← Library‹ 五瓣の椿 第二話 九

「娘むすめのおしのって」と蝶ちょう太夫たゆうが訊きき返かえした、「私わたくしはそんな人ひとは知しらないがな」

「あたしだって知しらないわ」とおりうが云いった、「佐吉さきちから聞きいただけだけれど、そのおしのさんていう人ひとは、おっ母ははさんと悪わるいことをした相手あいてを、一人ひとり残のこらずとり殺ころしてやる、って云いいくらしてたっていうことだわ」

「しかしいま、その娘むすめは死しんだって聞きいたようだが」

「親おやたちといっしょに火事かじで死しんだんですって」とおりうは云いった、「――でも人ひとの一念いちねんというものは恐おそろしいから、お師匠ししょうさんも用心ようじんするほうがよくってよ」

「そんな、子供こどもを威おどすようなことを、――冗談じょうだんじゃあねえ」彼かれはまた汁椀しるわんにいっぱい酒しゅを注そそぎ、それを残のこらず呷あおった、すると急きゅうに酔よいが出でたようすで、へらへらと笑わらった、「冗談じょうだんじゃねえ」と彼かれは云いった、「――女房にょうぼうが浮気うわきをするのは、亭主ていしゅにそれだけの甲斐性かいしょうがなかったからだし、その娘むすめにしたって、恨うらむならおふくろを恨うらむのが本当ほんとうだ、そんなことで番ばんたびとり殺ころされてたひにゃあ、私わたくしなんぞ命いのちが幾いくつあったって足たりゃしませんよ」

「聞きかせてやりたいわね」おりうの眼めがあやしく光ひかった、「それを聞きいたらさぞ、あの世よでおしのさんがくやしがるでしょう」

「骨ほねになっては歯はぎしりもできやしねえさ」

おりうがすっと立たちあがった。眼めに見みえないなにかの力ちからで、上うえから吊つりあげられるような動作どうさで、蝶ちょう太夫たゆうはびっくりした。

「どうしたんです、急きゅうに」

「あたしもいただくの」とおりうは云いい、半纒はんてんをぬいだ、「これをぬいで来くるから、待まっていてね」

おりうは次つぎの間まの襖ふすまをあけて、ぬいだ半纒はんてんを投なげ、すぐにこっちへ戻もどって来きた。襖ふすまをあけたとき、その六ろく帖じょうに屏風びょうぶを立たて、夜具やぐの敷しいてあるのが見みえた。その夜具やぐの派手はでな色いろと、立たててある屏風びょうぶを見みるなり、蝶ちょう太夫たゆうはかっとのぼせたようになり、いきなり立たちあがって、坐すわろうとするおりうを抱いだいた。

「あら危あぶない」おりうはよろめきながら、蝶ちょう太夫たゆうに縋すがりついた、「どうなさるの、お師匠ししょうさん」

「ちょっと」彼かれの舌したは硬こわばってもつれた、「ちょっと休やすもう、頼たのむ、おりうさん、これ以上いじょうじらすのは罪つみだよ」

「待まって」おりうはふるえた、「待まってちょうだい」

おりうはさっと蒼あおくなり、全身ぜんしんで嫌悪けんおの情じょうをあらわしながら、しかしその手てはふるえながら蝶ちょう太夫たゆうを捉つかまえていた。

「お父ちちつぁん」とおりうはわななきながら呟つぶやいた、「あたしに力ちからを貸かして」

蝶ちょう太夫たゆうには聞きこえなかったらしい。聞きこえたにしても意味いみはわからなかったであろう、彼かれはおりうを抱いだいて、よろめくように次つぎの間まへはいり、うしろ手でで襖ふすまを閉しめた。

それから約やく半刻はんときのち、――階下かいかの座敷ざしきで、おりうは着替きがえをした。女中じょちゅうに手伝てつだってもらって、ざっと髪かみも束たばね直なおした。そのあいだにいちど、急きゅうに吐はきけにおそわれ、厠かわやへ走はしっていって嘔吐おうとした。あまり急きゅうなことで、女中じょちゅうはあっけにとられたが、おりうは「少すこしわる酔よいをしたらしいわ」と云いった。

「お伴つれさまは」と女中じょちゅうが訊きいた、「お伴つれさまをお呼よびしましょうか」

「だめ、酔よいつぶれて寝ねちゃってるの」とおりうはかぶりを振ふった、「迷惑めいわくでしょうけれど起おきるまでそっとしといて下くださいな」

「迷惑めいわくなんてとんでもございません」女中じょちゅうはいそいで云いった、「――でもあなた、お一人ひとりで大丈夫だいじょうぶでございますか」

「駕籠かごをひろってゆくから大丈夫だいじょうぶ」おりうは紙かみに包つつんだものを女中じょちゅうに与あたえた、「これはあなたに、――お世話せわさまでした」

そしてその座敷ざしきから出でていった。

夜よるの十じゅう時じすぎてから、蝶ちょう太夫たゆうの死しんでいることがみつけられた。彼かれは平打ひらうちの銀ぎんの釵かんざしで心臓しんぞうを刺さされたもので、釵かんざしは刺さしたままになってい、その枕許まくらもとに一いち片へんの椿つばきの花はなびらが落おちていた。――その座敷ざしきに椿つばきなどは活いけてないので、よそから持もって来きたものであろう。その真紅しんくの一いち片へんの花はなびらは、まるでなにかを暗示あんじするように、ぶきみな印象いんしょうを人々ひとびとに与あたえた。

「あの人ひとがやったのね」と係かかりの女中じょちゅうが怯おびえたように云いった、「それで吐はいたりしたんだわ、ああいやだ」

「心中しんじゅうのしそこないじゃないかしら」とべつの女中じょちゅうが云いった、「あの人ひとおとなしそうだったもの、いまごろ大川おおかわにでもとび込こんでるかもしれないわ」

蝶ちょう太夫たゆうの身許みもとはまもなくわかったが、おりうという娘むすめは、身許みもとも行方ゆくえも知しれなかった。

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