← Library‹ 五瓣の椿 第三話 七

風呂ふろからあがった得とく石せきは、鏡かがみに向むかって髪かみを結ゆわせながら、困こまった、困こまったと心こころの中なかで云いい続つづけた。顔かおには二ふたつ大おおきな青痣あおあざがあるし、左ひだりの眼めは殆ほとんど腫はれふさがっている。右みぎの太腿ふとももも、痣あざのできたところが熱ねつをもって痛いたみ、歩あるくときには少すこし庇かばわなければならなかった。

――浅草あさくさみよし町まちの「ひらの」で待まつ。

泊とまるつもりで来きてくれ、という文面ぶんめんであった。この顔かおで、びっこをひきながら、いやだめだ、それはできない。こんなざまを見みせるわけにはいかない、これではあいそを尽つかされるばかりでなく、いい笑わらい者ものにされてしまう。今日きょうは断ことわろう、と彼かれは思おもった。

「なにか仰おっしゃいましたか」と髪結かみゆいの又吉またよしが訊きいた。

「なんでもない、早はやくしてくれ」と彼かれは云いった。

髪かみが終おわるとすぐ、得とく石せきは酒さけを命めいじた。門もん七ななは打身うちみに酒さけは悪わるいと止とめたが、彼かれはよけいなことを云いうなとどなりつけた。彼かれがどなるなどということは例れいがないので、門もん七ななはすぐに女中じょちゅうを呼よび、帳場ちょうばの次つぎの間まに酒さけの支度したくをさせた。座敷ざしきがみなふさがっているし、あいている座敷ざしきも約束やくそくがあるから、というのである。どこでもいい、酌しゃくの相手あいても要いらない、おれを一人ひとりにしてくれ、と得とく石せきは云いった。

「よし、待まってろ」と彼かれは手酌てじゃくで飲のみながら呟つぶやいた、「誰だれのさしがねかきっと探さぐり出だしてやる、このまま泣なきねいりにはしない、今日きょうの仕返しかえしはたっぷりしてやるぞ」

酒さけはまずく、いくら飲のんでも酔よわなかった。どこの馬うまの骨ほねとも知しれぬならず者もののために、小突こづきまわされ、足蹴あしげにされ、泥どろだらけになって悲鳴ひめいをあげた。自分じぶんの姿すがたがどんなにあさましく、みじめだったかを思おもうと、怒いかりのために全身ぜんしんがふるえ、持もっている盃さかずきから幾いくたびも酒さけがこぼれた。――店みせはいそがしかった。泊とまり客きゃくのほかに寄合よりあいがあるとみえ、人ひとの出入でいりや膳ぜんのあげさげで、帳場ちょうばも板場いたばも沸わくようなありさまであった。

「待まてよ、待まて待まて」と彼かれは五ご本ほんめの徳利とっくりを取とりながら云いった、「そう思おもい詰つめるなよ、先生せんせい、仕返しかえしをしてどうなる、仕返しかえしをして溜飲りゅういんをさげたところで、それっきりのはなしじゃあないか、ふん、金持かねもち喧嘩けんかせずだ、おかねの仕事しごとにしろおくにの仕事しごとにしろ、どうせすぐに放ほうり出だす女おんなだ、二人ふたりとも、野良猫のらねこのように放ほうり出だしてやる、そしてこっちはおみのと」

彼かれはそこで息いきをひそめ、片手かたてで腫はれた眼めを押おさえながら、じっとなにか考かんがえこんだ。

「そうだな」とやがて彼かれは低ひくい声こえで、さぐるように、ゆっくりと呟つぶやいた、「それも手てだ、うん、あの娘むすめにはまだ気きごころの知しれないところがある、そうだ、この顔かおを見みせれば本心ほんしんがわかるかもしれない」

得とく石せきは持もっている盃さかずきをみつめた、「本当ほんとうにおれが好すきで、おれと夫婦ふうふになるつもりなら、この顔かおを見みたくらいであいそづかしはしないだろう、――もしこのざまを見みて笑わらうか、あいそづかしをするようなら、いまのうちに諦あきらめるほうが身みのためだ」

彼かれは手てを叩たたいて酒さけを命めいじた。

「まだ刻ときはたっぷりある」と彼かれは自分じぶんをなだめるように云いった、「もう少すこし考かんがえてみよう、なにしろ相手あいてはまだ娘むすめだからな」

得とく石せきはさらに二に本ほん飲のんだ。

箸はしがころげても笑わらう年としごろ、という言葉ことばが頭あたまにひっかかっていた。たとえおみのがしんじつ自分じぶんを愛あいしているとしても、そういう年としごろであってみれば笑わらいだすかもしれない。そんなことで本心ほんしんをためすなどというのは罪つみだ、と彼かれは思おもった。しかし一方いっぽうでは「泊とまるつもりで来きてくれ」という手紙てがみの文字もじが、しだいに強つよく、さからいがたい力ちからで彼かれを掴つかみ、おみののほうへと彼かれをひきよせた。

「よし、運うんだめしだ」と彼かれは自分じぶんに頷うなずいた、「男おとこは度胸どきょう、当あたって砕くだけろだ」

得とく石せきは手てを叩たたいて門もん七ななを呼よび、駕籠かごを呼よべと命めいじたが、すぐに気きがついて、貸金かしきんの証文しょうもんを揃そろえて来こい、と云いった。門もん七ななは彼かれがひどく酔よっているのを見みて渋しぶった。証文しょうもんなどをどうなさるのですか、と訊きき返かえすより早はやく、得とく石せきはまた、「云いうとおりにしろ」とどなった。――自分じぶんでは気きのつかないうちに、彼かれは殆ほとんど泥酔でいすいしてい、指定していされた時刻じこくも忘わすれて、駕籠かごに乗のった。

「ひらの」は隅田すみだ川かわに面めんした料理りょうり茶屋ちゃやで古ふるい平屋ひらや造つくりではあるが、かなり広ひろいらしく、松まつを植うえた庭にわには、別棟べっとうの小ちいさな茶屋ちゃやが二にた棟むねあった。――店先みせさきで名なを告つげると、女中じょちゅうは土間どまへおりて来きて、「お伴つれさまはまだみえないが」と断ことわり、こちらに支度したくがしてあるからと、脇わきの戸口とぐちから庭にわのほうへまわり、川かわに面めんした別棟べっとうの一ひとつへ案内あんないした。

「お約束やくそくは七ななつ(四よん時じ)だとうかがいましたが」と女中じょちゅうは火鉢ひばちの側がわへ座ざ蒲団ふとんを直なおし、火ひをみながら云いった、「それまでお待まちになりますか、それともなにか召めし上あがりますか」

「酒さけをくれ」と得とく石せきは云いった、「それから、手拭てぬぐいを冷ひやして来きてもらおうか」

「まあ、――」女中じょちゅうは初はじめて気きづいたように、彼かれの顔かおを見みて眼めをみはった、「まあひどい、どうなさいました」

「駕籠かごがぶっつかったんだ、まぬけな駕籠舁かきで、向むこうから二に枚まいでとばして来きた駕籠かごとまともに」彼かれは右手みぎての拳こぶしで左ひだりの掌てのひらをぴしっと叩たたいた、「こうぶっつかりゃあがった」

「まあ危あぶないこと、駕籠かごにもうっかり乗のれませんねえ」と云いって女中じょちゅうは立たった、「では、ただいますぐに持もってまいります」

女中じょちゅうはまず金盥かなだらいの水みずへ手拭てぬぐいを添そえて持もって来き、次つぎに酒肴しゅこうをはこんで来きた。このあいだに、得とく石せきは家いえの中なかを見みたが、部屋へや数すうは二にた間あいだ、そこが六ろく帖じょうで、隣となりは四よん帖じょう半はん。六ろく帖じょうの窓まどをあけると川かわが見みえるが、四よん帖じょう半はんのほうは雨戸あまどを閉しめ、屏風びょうぶをまわした中なかに夜具やぐが敷しいてあった。枕許まくらもとには絹張きぬばりの丸まる行燈あんどんと莨盆たばこぼんや水差みずさしまで揃そろっていた。――水みずで絞しぼった手拭てぬぐいで眼めを冷ひやしながら、得とく石せきは女中じょちゅうを相手あいてに機嫌きげんよく飲のんだ。ならず者ものたちに対たいする怒いかりも、かれらを誰だれが操あやつったかということも、さっぱりと頭あたまから消きえてしまい、いまはただおみのが来くることと、来きてからあとの期待きたいとで、じっとしていることができないというようすだった。

――今日きょうこそ逃にがさないぞ。

女中じょちゅうの話はなしをうわのそらに聞ききながら、心こころの中なかで幾十いくじゅう度どとなく繰返くりかえした。今日きょうからおれの新あたらしい日ひが始はじまるんだ、生娘きむすめだというだけが、未み経験けいけんだから気きになるが、なに、おれの腕うでなら大丈夫だいじょうぶだ。それに、これまでの大胆だいたんなやりかたから考かんがえれば、もう男おとこを知しっているかもしれない。そうだろう、いや、それは違ちがう、おれはおみのの胸むねを診みている、あの乳房ちぶさは、男おとこを知しらない証拠しょうこだ。

「あらいやだ」と女中じょちゅうが云いった、「あたしの名なはおふみですよ」

「おれがなにか云いったか」

「いまおみのって仰おっしゃったでしょ」

「それは失礼しつれい」彼かれは気取きどって一揖いちゆうした、「ではおふみどの、酒さけを頼たのみます」

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