← Library‹ 五瓣の椿 第三話 九

母屋おもやの廊下ろうかへあがると、おみのはずっといって、小こ部屋へやの障子しょうじをあけた。中なかには小女こおんなが一人ひとり、火鉢ひばちを抱かかえるようにして、行燈あんどんの光ひかりで双そう紙本しほんを読よんでいた。

「まさちゃん」とおみのは云いった、「あんたもうごはんは済すませたの」

「はい、頂いただきました」

「ではちょっとお使つかいにいって来きてちょうだい」おみのはふところから紙入かみいれを出だし、幾いくらかの銭ぜにを小女こおんなに渡わたしながら云いった、「これで梅花ばいか香こうを買かって来きて、粉こなで箱入はこいりになっているほうよ、知しってるでしょ」

「はい知しってます」

「そしてね、買かって来きたら向むこうの離はなれへ来きて、そっとあたしを呼よびだしておくれ、用ようは云いわずにただ呼よぶの、わかったわね」

「はい、わかりました」

小女こおんなが店みせのほうへ出でていってから、おみのは帳場ちょうばへゆき、女中じょちゅうに酒さけと肴さかなを頼たのんで、ゆっくりと元もとの離はなれへ戻もどった。「三さん人にんの男おとこ」というのには会あわなかったし、そんな人間にんげんがいるようすもない。彼女かのじょは「かれら」と話はなすだけの時間じかんを費ついやしただけのようであった。

「ああ戻もどってくれたか」おみのを見みると得とく石せきは片手かたてで胸むねを撫なでた、「ながいものだから、また置おいてきぼりをくったかと思おもいましたよ」

「あんなことを」おみのは火鉢ひばちの脇わきに坐すわり、掛かけてある燗鍋かんなべに触さわってみながら、したたるように嬌かしいながし眼めをくれた、「――今夜こんやは泊とまるつもりでって、手紙てがみに書かいてあげたでしょう」

「こんどこそ、本気ほんきにしますよ」

「ではいままでは、本気ほんきじゃなかったんですか」

おみのは酒さけを徳利とっくりに移うつし、燗鍋かんなべへ新あたらしく酒さけを注つぎ足たしてから、彼かれに酌しゃくをした。

「冗談じょうだんじゃない、こっちは初はじめから本気ほんきだったのに、いつも肝心かんじんなところでおみのさんに逃にげられたんですよ」そこで彼かれは思おもいだしたように、慌あわててまわりを眺ながめまわした、「今日きょうは約束やくそくした物ものもちゃんと持もって来きたし、――へんだな、さっきここへ」

「手提てさげですか」とおみのが云いった、「手提てさげならここにありますよ」

火鉢ひばちの脇わきから手提てさげを取とって、おみのは彼かれの手てへ渡わたした。彼かれはいそいで袋ふくろをあけようとしたが、紐ひもがもつれてなかなかあかなかった。

「なにをお出だしになるの」

「このまえの約束やくそくした物ものですよ」と得とく石せきはじれったそうにもつれた紐ひもを解とこうとした、「――貸金かしきんの証文しょうもんを纒まとめて持もって来きたんです」

「あらいやだ、それならさっきみせて下くだすったじゃありませんか」

得とく石せきは顔かおをあげた、「みせましたか」

「あたしに出だしてみせて、それから横よこにおなりになったのよ、覚おぼえていらっしゃらないんですか」

「そうでしたか」彼かれは紐ひもと取とり組くむのをやめ、手提てさげをそこへ置おいて盃さかずきを取とった、「するとやっぱり酔よってたんだな」

「証文しょうもんはみせて頂いただいたわ、そのほかにもう一ひとつだけ、うかがいたいことがあるの」

「やれやれ、まだなにかあるんですか」

そのとき女中じょちゅうが酒肴さけさかなを持もって来きた。おみのはあがり端はなまで出でてゆき、自分じぶんでそれを運はこびこんだ。そのとき得とく石せきは、おみのが女中じょちゅうに、なにか囁ささやくのを聞ききとめた。

「なんです」と彼かれはおみのが坐すわるのを待まちかねて云いった、「どうかしたんですか」

「なんでもないのよ」とおみのが云いった、「あの男おとこたちまだ飲のんでるんですって、でもちゃんと云いうだけの物ものを遣つかったんだからもう帰かえるでしょ、大丈夫だいじょうぶよ」

得とく石せきは不安ふあんそうに盃さかずきを口くちへ持もっていった。おみのは眼めの隅すみでそのようすを見み、それから酌しゃくをして云いいだした。

「あたしこのまえ、先生せんせいのことがすっかり知しりたいって、云いったでしょ」

「もう洗あらいざらい知しってるくせに」

「まだ知しりたいことがたくさんあるの、先生せんせいがどうしてそう女おんなにもてるのか、先生せんせいのために死しんだ人ひともいるそうだし、むさし屋やのおかみさんは御ご主人しゅじんをよそにして、先生せんせいにすっかり身揚みあがりをしたって、なぜみんなをそんなに夢中むちゅうにさせることができるのか、今夜こんやうかがっておきたいのよ」

「それは口くちで云いわなくっても、もうすぐ貴女きじょ自身じしんで知しることができますよ」

「そのまえに知しっておきたいのよ」おみのは上じょう半身はんしんをゆらっと振ふった、「まさか妖術ようじゅつを使つかうわけでもないでしょう」

「立派りっぱな医術いじゅつの一ひとつです」と得とく石せきは酒さけを呷あおって云いった、「もっとも誰だれにでもできることじゃない、こればかりは身みに備そなわったものだろうが、――誰だれか来きたようじゃないか」

あがり端はしで「ごめん下ください」と云いう声こえがし、得とく石せきはびくっと躯からだを固かたくした。おみのは立たってゆき、なにか話はなしあっていたが、やがて戻もどって来くると、得とく石せきに笑わらいかけながら坐すわった。

「なんだ」と彼かれが訊きいた。

「あの三さん人にんが帰かえりましたって、これで安心あんしんなすったでしょ」と云いって、おみのは膳ぜんの上うえの盃さかずきを取とった、「あたしも頂いただくから、いまの話はなしを続つづけてちょうだい」

得とく石せきは話はなしだした。不安ふあんと緊張きんちょうから解放かいほうされて、身みも心こころもくつろいだというようすだった。

おみのは隙ひまなしに酌しゃくをし、それをぐいぐい飲のみながら、いい気持きもちそうに話はなし続つづけた。女おんなのからだの機能きのうから始はじめたが、詳くわしいことはおみのにはよくわからないらしい。それとも聞きくふりをして聞きいていないのか、かたちだけ合槌あいづちを打うちながら、もっぱら酒さけの燗かんと酌しゃくをすることにかかっていた。

「そのかみさんは首くびを吊つって死しんだ」

「まあ可哀かわいそうに」

「そう思おもうでしょう、当人とうにん以外いがいはみんな可哀かわいそうにと思おもうだろうが、本当ほんとうのところそのかみさんは満足まんぞくして死しんだんですよ」

「どうしてわかるの」

「その女おんなは子こを欲ほしがっていた」と彼かれは独ひとりで頷うなずいた、「亭主ていしゅと七なな年ねんもいっしょにいて、どうしても子こができない、年としは二十にじゅう六ろくだったと思おもうが、子こができないうえにあのほうも不満ふまんだった、わかりますか」

「続つづけてちょうだい」

「私わたくしは診察しんさつしてすぐにそれがわかった、女おんなは自分じぶんではなにも知しらなかった、ただ子供こどもが欲ほしいのに亭主ていしゅが頼たよりない、というだけだったんです」そこでまた彼かれは、女おんなのからだの微妙びみょうさについて繰返くりかえした、「――私わたくしが治療ちりょうしてやると、その女おんなは吃驚びっくりしました、自分じぶんがどうなったかもわからなかった、こんなことは生うまれて初はじめてだと云いって、それから約やく二にた月間げっかん、躯むくろに障さわりのある日ひを除のぞいて、二ふた日かおきにきちんとかよって来きた」

「盃さかずきがお留守るすよ」とおみのが云いった。

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%