風呂からあがった得石は、鏡に向かって髪を結わせながら、困った、困ったと心の中で云い続けた。顔には二つ大きな青痣があるし、左の眼は殆んど腫れふさがっている。右の太腿も、痣のできたところが熱をもって痛み、歩くときには少し庇わなければならなかった。
――浅草みよし町の「ひらの」で待つ。
泊るつもりで来てくれ、という文面であった。この顔で、びっこをひきながら、いやだめだ、それはできない。こんなざまを見せるわけにはいかない、これではあいそを尽かされるばかりでなく、いい笑い者にされてしまう。今日は断わろう、と彼は思った。
「なにか仰しゃいましたか」と髪結の又吉が訊いた。
「なんでもない、早くしてくれ」と彼は云った。
髪が終るとすぐ、得石は酒を命じた。門七は打身に酒は悪いと止めたが、彼はよけいなことを云うなとどなりつけた。彼がどなるなどということは例がないので、門七はすぐに女中を呼び、帳場の次の間に酒の支度をさせた。座敷がみなふさがっているし、あいている座敷も約束があるから、というのである。どこでもいい、酌の相手も要らない、おれを一人にしてくれ、と得石は云った。
「よし、待ってろ」と彼は手酌で飲みながら呟いた、「誰のさしがねかきっと探り出してやる、このまま泣きねいりにはしない、今日の仕返しはたっぷりしてやるぞ」
酒はまずく、いくら飲んでも酔わなかった。どこの馬の骨とも知れぬならず者のために、小突きまわされ、足蹴にされ、泥だらけになって悲鳴をあげた。自分の姿がどんなにあさましく、みじめだったかを思うと、怒りのために全身がふるえ、持っている盃から幾たびも酒がこぼれた。――店はいそがしかった。泊り客のほかに寄合いがあるとみえ、人の出入りや膳のあげさげで、帳場も板場も沸くようなありさまであった。
「待てよ、待て待て」と彼は五本めの徳利を取りながら云った、「そう思い詰めるなよ、先生、仕返しをしてどうなる、仕返しをして溜飲をさげたところで、それっきりのはなしじゃあないか、ふん、金持喧嘩せずだ、おかねの仕事にしろおくにの仕事にしろ、どうせすぐに放り出す女だ、二人とも、野良猫のように放り出してやる、そしてこっちはおみのと」
彼はそこで息をひそめ、片手で腫れた眼を押えながら、じっとなにか考えこんだ。
「そうだな」とやがて彼は低い声で、さぐるように、ゆっくりと呟いた、「それも手だ、うん、あの娘にはまだ気ごころの知れないところがある、そうだ、この顔を見せれば本心がわかるかもしれない」
得石は持っている盃をみつめた、「本当におれが好きで、おれと夫婦になるつもりなら、この顔を見たくらいであいそづかしはしないだろう、――もしこのざまを見て笑うか、あいそづかしをするようなら、いまのうちに諦めるほうが身のためだ」
彼は手を叩いて酒を命じた。
「まだ刻はたっぷりある」と彼は自分をなだめるように云った、「もう少し考えてみよう、なにしろ相手はまだ娘だからな」
得石はさらに二本飲んだ。
箸がころげても笑う年ごろ、という言葉が頭にひっかかっていた。たとえおみのがしんじつ自分を愛しているとしても、そういう年ごろであってみれば笑いだすかもしれない。そんなことで本心をためすなどというのは罪だ、と彼は思った。しかし一方では「泊るつもりで来てくれ」という手紙の文字が、しだいに強く、さからいがたい力で彼を掴み、おみののほうへと彼をひきよせた。
「よし、運だめしだ」と彼は自分に頷いた、「男は度胸、当って砕けろだ」
得石は手を叩いて門七を呼び、駕籠を呼べと命じたが、すぐに気がついて、貸金の証文を揃えて来い、と云った。門七は彼がひどく酔っているのを見て渋った。証文などをどうなさるのですか、と訊き返すより早く、得石はまた、「云うとおりにしろ」とどなった。――自分では気のつかないうちに、彼は殆んど泥酔してい、指定された時刻も忘れて、駕籠に乗った。
「ひらの」は隅田川に面した料理茶屋で古い平屋造りではあるが、かなり広いらしく、松を植えた庭には、別棟の小さな茶屋が二た棟あった。――店先で名を告げると、女中は土間へおりて来て、「お伴れさまはまだみえないが」と断わり、こちらに支度がしてあるからと、脇の戸口から庭のほうへまわり、川に面した別棟の一つへ案内した。
「お約束は七つ(四時)だとうかがいましたが」と女中は火鉢の側へ座蒲団を直し、火をみながら云った、「それまでお待ちになりますか、それともなにか召し上りますか」
「酒をくれ」と得石は云った、「それから、手拭を冷やして来てもらおうか」
「まあ、――」女中は初めて気づいたように、彼の顔を見て眼をみはった、「まあひどい、どうなさいました」
「駕籠がぶっつかったんだ、まぬけな駕籠舁きで、向うから二枚でとばして来た駕籠とまともに」彼は右手の拳で左の掌をぴしっと叩いた、「こうぶっつかりゃあがった」
「まあ危ないこと、駕籠にもうっかり乗れませんねえ」と云って女中は立った、「では、ただいますぐに持ってまいります」
女中はまず金盥の水へ手拭を添えて持って来、次に酒肴をはこんで来た。このあいだに、得石は家の中を見たが、部屋数は二た間、そこが六帖で、隣りは四帖半。六帖の窓をあけると川が見えるが、四帖半のほうは雨戸を閉め、屏風をまわした中に夜具が敷いてあった。枕許には絹張りの丸行燈と莨盆や水差まで揃っていた。――水で絞った手拭で眼を冷やしながら、得石は女中を相手に機嫌よく飲んだ。ならず者たちに対する怒りも、かれらを誰が操ったかということも、さっぱりと頭から消えてしまい、いまはただおみのが来ることと、来てからあとの期待とで、じっとしていることができないというようすだった。
――今日こそ逃がさないぞ。
女中の話をうわのそらに聞きながら、心の中で幾十度となく繰返した。今日からおれの新らしい日が始まるんだ、生娘だというだけが、未経験だから気になるが、なに、おれの腕なら大丈夫だ。それに、これまでの大胆なやりかたから考えれば、もう男を知っているかもしれない。そうだろう、いや、それは違う、おれはおみのの胸を診ている、あの乳房は、男を知らない証拠だ。
「あらいやだ」と女中が云った、「あたしの名はおふみですよ」
「おれがなにか云ったか」
「いまおみのって仰しゃったでしょ」
「それは失礼」彼は気取って一揖した、「ではおふみどの、酒を頼みます」