← Library‹ 五瓣の椿 第三話 八

時刻じこくはわからない。おみのがいつ来きたかも覚おぼえていない。気きがついてみると自分じぶんは横よこになって、すぐ眼めの前まえにおみのがいた。枕まくらが倒たおれ、頭あたまが箱はこに当あたっていたので、そのひとところが痺しびれていた。

「もういいでしょ、お起おきなさいな」とおみのが云いった、「せっかくの晩ばんなのに、いまから酔よい潰つぶれちまうなんてつまらないじゃありませんか」

「済すまない、潰つぶれるほど酔よってはいないんだ」と云いって起おき直なおったが、右みぎの太腿ふとももがするどく痛いたんだので、彼かれは思おもわず呻うめき声ごえをあげた、「これはひどい、どうしたんだ」

「たいへんな災難さいなんでしたのね」とおみのが云いった、「いったいあの三さん人にんはどういう素姓すじょうの者ものなんですか」

「あの三さん人にん、――」得とく石せきは反射はんしゃ的てきに片かたほうの眼めを押おさえながら、訝いぶかしげに訊きき返かえした、「私わたくしは乗のった駕籠かごがぶっつかって」

おみのは微笑びしょうしながらかぶりを振ふった。

「嘘うそを仰おっしゃってもだめ」とおみのは云いった、「あなたに会あわせろって、さっきその三さん人にんがここへ来きたんですもの」

得とく石せきの顔かおが恐怖きょうふのために硬こわばった。

「ここへ」と彼かれは吃どもった、「三さん人にんがここへ来きたって」

「先生せんせいの駕籠かごのあとから跟つけて来きたんですってよ」

「それで」と彼かれは声こえを詰つまらせた、「その男おとこたちはどうした」

「あっちで酒さけを飲のんでいますわ」

「あげたのか」

「だってこの店みせの表ひょうまで駕籠かごを跟つけて来きたっていうんですもの」おみのはやわらかく微笑びしょうしながら、燗かん徳利とっくりを取とった、「いいじゃありませんか、一ひとつめしあがれ」

「しかしそいつらは」

「盃さかずきをお持もちになって、そんなにびくびくすることはないでしょ」

「びくびくするって、私わたくしがか」得とく石せきは坐すわり直なおして盃さかずきを持もったが、その手てはひどく震ふるえていた、「ばかな、あんな三下さんしたのやくざ者ものなんぞ、うん、ちょうどいい、女中じょちゅうをちょっと呼よんでくれないか」

おみのは躯むくろをまっすぐにした。

「失礼しつれいじゃなくって、海野うんの先生せんせい」とおみのは云いった、「今日きょうは召使めしつかいにでも仰おっしゃるようなお口くちぶりを、なさるわ、あたしそんな口くちのききかたをされるの嫌きらいです」

「いやこれは、これは失礼しつれい」彼かれはいそいで低頭ていとうした、「つい気きをゆるしたもので粗忽そこつをしました、このとおりです、お気きに障さわったらどうか勘弁かんべんして下ください」

「それでいいわ」おみのは頷うなずいた、「あたしわがまま育そだちだから、いっしょになるまでは大事だいじにして頂いただきたいの」

「わかりました、これからは充分じゅうぶんに気きをつけます」

「女中じょちゅうを呼よんでどうなさるんですか」

「あの三さん人にんは私わたくしに乱暴らんぼうをしたんです」と彼かれはまた眼めを押おさえながら云いった、「私わたくしとは縁えんもゆかりもないし、なんの理由りゆうもなく三さん人にんで踏ふんだり蹴けったりしました」

「理由りゆうがないこと慥たしかですの」

「もちろん」と得とく石せきは口くちごもった、「もちろん理由りゆうなんかある筈はずがありません」

「それであなたは、黙だまってされるままになっていたんですか」

「どうしようにも、相手あいては命いのち知しらずのあぶれ者ものだし、三さん人にんに一人ひとりですからね」と彼かれは殊勝しゅしょうな口くちぶりで云いった、「へたに手向てむかいをして万一まんいちのことがあってはと、歯はをくいしばってがまんしていたんです」

「おえらいわ」

おみのはくすっと笑わらった。

「三さん人にんの話はなしではあなた泥どろまみれになったんですって、頭あたまから顔かお、手足てあしまですっかり泥どろまみれになって、眼鼻めはなの区別くべつもつかなかったって云いってましたわ、もちろん嘘うそでしょうけれどね」

「あいつらと、話はなしたんですか」

「あたしが出でなければここへ踏ふみ込こんで来くるって云いうんですもの、しかたがないから向むこうへいって、酒さけの支度したくをしてなだめて来きたんですわ」

おみのが酌しゃくをしてやり、得とく石せきは一いちと口くち啜すすったが、咽むせて、ひどく咳せきをした。

「それで、女中じょちゅうを呼よんでどうなさるの」

「町方まちかたへ訴うったえてやるつもりです」と云いって彼かれは腫はれた眼めと顔かおの痣あざと、太腿ふとももを押おさえた、「このとおり乱暴らんぼうの証拠しょうこが残のこってるし、平松ひらまつ町まちの町内ちょうないの者ものも証人しょうにんになってくれます」

「そうね、そんな悪わるい人間にんげんはお上かみの手てで仕置しおきをしてもらうほうがいいわ」おみのはそこでふと得とく石せきの顔かおを見みた、「――それはいいけれど、先生せんせいのほうは大丈夫だいじょうぶかしら」

「私わたくしのほうとは」

「先生せんせいのごしょうばいのほうよ」

得とく石せきは訝いぶかしげにおみのを見みた。

「だって」とおみのが云いった、「お医者いしゃはほかのしょうばいをしてはいけないって、お上かみのきまりがあるそうじゃありませんか」

得とく石せきは知しらなかった。しかしおみのに云いわれてみると、そういう法度はっとがあったようにも思おもえた。

「そうかもしれないが」と彼かれは不ふ決断けつだんに云いった、「それとこれとは話はなしが違ちがうから」

「あの三さん人にんは先生せんせいのことをよく知しっていますよ、海うみ石いしのことも、豊島としま屋やのことも、日済ひなし貸かしのことも」とおみのは云いった。「――三さん人にんがお繩なわになれば、きっとなにもかも申上もうしあげてしまうでしょ、それでもいいかしら」

得とく石せきは進退しんたいに窮きゅうした。訴人そにんするといきまいた直後ちょくご、こんどはそれを取とり消けさなければならない。しかもおみのに対たいしてだから、どうにも恰好かっこがつかなかった。

「少すこし飲のませて下ください」彼かれは手酌てじゃくで二ふたつばかり飲のんだ、「酔よいがさめてしまったらしい、――貴女きじょもどうですか」

「女中じょちゅうを呼よぶんでしょう」

「面倒めんどうだ、いや、面倒めんどうくさくなりました」と彼かれはまた一ひとつ飲のんだ、「貴女きじょとのせっかくの晩ばんに、そんな面倒めんどうなことはよしましょう、もう考かんがえるだけでもうんざりですよ」

「ではあの人ひとたちを帰かえして来きます」

おみのが立たつのを見みて、得とく石せきは驚おどろいたように腰こしを浮うかせた。

「どうするんです、おみのさん」

「あの人ひとたちお金かねをよこせといって動うごかないんです」とおみのは云いった、「だからお金かねを遣やって帰かえして来きますわ」

「金かねって、幾いくらよこせと云いうんです」

「そんなことはあたしの役やく」おみのは媚こびた眼めで得とく石せきをにらんだ、「先生せんせいは心配しんぱいなさらなくてもようございますの」

「まさかまた、すっぽかすんじゃあないでしょうね」

おみのは黙だまって、微笑びしょうしながらかぶりを振ふった。

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