← Library‹ 五瓣の椿 第三話 六

得とく石せきは四よんつ這ばいのまま息いきをひそめた。顔かおも両手りょうても、着物きものの前まえも、叩たたきつけられた霜しもどけのぬかるみで、べったりと泥どろまみれになっている。へたに起おきあがるとまたやられるに違ちがいない、そう思おもったから、その恰好かっこのままかれらに呼よびかけた。

「話はなせばわかる、乱暴らんぼうをするな」と彼かれは云いった、「ぜんたいなにが欲ほしいんだ」

「この野郎やろうふざけたことをぬかすな」

そうどなりさま、男おとこの一人ひとりが得とく石せきの腰こしを力ちからいっぱい蹴放はなし、得とく石せきはもういちど前まえへのめった。ぐしゃっと、顔かおがぬかるみへ埋うまったとき、彼かれは屈辱くつじょくと怒いかりのために嚇かっとなった。こいつら、殺ころしてくれるぞ、と胸むねの中なかで絶叫ぜっきょうしたが、起おきあがって、手ての甲こうで顔かおを横よこ撫なでにし、口くちの中なかから泥どろを吐はき出だすうちに、辛かろうじてその怒いかりを抑おさえ、躯むくろの力ちからをぬいた。

「こんなことをしてなんになるんだ」と得とく石せきは静しずかに云いった、「そっちにはなにか望のぞみがあるんだろう、私わたくしを痛いためつけるより、肝心かんじんな話はなしをするほうが早はやくはないのか」

「しぶてえ野郎やろうだな」とばかに太ふとい声こえの男おとこが云いった、「なんでも指ゆびの先さきか小銭こぜにで片かたがつくと思おもってやがる、この野郎やろう、本当ほんとうに片輪かたわ者しゃにでもしてくれざあならねえかもしれねえぜ」

「それならおいらの役やくだ」とべつの男おとこが云いった、「どっちをやる、手てか、足あしか」

「待まってくれ」と得とく石せきは片手かたてをあげた、「そんな乱暴らんぼうなことはやめて、私わたくしにわかるように話はなしてくれ、いったいどういうわけでこんなことをするのか、私わたくしがどうすればいいのか、それを聞きかせてくれ」

「自分じぶんで思おもい当あたらねえのか」太ふとい声こえの男おとこがそう云いって、さも汚きたならしそうに睡ねむを吐はいた、「浮気うわきな女房にょうぼうや後家ごけさんに、けがらわしい治療ちりょうをして高たかい薬料やくりょうを取とり、その金かねで料理りょうり茶屋ちゃやを始はじめ、豊島としま屋やを始はじめ、おまけに高利こうりの日済ひなし貸がしまでやって、貧乏びんぼう人にんの血ちを吸すい取とりゃあがる、この界隈かいわいの長屋ながやだけでも、うぬのために泣ないている者ものが何十なんじゅう人にんいるかしれねえ、いいか、それも日済ひなし貸かしが本業ほんぎょうなら、憎にくまれるのを看板かんばんでやってるんだからまだいい、てめえは仮かりにも医者いしゃだぞ」男おとこはそこで赤あかくなった、「どんな汚きたならしい治療ちりょうをするにもせよ業態ぎょうたいからいえば医者いしゃだ、そいつが自分じぶんは蔭かげに隠かくれて、高利こうりの日済ひなしで貧乏びんぼう人にんの血肉けつにくをごっそり絞しぼってやがる、そんなちくしょうがお膝元ひざもとでうろうろするのを、こちとらあ黙だまって見みちゃあいられねえんだ」

「うぬのような人ひとでなしはな」とべつの男おとこが云いった、「いっそ叩たたっ殺ころして大川おおかわへでも放ほうりこみてえところだ、だがそうすりゃあこっちも兇状持きょうじょうもちになるから、このさきうろうろできねえように片輪かたわにして、それで勘弁かんべんしてやろうというわけだ、これで文句もんくはねえだろう」

「わかりました、よくわかりました」得とく石せきは爪つめで顔かおの泥どろを落おとしながら、神妙しんみょうに頭あたまをさげて云いった、「そういうことならおまえさんたちの云いうようにしよう、金かねで済すむことなら金かねを出だそうし、日済ひなし貸かしをやめろなら今日きょうにでもやめよう、云いうとおりにするからどうか乱暴らんぼうなことだけはしないでくれ」

「金かねで済すむならだと」太ふとい声こえの男おとこが喉のどいっぱいに喚わめいた、「まだそんなよめえ言げんをぬかしゃあがるのか、野郎やろう」

「やっちまえ」とべつの男おとこが叫さけんだ。

得とく石せきは「誰だれか来きてくれ」と叫さけんだ。三さん人にんの男おとこは代かわる代がわる足蹴あしげにし、人殺ひとごろしだ、と得とく石せきは悲鳴ひめいをあげた。その声こえを聞ききつけたのだろう、走はしり寄よって来くる人ひとのけはいに続つづいて、なんだ、どうしたんだ、乱暴らんぼうはよせ、などと云いう五、六ごろく人にんの声こえが聞きこえた。

「助たすけて下ください」と得とく石せきは叫さけんだ、「私わたくしはなにもしないのにこの人ひとたちは」

だが、口くちの中なかの泥どろが喉のどへはいり、彼かれは横倒よこだおしになったまま、身みをちぢめて咳せきこんだ。足蹴あしげはもうやんで、男おとこたちの問答もんどうになり、三さん人にんは捨すてぜりふを残のこしながら去さっていった。残のこったのは町内ちょうないの人ひとたちだろう、「けがはないか」とか、「どこの人ひとか」などと得とく石せきに呼よびかけた。――得とく石せきは豊島としま屋やの門もん七ななを呼よんでもらった。なにかかぶる物ものを持もって来くるようにと頼たのみ、いまの三さん人にんはこの町内ちょうないの者ものかと訊きいた。町内ちょうないの者ものでもなし、この辺へんではみかけない人間にんげんだということだったが、「豊島としま屋や」という名なが出でると、その人ひとたちは急きゅうに冷淡れいたんになり、私わたくしは用ようがあるから、いや私わたくしもそれでは、などと云いってたち去さってゆくようすだった。

「どうぞ豊島としま屋やへお願ねがいします」と得とく石せきは云いった、泥どろまみれなのでうっかり眼めもあけられず、伝言でんごんにいってくれたかどうかもわからないので、彼かれはまた心こころぼそくなったのである、「お礼れいは致いたしますから、済すみませんがどうかことづけをお願ねがいします」

「おまえから礼れいなんぞ貰もらいたかあねえ」とさびのある声こえで云いうのが聞きこえた、「ことづけにはいったから安心あんしんしねえ」

町内ちょうないのかしらだな、得とく石せきは思おもった。やがて門もん七ななが来き、頭あたまから雨合羽あまがっぱのような物ものをかぶって、ようやく彼かれは立たちあがり、誰だれにともなく礼れいを述のべると、門もん七ななの手てに支ささえられて歩あるきだした。彼かれの礼れいに答こたえる者ものはなかったが、歩あるきだすとうしろで笑わらい声ごえがし、「少すこしは懲こりるだろう」と云いうのが聞きこえた。

風呂ふろの沸わくまで、顔かおと手足てあしを洗あらい、着替きがえをしながら、得とく石せきはあらましの話はなしをし、なに者ものがなんのためにしたことか、思おもい当あたることはないかと訊きいた。門もん七ななは見当けんとうもつかないと答こたえた。

「日済ひなしで恨うらみのある者ものなら、私わたくしよりおまえに仇あだをする筈はずだ」得とく石せきは痣あざのできた右みぎの太腿ふとももに膏薬こうやくを貼はりながら云いった、「おまけに大川端おおかわばたの海うみ石いしのことから治療ちりょうのことまで知しっていたのはおかしい」

「そんなことまで申もうしましたか」

「なにもかも知しっているようだ」と彼かれは首くびをかしげた、「これは日済ひなし金きんの恨うらみじゃない、ほかになにかわけがあるぞ」

得とく石せきはじっと考かんがえこんだ。

――おかね、藤井ふじい新五郎しんごろう。

おかねと藤井ふじいの名ながふっと頭あたまにうかんだ。そしてまたおくにの名なも。そうだ、と彼かれは心こころの中なかで云いった。どっちもやりかねないし、どちらかのやったことかもしれない。そうでなければ、あれほど内情ないじょうを詳くわしく知しっているわけがない。どっちの仕事しごとだろう、と考かんがえていると、次つぎにまたおみのの名なが頭あたまにうかんだ。「おみのというあの娘むすめはどうだ」と彼かれは声こえに出だして呟つぶやいた、「あの娘むすめもおれのことをよく知しっていたぞ」

だが彼かれはすぐに首くびを振ふった、「ばかな、おみのはこれからおれと夫婦ふうふになるつもりでいる娘むすめだ、金かねも充分じゅうぶんに持もっているし、おれを恨うらむ理由りゆうがないじゃないか。やるとすればおくにかおかねのどちらかだ、おそらく、藤井ふじいの付ついているおかねのほうだろう」

風呂ふろを知しらせに来きたとき、門もん七ななは「いま使つかいの者ものがこれを」と云いって、結むすび文ぶみを渡わたした。得とく石せきが披ひらいてみると、おみのからの呼出よびだし状じょうであった。

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