得石は四つ這いのまま息をひそめた。顔も両手も、着物の前も、叩きつけられた霜どけのぬかるみで、べったりと泥まみれになっている。へたに起きあがるとまたやられるに違いない、そう思ったから、その恰好のままかれらに呼びかけた。
「話せばわかる、乱暴をするな」と彼は云った、「ぜんたいなにが欲しいんだ」
「この野郎ふざけたことをぬかすな」
そうどなりさま、男の一人が得石の腰を力いっぱい蹴放し、得石はもういちど前へのめった。ぐしゃっと、顔がぬかるみへ埋まったとき、彼は屈辱と怒りのために嚇となった。こいつら、殺してくれるぞ、と胸の中で絶叫したが、起きあがって、手の甲で顔を横撫でにし、口の中から泥を吐き出すうちに、辛うじてその怒りを抑え、躯の力をぬいた。
「こんなことをしてなんになるんだ」と得石は静かに云った、「そっちにはなにか望みがあるんだろう、私を痛めつけるより、肝心な話をするほうが早くはないのか」
「しぶてえ野郎だな」とばかに太い声の男が云った、「なんでも指の先か小銭で片がつくと思ってやがる、この野郎、本当に片輪者にでもしてくれざあならねえかもしれねえぜ」
「それならおいらの役だ」とべつの男が云った、「どっちをやる、手か、足か」
「待ってくれ」と得石は片手をあげた、「そんな乱暴なことはやめて、私にわかるように話してくれ、いったいどういうわけでこんなことをするのか、私がどうすればいいのか、それを聞かせてくれ」
「自分で思い当らねえのか」太い声の男がそう云って、さも汚ならしそうに睡を吐いた、「浮気な女房や後家さんに、けがらわしい治療をして高い薬料を取り、その金で料理茶屋を始め、豊島屋を始め、おまけに高利の日済し貸しまでやって、貧乏人の血を吸い取りゃあがる、この界隈の長屋だけでも、うぬのために泣いている者が何十人いるかしれねえ、いいか、それも日済し貸しが本業なら、憎まれるのを看板でやってるんだからまだいい、てめえは仮にも医者だぞ」男はそこで赤くなった、「どんな汚ならしい治療をするにもせよ業態からいえば医者だ、そいつが自分は蔭に隠れて、高利の日済しで貧乏人の血肉をごっそり絞ってやがる、そんなちくしょうがお膝元でうろうろするのを、こちとらあ黙って見ちゃあいられねえんだ」
「うぬのような人でなしはな」とべつの男が云った、「いっそ叩っ殺して大川へでも放りこみてえところだ、だがそうすりゃあこっちも兇状持ちになるから、このさきうろうろできねえように片輪にして、それで勘弁してやろうというわけだ、これで文句はねえだろう」
「わかりました、よくわかりました」得石は爪で顔の泥を落しながら、神妙に頭をさげて云った、「そういうことならおまえさんたちの云うようにしよう、金で済むことなら金を出そうし、日済し貸しをやめろなら今日にでもやめよう、云うとおりにするからどうか乱暴なことだけはしないでくれ」
「金で済むならだと」太い声の男が喉いっぱいに喚いた、「まだそんなよめえ言をぬかしゃあがるのか、野郎」
「やっちまえ」とべつの男が叫んだ。
得石は「誰か来てくれ」と叫んだ。三人の男は代る代る足蹴にし、人殺しだ、と得石は悲鳴をあげた。その声を聞きつけたのだろう、走り寄って来る人のけはいに続いて、なんだ、どうしたんだ、乱暴はよせ、などと云う五、六人の声が聞えた。
「助けて下さい」と得石は叫んだ、「私はなにもしないのにこの人たちは」
だが、口の中の泥が喉へはいり、彼は横倒しになったまま、身をちぢめて咳こんだ。足蹴はもうやんで、男たちの問答になり、三人は捨てぜりふを残しながら去っていった。残ったのは町内の人たちだろう、「けがはないか」とか、「どこの人か」などと得石に呼びかけた。――得石は豊島屋の門七を呼んでもらった。なにかかぶる物を持って来るようにと頼み、いまの三人はこの町内の者かと訊いた。町内の者でもなし、この辺ではみかけない人間だということだったが、「豊島屋」という名が出ると、その人たちは急に冷淡になり、私は用があるから、いや私もそれでは、などと云ってたち去ってゆくようすだった。
「どうぞ豊島屋へお願いします」と得石は云った、泥まみれなのでうっかり眼もあけられず、伝言にいってくれたかどうかもわからないので、彼はまた心ぼそくなったのである、「お礼は致しますから、済みませんがどうかことづけをお願いします」
「おまえから礼なんぞ貰いたかあねえ」とさびのある声で云うのが聞えた、「ことづけにはいったから安心しねえ」
町内のかしらだな、得石は思った。やがて門七が来、頭から雨合羽のような物をかぶって、ようやく彼は立ちあがり、誰にともなく礼を述べると、門七の手に支えられて歩きだした。彼の礼に答える者はなかったが、歩きだすとうしろで笑い声がし、「少しは懲りるだろう」と云うのが聞えた。
風呂の沸くまで、顔と手足を洗い、着替えをしながら、得石はあらましの話をし、なに者がなんのためにしたことか、思い当ることはないかと訊いた。門七は見当もつかないと答えた。
「日済しで恨みのある者なら、私よりおまえに仇をする筈だ」得石は痣のできた右の太腿に膏薬を貼りながら云った、「おまけに大川端の海石のことから治療のことまで知っていたのはおかしい」
「そんなことまで申しましたか」
「なにもかも知っているようだ」と彼は首をかしげた、「これは日済し金の恨みじゃない、ほかになにかわけがあるぞ」
得石はじっと考えこんだ。
――おかね、藤井新五郎。
おかねと藤井の名がふっと頭にうかんだ。そしてまたおくにの名も。そうだ、と彼は心の中で云った。どっちもやりかねないし、どちらかのやったことかもしれない。そうでなければ、あれほど内情を詳しく知っているわけがない。どっちの仕事だろう、と考えていると、次にまたおみのの名が頭にうかんだ。「おみのというあの娘はどうだ」と彼は声に出して呟いた、「あの娘もおれのことをよく知っていたぞ」
だが彼はすぐに首を振った、「ばかな、おみのはこれからおれと夫婦になるつもりでいる娘だ、金も充分に持っているし、おれを恨む理由がないじゃないか。やるとすればおくにかおかねのどちらかだ、おそらく、藤井の付いているおかねのほうだろう」
風呂を知らせに来たとき、門七は「いま使いの者がこれを」と云って、結び文を渡した。得石が披いてみると、おみのからの呼出し状であった。