← Library‹ 五瓣の椿 第二話 八

「済すまねえ」蝶ちょう太夫たゆうはそこへ手てを突ついた、「魔まがさしたんだ、勘弁かんべんしてくれ」

「野郎やろう」と云いいさま、仲次郎なかじろうは相手あいてにとびかかり、馬乗うまのりになってまた殴なぐった、「この人ひとでなし」拳こぶしで、平手ひらてで、右みぎから左ひだりから殴なぐりつけ、そして右手みぎてを首くびに当あてながら叫さけんだ、「きさま殺ころしてくれるぞ」

「それは違ちがう、筋すじが違ちがう」蝶ちょう太夫たゆうはけんめいに喉のどで云いった、「腕うでを折おったのは私わたくしじゃあない、そこにいる六ろくだ、私わたくしはただ金かねをやっただけで、腕うでを折おったのは六助ろくすけだ」

六助ろくすけが笑わらいだした、「とうとう云いやあがった、そうぬかすだろうと思おもってたんだ」

六助ろくすけは身軽みがるに立たって来きた。

「仲なかさん、替かわろう」と六助ろくすけが云いった、「おれも自分じぶんで蒔まいた種たねは自分じぶんで刈かりてえや、おまえの腕うでを折おったんだから、こいつの腕うでもおれがやることにしよう、どいてくれ」

「頼たのむ、おりうさん」と蝶ちょう太夫たゆうは絞しぼり出だすような声こえで云いった、「こいつは本当ほんとうにやりかねない、どうかなんとかして下ください、おりうさん、頼たのみます」

仲次郎なかじろうが手てを放はなして立たち、蝶ちょう太夫たゆうがはね起おきた。六助ろくすけは相手あいてを起おきあがらせておいて、それからすばやく足あしを払はらい、前まえへのめるところを押おし伏ふせて、その背中せなかへ乗のりかかり、右みぎの腕うでをうしろへ捻ねじあげた。

「おりうさん」と蝶ちょう太夫たゆうは叫さけんだ。

「さあ、いいか蝶ちょうの字じ」六助ろくすけは捻じあげた腕うでの付つけ根ねへ左手ひだりてを当あて、右手みぎてをじりじり絞しぼった、「おれは仲なかさんの腕うでも、こうやって」

蝶ちょう太夫たゆうが「き」と悲鳴ひめいをあげた。

「もういいわ」とおりうが云いった、「そのくらいやれば気きが済すんだでしょう、放はなしてあげてちょうだい」

「ここまできてですか」と六ろくが顔かおをあげた。

「約束やくそくのものはあげます」と云いっておりうは紙包かみづつみを二ふたつそこへ置おいた、「これでそちらのお師匠ししょうさんの身みの立たつようにして下ください、一ひとつは六ろくさんの分ぶんよ」

「やい、聞きいたか」まだ腕うでを捻じあげたままで、六助ろくすけが云いった、「お嬢じょうさんがああ仰おっしゃるから、ここのところは勘弁かんべんしてやらあ、――それ、仲なかさんに改あらためてよく詫わびを云いえ」

六助ろくすけは手てを放はなして立たちあがった。

蝶ちょう太夫たゆうは俯伏うつぶしたまま、激はげしく喘あえぎながら伸のびてい、仲次郎なかじろうはおりうに無礼ぶれいをあやまり、六助ろくすけは紙包かみづつみを受取うけとった。やい、仲なかさんに詫わびねえのか、と六助ろくすけがどなり、おりうがなだめた。仲次郎なかじろうは金かねは貰もらえないと拒こばんだが、六助ろくすけにせきたてられ、まもなく二人ふたりは出でていった。

「もう大丈夫だいじょうぶよ、お師匠ししょうさん」とおりうがやわらかな声こえで云いった、「もう二人ふたりとも来きやあしないわ、ねえ、起おきて来きて飲のみ直なおしにしましょう」

蝶ちょう太夫たゆうは呻うめき声ごえをあげた。

おりうは彼かれをみつめた。蝶ちょう太夫たゆうは両手りょうてで頭あたまを抱かかえ、顔かおを横よこに向むけながら、あのならず者ものめ、と云いってまた呻うめいた。

「金かねにさえなればどっちへでも転ころぶやつだ、あのちくしょう」と彼かれは云いった、「あんな野郎やろうを頼たのみにしたのが悪わるかった、おれもどうかしてたんだな」

「魔まがさしたのよ、いいじゃないの」

「貴女きじょにはわからない、これにはこみいったわけがあるんだ」と彼かれは云いった、「しかし、こんなことがあったいま、じつはこうだと話はなしても信しんじてはもらえないでしょう、これでおりうさんとも逢あえなくなってしまった」

「あらどうして、あたしはなんでもないことよ」とおりうは云いった、「だからこそ、あの人ひとたちにお金かねを都合つごうしてあげたんじゃないの、そうでなければ逃にげだした筈はずでしょ」

「お金かね、――」と彼かれは息いきを止とめ、それからなにかを吟味ぎんみするように云いった、「貴女きじょはいまあいつらに、金かねをやったんですか」

「だってお師匠ししょうさんは、五十ごじゅう両りょうやる約束やくそくだったんでしょう」

蝶ちょう太夫たゆうはびくっとし、それから急きゅうに起おきあがった。左ひだりの眼めのふちが腫はれ、両頬りょうほおも赤あかくなって腫はれていた。彼かれは不安ふあんそうな、おちつかないようすでおりうを見みた。

「そんなことを、誰だれから聞ききました」

おりうは含ふくみ笑わらいをした。燗鍋かんなべの中なかの徳利とっくりに触さわってみ、こっちはまだつかないわ、と云いって、膳ぜんの上うえに出だしておいたほうを取とった。

「ちょっと燗かんざましになったけれど、あとのがつくまでがまんしてちょうだい」

「貴女きじょは、あいつらを」と彼かれは吃どもった。

「こっちへいらしって」とおりうはあまえたしなで云いった、「――少すこしめしあがれば気きが晴はれてよ」

蝶ちょう太夫たゆうは膳ぜんの側がわへ来きて坐すわり、こっちでやります、と云いって汁椀しるわんをあけた。そして、おりうの酌しゃくももどかしげに、ぐいぐいと酒さけを呷あおり、冷れいのほうへも手てを出だしながら、休やすみなしに饒舌しゃべりだした。仲次郎なかじろうとのいきさつを、うまく云いいくるめようとするらしい。だが、やがてまた思おもいだしたように、「五十ごじゅう両りょう」の話はなしをどうして知しっているのか、と不審ふしんそうにおりうに訊きいた。いいじゃないのそんなこと、もう済すんだことだものお忘わすれなさいな、とおりうはそらした。

「しかし私わたくしはそれじゃあ済すまない」彼かれは腫はれた眼めを手てで押おさえながら云いった、「金かなのことは私わたくしと六ろくの話はなしで、ほかに知しってる者ものはない筈はずなんだから」

「そんなに気きになって」おりうは微笑びしょうした。

「じらさないで云いって下ください、どこで、誰だれから聞きいたんです」

「佐吉さきちよ」とおりうがゆっくりと云いった、「もと中村なかむら座ざの桝屋ますやにいた、出で方かたの佐吉さきち、これでわかったでしょ」

「佐吉さきちを、――知しってるんですか」

「中村なかむら座ざへ見みにゆくときは、佐吉さきちが係かかりだったのよ」とおりうは答こたえた、「ここ二に年ねんばかりは飽あきちゃって、芝居しばいは覗のぞきもしなかったんだけど、半月はんつきばかりまえかしら、道みちで佐吉さきちに会あってお師匠ししょうさんの話はなしが出でたの」

「どこで会あいました」

「そのとき仲次郎なかじろう師匠ししょうのことで」とおりうは構かまわずに続つづけた、「あなたが六ろくさんに脅おどされているということを聞きいたのよ、本当ほんとうか嘘うそかわからないし、たぶん嘘うそだろうとは思おもったけれど、あたしお師匠ししょうさんのことが心配しんぱいだから、仲次郎なかじろうさんが小商売こあきないにでもとりつけばいいだろうと思おもって、六ろくさんの分ぶんといっしょにお金かねを都合つごうすることにしたんです」

蝶ちょう太夫たゆうは唾つばをのんだ、「すると」と彼かれは口くちごもりながら訊きいた、「その、むさし屋やのごしんぞのことも佐吉さきちから」

「ええ」おりうは頷うなずいた、「あたし聞きいてぞうっとしちゃったわ」

「ぞっとしたとは、なにが」

「むさし屋やの主人しゅじんという人ひとは、血ちを吐はきながら恨うらみ死じにに死しんだんですって」とおりうは身みぶるいをした、「その娘むすめのおしのっていう人ひとも、やっぱり恨うらみに恨うらんで死しんだんですってよ」

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