時刻はわからない。おみのがいつ来たかも覚えていない。気がついてみると自分は横になって、すぐ眼の前におみのがいた。枕が倒れ、頭が箱に当っていたので、そのひとところが痺れていた。
「もういいでしょ、お起きなさいな」とおみのが云った、「せっかくの晩なのに、いまから酔い潰れちまうなんてつまらないじゃありませんか」
「済まない、潰れるほど酔ってはいないんだ」と云って起き直ったが、右の太腿がするどく痛んだので、彼は思わず呻き声をあげた、「これはひどい、どうしたんだ」
「たいへんな災難でしたのね」とおみのが云った、「いったいあの三人はどういう素姓の者なんですか」
「あの三人、――」得石は反射的に片ほうの眼を押えながら、訝しげに訊き返した、「私は乗った駕籠がぶっつかって」
おみのは微笑しながらかぶりを振った。
「嘘を仰しゃってもだめ」とおみのは云った、「あなたに会わせろって、さっきその三人がここへ来たんですもの」
得石の顔が恐怖のために硬ばった。
「ここへ」と彼は吃った、「三人がここへ来たって」
「先生の駕籠のあとから跟けて来たんですってよ」
「それで」と彼は声を詰まらせた、「その男たちはどうした」
「あっちで酒を飲んでいますわ」
「あげたのか」
「だってこの店の表まで駕籠を跟けて来たっていうんですもの」おみのはやわらかく微笑しながら、燗徳利を取った、「いいじゃありませんか、一つめしあがれ」
「しかしそいつらは」
「盃をお持ちになって、そんなにびくびくすることはないでしょ」
「びくびくするって、私がか」得石は坐り直して盃を持ったが、その手はひどく震えていた、「ばかな、あんな三下のやくざ者なんぞ、うん、ちょうどいい、女中をちょっと呼んでくれないか」
おみのは躯をまっすぐにした。
「失礼じゃなくって、海野先生」とおみのは云った、「今日は召使にでも仰しゃるようなお口ぶりを、なさるわ、あたしそんな口のききかたをされるの嫌いです」
「いやこれは、これは失礼」彼はいそいで低頭した、「つい気をゆるしたもので粗忽をしました、このとおりです、お気に障ったらどうか勘弁して下さい」
「それでいいわ」おみのは頷いた、「あたしわがまま育ちだから、いっしょになるまでは大事にして頂きたいの」
「わかりました、これからは充分に気をつけます」
「女中を呼んでどうなさるんですか」
「あの三人は私に乱暴をしたんです」と彼はまた眼を押えながら云った、「私とは縁もゆかりもないし、なんの理由もなく三人で踏んだり蹴ったりしました」
「理由がないこと慥かですの」
「もちろん」と得石は口ごもった、「もちろん理由なんかある筈がありません」
「それであなたは、黙ってされるままになっていたんですか」
「どうしようにも、相手は命知らずのあぶれ者だし、三人に一人ですからね」と彼は殊勝な口ぶりで云った、「へたに手向いをして万一のことがあってはと、歯をくいしばってがまんしていたんです」
「おえらいわ」
おみのはくすっと笑った。
「三人の話ではあなた泥まみれになったんですって、頭から顔、手足まですっかり泥まみれになって、眼鼻の区別もつかなかったって云ってましたわ、もちろん嘘でしょうけれどね」
「あいつらと、話したんですか」
「あたしが出なければここへ踏み込んで来るって云うんですもの、しかたがないから向うへいって、酒の支度をしてなだめて来たんですわ」
おみのが酌をしてやり、得石は一と口啜ったが、咽せて、ひどく咳をした。
「それで、女中を呼んでどうなさるの」
「町方へ訴えてやるつもりです」と云って彼は腫れた眼と顔の痣と、太腿を押えた、「このとおり乱暴の証拠が残ってるし、平松町の町内の者も証人になってくれます」
「そうね、そんな悪い人間はお上の手で仕置をしてもらうほうがいいわ」おみのはそこでふと得石の顔を見た、「――それはいいけれど、先生のほうは大丈夫かしら」
「私のほうとは」
「先生のごしょうばいのほうよ」
得石は訝しげにおみのを見た。
「だって」とおみのが云った、「お医者はほかのしょうばいをしてはいけないって、お上のきまりがあるそうじゃありませんか」
得石は知らなかった。しかしおみのに云われてみると、そういう法度があったようにも思えた。
「そうかもしれないが」と彼は不決断に云った、「それとこれとは話が違うから」
「あの三人は先生のことをよく知っていますよ、海石のことも、豊島屋のことも、日済し貸しのことも」とおみのは云った。「――三人がお繩になれば、きっとなにもかも申上げてしまうでしょ、それでもいいかしら」
得石は進退に窮した。訴人するといきまいた直後、こんどはそれを取り消さなければならない。しかもおみのに対してだから、どうにも恰好がつかなかった。
「少し飲ませて下さい」彼は手酌で二つばかり飲んだ、「酔いがさめてしまったらしい、――貴女もどうですか」
「女中を呼ぶんでしょう」
「面倒だ、いや、面倒くさくなりました」と彼はまた一つ飲んだ、「貴女とのせっかくの晩に、そんな面倒なことはよしましょう、もう考えるだけでもうんざりですよ」
「ではあの人たちを帰して来ます」
おみのが立つのを見て、得石は驚いたように腰を浮かせた。
「どうするんです、おみのさん」
「あの人たちお金をよこせといって動かないんです」とおみのは云った、「だからお金を遣って帰して来ますわ」
「金って、幾らよこせと云うんです」
「そんなことはあたしの役」おみのは媚びた眼で得石をにらんだ、「先生は心配なさらなくてもようございますの」
「まさかまた、すっぽかすんじゃあないでしょうね」
おみのは黙って、微笑しながらかぶりを振った。