← Library‹ 五瓣の椿 第二話 七

「聞きいたって、なにを」

「その人ひとをうまくたらして、三さん年ねんの余あまりも逢あい続つづけていたって」おりうは溶とけるような眼めで彼かれを見みた、「その人ひとには病身びょうしんの良人おっとがあったけれど、お師匠ししょうさんにのぼせあがって、良人おっとの面倒めんどうもみず、夢中むちゅうになって逢曳あいびきを続つづけていたんですって」

「ちょっと、ちょっと待まった」彼かれは手てをあげて遮さえぎった、「そんないったいそんなことを誰だれから聞きいたんです」

「名ながわかれば云いいぬけができると思おもうんですか」

「私わたくしは芸人げいにんです」と彼かれは坐すわり直なおした、「芸人げいにんにごひいきは付つき物ものだし、ごひいきなしに芸人げいにんは勤つとまるものじゃあありません」

「むさし屋やの人ひともごひいきだけだったの」

「少すくなくとも、おりうさんを知しるまえのことです」

「そう固かたくならないで」おりうは微笑びしょうし、膝ひざですり寄よって燗かん徳利とっくりを取とった、「お酌しゃくをしましょう、あら、手てが震ふるえてるじゃないのお師匠ししょうさん、あたしやきもちをやいてるんじゃないのよ、ただ本当ほんとうのことが知しりたかっただけ」

「本当ほんとうのことを云いいましょう」

「そんなに固かたくならないで」とおりうはまた微笑びしょうした、「どうぞもう一ひとつ」

「おりうさんは」盃さかずきを下したに置おいて彼かれは屹きっとなった、「私わたくしの云いうことを信用しんようしてくれないんですか」

「作つくり話ばなしを信用しんようしろって云いうの」

「むさし屋やのごしんぞさんとは、慥たしかに逢あっていました」彼かれは証言しょうげんするように云いった、「けれどもそれは愛情あいじょうでもなんでもありゃあしない、ごひいきと芸人げいにんのつきあいというだけなんです、貴女きじょだっておよそ察さっしているだろうけれど、芸人げいにんはごひいきのうしろ楯だてと、引立ひきたてがなければやってはゆけません」

おりうはながし眼めをくれた、「あら、そうかしら」

「派手はでなしょうばいだから金きんが要いります、恥はずかしいことを云いうようだが、着きる物ものや身みに付つける物もの、なかまのつきあいもあるし、芝居しばいへ出でるにしたって表方おもてかた、裏方うらかた、道具どうぐ方ほうなんぞにつけ届とどけをしなければならない、たとえば」彼かれはもの悲がなしげに云いった、「そのつけ届とどけが足たりなかったばかりに、出語でがたり山台さんたいが崩くずれて、けがをした太夫たゆうもいるくらいです」

「それでむさし屋やのおかみさんなんぞも、お金かねだけがめあてで逢あっていたのね」

「もちろんですよ」彼かれは唾つばをのんだ、「貴女きじょは御ご存ぞんじないだろうけれど、あの女おんなはたいへんな浮気うわき者もので、私わたくしのほかに男おとこが幾いく人にんいたか知しれやあしません、尤もっとも、――御ご亭主ていしゅという人ひとが癆痎ろうがい病やみで、陰気いんきな、味あじもそっけもない人ひとだっていうことだから」

「注そそぎましょう」おりうは徳利とっくりを取とった、「飲のみながらお話はなしなさいな」

蝶ちょう太夫たゆうは盃さかずきを持もった、「ほかに話はなすことなんかありゃしません、むさし屋やの御ご亭主ていしゅは血ちを吐はきながら、ごしんぞといっしょに自火じかで焼やけ死しんだそうだが、金かねのあるに任まかせて勝手かってなことばかりしたから、罰ばちが当あたったようなもんでしょう」

「もっとお重かさねなさいな」

「因果いんがというものはあるもんだ」蝶ちょう太夫たゆうは飲のみながら続つづけた、「あのごしんぞをあんな浮気うわき者ものにしたのも、御ご亭主ていしゅの罪つみでしょう、どっちもどっち、結局けっきょくお互たがいの罪つみでお互たがいが罰ばつに当あたった、あの二人ふたりが夫婦ふうふになったのが、そもそも因果いんがというもんでしょうさ」

「それで、――」とおりうが云いった、「お師匠ししょうさんには罰ばつは当あたらないのね」

「私わたくしに罰ばつが」と彼かれはおりうを見みた、「どうして私わたくしに罰ばつが当あたるんです」

「いいわよ、めしあがれ」おりうは酌しゃくをしてやった、「あとをつけましょうね」

そしておりうが立たちあがったとき、廊下ろうかの向むこうから暴あらあらしい足音あしおとが近ちかづいて来き、襖ふすまの外そとで停とまると、「こちらに岸沢きしざわの師匠ししょうはいますか」と声こえをかけた。蝶ちょう太夫たゆうはぎょっとした。紛まぎれもなくむささびの六ろくの声こえで、彼かれは慌あわてておりうに手てを振ふった。しかしそれより早はやく、おりうがその声こえに答こたえた。

「はい、お師匠ししょうさんはいますが、どなたですか」

「六助ろくすけてえ者ものです」と向むこうは云いった、「失礼しつれいしてへえります、御免ごめん下ください」

襖ふすまをあけて、二人ふたりの男おとこがはいって来きた。一人ひとりは六助ろくすけ、一人ひとりは木綿もめん縞しまの布子ぬのこに角帯かくおびをしめ、筒袖つつそでの半纒はんてんをひっかけている。年としは三十さんじゅう二、三にさんだろうが、顔色かおいろも悪わるく、眼めも頬ほおもおちくぼんでいるし、月代さかやきが伸のびているためかずっと老ふけてみえた。

「おい蝶ちょう太夫たゆう」とその男おとこが云いった、「仲次郎なかじろうだ、覚おぼえているか」

蝶ちょう太夫たゆうは盃さかずきを持もったまま黙だまっていた。盃さかずきが重おもいので全身ぜんしんで持もちこたえている、といったふうな姿すがたであった。二人ふたりとも酔よっているらしい。六助ろくすけはへらへら笑わらいながら、どかっと音おと荒あらくあぐらをかき、仲次郎なかじろうという男おとこはこっちへ来きて、蝶ちょう太夫たゆうの前まえへ片膝かたひざ立だちに坐すわった。色いろの悪わるい顔かおが蒼黒あおぐろく怒張どちょうし、おちくぼんだ眼めには憎悪ぞうおが火ひとなって燃もえているようにみえた。

「なんとか挨拶あいさつはねえのか」と仲次郎なかじろうが云いった、「おれの面めんを見みてなんとか挨拶あいさつのしようはねえのか」

「ぐうとも云いえめえ」と六ろくが向むこうから云いった、「どうだ蝶ちょうの字じ、ぐっとでも云いえるか」

「きさまは人間にんげんの皮かわをかぶったけだものだ」と仲次郎なかじろうが云いった、「きさまは浄瑠璃じょうるりでうだつがあがらないために、中途ちゅうとから岸沢きしざわへ弟子でし入いりをして来きた、面倒めんどうをみたのはおれだぞ、勘かんはいいが芸げいは勘かんだけじゃあねえ、きさまの勘かんのいいのは却かえって芸げいの邪魔じゃまになる、その勘かんを捨すてろというところから手てを取とって教おしえた」

「待まってくれ」と蝶ちょう太夫たゆうが遮さえぎった、「悪わるいところはあやまるからその話はなしはあっちへいって聞きこう」

「そのお嬢じょうさんに聞きかれたくねえっていうわけか、よしゃがれ」と仲次郎なかじろうが云いった、「いまさら一人ひとりや二人ふたりの耳みみを塞ふさいだって、きさまのした事ことが隠かくしおおせると思おもうのか、蝶ちょう太夫たゆう、――きさまはおれのおかげで三味しゃみ線せんにとりついた、かげにひなたにおれが引立ひきたててやった、そうじゃねえか」

蝶ちょう太夫たゆうは頭あたまを垂たれた。

「蝶ちょう太夫たゆう、そうじゃあなかったのか」

低ひくく垂たれた頭あたまで蝶ちょう太夫たゆうは頷うなずいた。

「ところがきさまは、ちっとばかりめが出ではじめるとおれが邪魔じゃまになった、おれがいてはたてが弾ひけねえ、といって腕うででおれを凌しのぐほどの自信じしんもねえ、そこできさまは卑劣ひれつなまねをしやあがった、聞きいているか、――きさまは人ひとを使つかっておれに喧嘩けんかを売うらせ、これを見みろ」と云いって仲次郎なかじろうは右みぎの腕うでを捲まくった、「この腕うでを折おらせた、男おとこらしく自分じぶんでやるならまだしも、人ひとを使つかってやらせて、てめえはきれいな面めんあしていやあがった、このけだものめ」

片膝かたひざ立だちのまま、仲次郎なかじろうは拳こぶしをあげて蝶ちょう太夫たゆうの頬ほおを殴なぐった。

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