「娘のおしのって」と蝶太夫が訊き返した、「私はそんな人は知らないがな」
「あたしだって知らないわ」とおりうが云った、「佐吉から聞いただけだけれど、そのおしのさんていう人は、おっ母さんと悪いことをした相手を、一人残らずとり殺してやる、って云いくらしてたっていうことだわ」
「しかしいま、その娘は死んだって聞いたようだが」
「親たちといっしょに火事で死んだんですって」とおりうは云った、「――でも人の一念というものは恐ろしいから、お師匠さんも用心するほうがよくってよ」
「そんな、子供を威すようなことを、――冗談じゃあねえ」彼はまた汁椀にいっぱい酒を注ぎ、それを残らず呷った、すると急に酔いが出たようすで、へらへらと笑った、「冗談じゃねえ」と彼は云った、「――女房が浮気をするのは、亭主にそれだけの甲斐性がなかったからだし、その娘にしたって、恨むならおふくろを恨むのが本当だ、そんなことで番たびとり殺されてたひにゃあ、私なんぞ命が幾つあったって足りゃしませんよ」
「聞かせてやりたいわね」おりうの眼があやしく光った、「それを聞いたらさぞ、あの世でおしのさんがくやしがるでしょう」
「骨になっては歯ぎしりもできやしねえさ」
おりうがすっと立ちあがった。眼に見えないなにかの力で、上から吊りあげられるような動作で、蝶太夫はびっくりした。
「どうしたんです、急に」
「あたしもいただくの」とおりうは云い、半纒をぬいだ、「これをぬいで来るから、待っていてね」
おりうは次の間の襖をあけて、ぬいだ半纒を投げ、すぐにこっちへ戻って来た。襖をあけたとき、その六帖に屏風を立て、夜具の敷いてあるのが見えた。その夜具の派手な色と、立ててある屏風を見るなり、蝶太夫はかっとのぼせたようになり、いきなり立ちあがって、坐ろうとするおりうを抱いた。
「あら危ない」おりうはよろめきながら、蝶太夫に縋りついた、「どうなさるの、お師匠さん」
「ちょっと」彼の舌は硬ばってもつれた、「ちょっと休もう、頼む、おりうさん、これ以上じらすのは罪だよ」
「待って」おりうはふるえた、「待ってちょうだい」
おりうはさっと蒼くなり、全身で嫌悪の情をあらわしながら、しかしその手はふるえながら蝶太夫を捉まえていた。
「お父つぁん」とおりうはわななきながら呟いた、「あたしに力を貸して」
蝶太夫には聞えなかったらしい。聞えたにしても意味はわからなかったであろう、彼はおりうを抱いて、よろめくように次の間へはいり、うしろ手で襖を閉めた。
それから約半刻のち、――階下の座敷で、おりうは着替えをした。女中に手伝ってもらって、ざっと髪も束ね直した。そのあいだにいちど、急に吐きけにおそわれ、厠へ走っていって嘔吐した。あまり急なことで、女中はあっけにとられたが、おりうは「少しわる酔いをしたらしいわ」と云った。
「お伴れさまは」と女中が訊いた、「お伴れさまをお呼びしましょうか」
「だめ、酔いつぶれて寝ちゃってるの」とおりうはかぶりを振った、「迷惑でしょうけれど起きるまでそっとしといて下さいな」
「迷惑なんてとんでもございません」女中はいそいで云った、「――でもあなた、お一人で大丈夫でございますか」
「駕籠をひろってゆくから大丈夫」おりうは紙に包んだものを女中に与えた、「これはあなたに、――お世話さまでした」
そしてその座敷から出ていった。
夜の十時すぎてから、蝶太夫の死んでいることがみつけられた。彼は平打の銀の釵で心臓を刺されたもので、釵は刺したままになってい、その枕許に一片の椿の花びらが落ちていた。――その座敷に椿などは活けてないので、よそから持って来たものであろう。その真紅の一片の花びらは、まるでなにかを暗示するように、ぶきみな印象を人々に与えた。
「あの人がやったのね」と係の女中が怯えたように云った、「それで吐いたりしたんだわ、ああいやだ」
「心中のしそこないじゃないかしら」とべつの女中が云った、「あの人おとなしそうだったもの、いまごろ大川にでもとび込んでるかもしれないわ」
蝶太夫の身許はまもなくわかったが、おりうという娘は、身許も行方も知れなかった。