「聞いたって、なにを」
「その人をうまくたらして、三年の余も逢い続けていたって」おりうは溶けるような眼で彼を見た、「その人には病身の良人があったけれど、お師匠さんにのぼせあがって、良人の面倒もみず、夢中になって逢曳きを続けていたんですって」
「ちょっと、ちょっと待った」彼は手をあげて遮った、「そんないったいそんなことを誰から聞いたんです」
「名がわかれば云いぬけができると思うんですか」
「私は芸人です」と彼は坐り直した、「芸人にごひいきは付き物だし、ごひいきなしに芸人は勤まるものじゃあありません」
「むさし屋の人もごひいきだけだったの」
「少なくとも、おりうさんを知るまえのことです」
「そう固くならないで」おりうは微笑し、膝ですり寄って燗徳利を取った、「お酌をしましょう、あら、手が震えてるじゃないのお師匠さん、あたしやきもちをやいてるんじゃないのよ、ただ本当のことが知りたかっただけ」
「本当のことを云いましょう」
「そんなに固くならないで」とおりうはまた微笑した、「どうぞもう一つ」
「おりうさんは」盃を下に置いて彼は屹となった、「私の云うことを信用してくれないんですか」
「作り話を信用しろって云うの」
「むさし屋のごしんぞさんとは、慥かに逢っていました」彼は証言するように云った、「けれどもそれは愛情でもなんでもありゃあしない、ごひいきと芸人のつきあいというだけなんです、貴女だっておよそ察しているだろうけれど、芸人はごひいきのうしろ楯と、引立てがなければやってはゆけません」
おりうはながし眼をくれた、「あら、そうかしら」
「派手なしょうばいだから金が要ります、恥ずかしいことを云うようだが、着る物や身に付ける物、なかまのつきあいもあるし、芝居へ出るにしたって表方、裏方、道具方なんぞにつけ届けをしなければならない、たとえば」彼はもの悲しげに云った、「そのつけ届けが足りなかったばかりに、出語り山台が崩れて、けがをした太夫もいるくらいです」
「それでむさし屋のおかみさんなんぞも、お金だけがめあてで逢っていたのね」
「もちろんですよ」彼は唾をのんだ、「貴女は御存じないだろうけれど、あの女はたいへんな浮気者で、私のほかに男が幾人いたか知れやあしません、尤も、――御亭主という人が癆痎病みで、陰気な、味もそっけもない人だっていうことだから」
「注ぎましょう」おりうは徳利を取った、「飲みながらお話しなさいな」
蝶太夫は盃を持った、「ほかに話すことなんかありゃしません、むさし屋の御亭主は血を吐きながら、ごしんぞといっしょに自火で焼け死んだそうだが、金のあるに任せて勝手なことばかりしたから、罰が当ったようなもんでしょう」
「もっとお重ねなさいな」
「因果というものはあるもんだ」蝶太夫は飲みながら続けた、「あのごしんぞをあんな浮気者にしたのも、御亭主の罪でしょう、どっちもどっち、結局お互いの罪でお互いが罰に当った、あの二人が夫婦になったのが、そもそも因果というもんでしょうさ」
「それで、――」とおりうが云った、「お師匠さんには罰は当らないのね」
「私に罰が」と彼はおりうを見た、「どうして私に罰が当るんです」
「いいわよ、めしあがれ」おりうは酌をしてやった、「あとをつけましょうね」
そしておりうが立ちあがったとき、廊下の向うから暴あらしい足音が近づいて来、襖の外で停ると、「こちらに岸沢の師匠はいますか」と声をかけた。蝶太夫はぎょっとした。紛れもなくむささびの六の声で、彼は慌てておりうに手を振った。しかしそれより早く、おりうがその声に答えた。
「はい、お師匠さんはいますが、どなたですか」
「六助てえ者です」と向うは云った、「失礼してへえります、御免下さい」
襖をあけて、二人の男がはいって来た。一人は六助、一人は木綿縞の布子に角帯をしめ、筒袖の半纒をひっかけている。年は三十二、三だろうが、顔色も悪く、眼も頬もおちくぼんでいるし、月代が伸びているためかずっと老けてみえた。
「おい蝶太夫」とその男が云った、「仲次郎だ、覚えているか」
蝶太夫は盃を持ったまま黙っていた。盃が重いので全身で持ちこたえている、といったふうな姿であった。二人とも酔っているらしい。六助はへらへら笑いながら、どかっと音荒くあぐらをかき、仲次郎という男はこっちへ来て、蝶太夫の前へ片膝立ちに坐った。色の悪い顔が蒼黒く怒張し、おちくぼんだ眼には憎悪が火となって燃えているようにみえた。
「なんとか挨拶はねえのか」と仲次郎が云った、「おれの面を見てなんとか挨拶のしようはねえのか」
「ぐうとも云えめえ」と六が向うから云った、「どうだ蝶の字、ぐっとでも云えるか」
「きさまは人間の皮をかぶったけだものだ」と仲次郎が云った、「きさまは浄瑠璃でうだつがあがらないために、中途から岸沢へ弟子入りをして来た、面倒をみたのはおれだぞ、勘はいいが芸は勘だけじゃあねえ、きさまの勘のいいのは却って芸の邪魔になる、その勘を捨てろというところから手を取って教えた」
「待ってくれ」と蝶太夫が遮った、「悪いところはあやまるからその話はあっちへいって聞こう」
「そのお嬢さんに聞かれたくねえっていうわけか、よしゃがれ」と仲次郎が云った、「いまさら一人や二人の耳を塞いだって、きさまのした事が隠しおおせると思うのか、蝶太夫、――きさまはおれのおかげで三味線にとりついた、かげにひなたにおれが引立ててやった、そうじゃねえか」
蝶太夫は頭を垂れた。
「蝶太夫、そうじゃあなかったのか」
低く垂れた頭で蝶太夫は頷いた。
「ところがきさまは、ちっとばかりめが出はじめるとおれが邪魔になった、おれがいてはたてが弾けねえ、といって腕でおれを凌ぐほどの自信もねえ、そこできさまは卑劣なまねをしやあがった、聞いているか、――きさまは人を使っておれに喧嘩を売らせ、これを見ろ」と云って仲次郎は右の腕を捲った、「この腕を折らせた、男らしく自分でやるならまだしも、人を使ってやらせて、てめえはきれいな面あしていやあがった、このけだものめ」
片膝立ちのまま、仲次郎は拳をあげて蝶太夫の頬を殴った。