おりうさんの望みどおりだ、あのときの約束は覚えておいでだろうね」
おりうは顔をそむけたまま、「本石町のむさし屋という薬問屋を知っているか」と訊いた。蝶太夫はけげんそうな眼をした。
「さあ、――聞いたようにも思うが」
「おそのっていうおかみさんがいたって」と云って、静かにおりうは振り向いた、「――お師匠さん、知ってらっしゃるんでしょう」
蝶太夫はあいまいに頷いた、「そう云えば、ひところごひいきになったことがあるようだけれど」
「うそ仰しゃい」とおりうが云った、「あたしすっかり聞きましたよ」