「済まねえ」蝶太夫はそこへ手を突いた、「魔がさしたんだ、勘弁してくれ」
「野郎」と云いさま、仲次郎は相手にとびかかり、馬乗りになってまた殴った、「この人でなし」拳で、平手で、右から左から殴りつけ、そして右手を首に当てながら叫んだ、「きさま殺してくれるぞ」
「それは違う、筋が違う」蝶太夫はけんめいに喉で云った、「腕を折ったのは私じゃあない、そこにいる六だ、私はただ金をやっただけで、腕を折ったのは六助だ」
六助が笑いだした、「とうとう云やあがった、そうぬかすだろうと思ってたんだ」
六助は身軽に立って来た。
「仲さん、替ろう」と六助が云った、「おれも自分で蒔いた種は自分で刈りてえや、おまえの腕を折ったんだから、こいつの腕もおれがやることにしよう、どいてくれ」
「頼む、おりうさん」と蝶太夫は絞り出すような声で云った、「こいつは本当にやりかねない、どうかなんとかして下さい、おりうさん、頼みます」
仲次郎が手を放して立ち、蝶太夫がはね起きた。六助は相手を起きあがらせておいて、それからすばやく足を払い、前へのめるところを押し伏せて、その背中へ乗りかかり、右の腕をうしろへ捻じあげた。
「おりうさん」と蝶太夫は叫んだ。
「さあ、いいか蝶の字」六助は捻じあげた腕の付け根へ左手を当て、右手をじりじり絞った、「おれは仲さんの腕も、こうやって」
蝶太夫が「き」と悲鳴をあげた。
「もういいわ」とおりうが云った、「そのくらいやれば気が済んだでしょう、放してあげてちょうだい」
「ここまできてですか」と六が顔をあげた。
「約束のものはあげます」と云っておりうは紙包みを二つそこへ置いた、「これでそちらのお師匠さんの身の立つようにして下さい、一つは六さんの分よ」
「やい、聞いたか」まだ腕を捻じあげたままで、六助が云った、「お嬢さんがああ仰しゃるから、ここのところは勘弁してやらあ、――それ、仲さんに改めてよく詫びを云え」
六助は手を放して立ちあがった。
蝶太夫は俯伏したまま、激しく喘ぎながら伸びてい、仲次郎はおりうに無礼をあやまり、六助は紙包みを受取った。やい、仲さんに詫びねえのか、と六助がどなり、おりうがなだめた。仲次郎は金は貰えないと拒んだが、六助にせきたてられ、まもなく二人は出ていった。
「もう大丈夫よ、お師匠さん」とおりうがやわらかな声で云った、「もう二人とも来やあしないわ、ねえ、起きて来て飲み直しにしましょう」
蝶太夫は呻き声をあげた。
おりうは彼をみつめた。蝶太夫は両手で頭を抱え、顔を横に向けながら、あのならず者め、と云ってまた呻いた。
「金にさえなればどっちへでも転ぶやつだ、あのちくしょう」と彼は云った、「あんな野郎を頼みにしたのが悪かった、おれもどうかしてたんだな」
「魔がさしたのよ、いいじゃないの」
「貴女にはわからない、これにはこみいったわけがあるんだ」と彼は云った、「しかし、こんなことがあったいま、じつはこうだと話しても信じてはもらえないでしょう、これでおりうさんとも逢えなくなってしまった」
「あらどうして、あたしはなんでもないことよ」とおりうは云った、「だからこそ、あの人たちにお金を都合してあげたんじゃないの、そうでなければ逃げだした筈でしょ」
「お金、――」と彼は息を止め、それからなにかを吟味するように云った、「貴女はいまあいつらに、金をやったんですか」
「だってお師匠さんは、五十両やる約束だったんでしょう」
蝶太夫はびくっとし、それから急に起きあがった。左の眼のふちが腫れ、両頬も赤くなって腫れていた。彼は不安そうな、おちつかないようすでおりうを見た。
「そんなことを、誰から聞きました」
おりうは含み笑いをした。燗鍋の中の徳利に触ってみ、こっちはまだつかないわ、と云って、膳の上に出しておいたほうを取った。
「ちょっと燗ざましになったけれど、あとのがつくまでがまんしてちょうだい」
「貴女は、あいつらを」と彼は吃った。
「こっちへいらしって」とおりうはあまえたしなで云った、「――少しめしあがれば気が晴れてよ」
蝶太夫は膳の側へ来て坐り、こっちでやります、と云って汁椀をあけた。そして、おりうの酌ももどかしげに、ぐいぐいと酒を呷り、冷のほうへも手を出しながら、休みなしに饒舌りだした。仲次郎とのいきさつを、うまく云いくるめようとするらしい。だが、やがてまた思いだしたように、「五十両」の話をどうして知っているのか、と不審そうにおりうに訊いた。いいじゃないのそんなこと、もう済んだことだものお忘れなさいな、とおりうはそらした。
「しかし私はそれじゃあ済まない」彼は腫れた眼を手で押えながら云った、「金のことは私と六の話で、ほかに知ってる者はない筈なんだから」
「そんなに気になって」おりうは微笑した。
「じらさないで云って下さい、どこで、誰から聞いたんです」
「佐吉よ」とおりうがゆっくりと云った、「もと中村座の桝屋にいた、出方の佐吉、これでわかったでしょ」
「佐吉を、――知ってるんですか」
「中村座へ見にゆくときは、佐吉が係だったのよ」とおりうは答えた、「ここ二年ばかりは飽きちゃって、芝居は覗きもしなかったんだけど、半月ばかりまえかしら、道で佐吉に会ってお師匠さんの話が出たの」
「どこで会いました」
「そのとき仲次郎師匠のことで」とおりうは構わずに続けた、「あなたが六さんに脅されているということを聞いたのよ、本当か嘘かわからないし、たぶん嘘だろうとは思ったけれど、あたしお師匠さんのことが心配だから、仲次郎さんが小商売にでもとりつけばいいだろうと思って、六さんの分といっしょにお金を都合することにしたんです」
蝶太夫は唾をのんだ、「すると」と彼は口ごもりながら訊いた、「その、むさし屋のごしんぞのことも佐吉から」
「ええ」おりうは頷いた、「あたし聞いてぞうっとしちゃったわ」
「ぞっとしたとは、なにが」
「むさし屋の主人という人は、血を吐きながら恨み死に死んだんですって」とおりうは身ぶるいをした、「その娘のおしのっていう人も、やっぱり恨みに恨んで死んだんですってよ」