母屋の廊下へあがると、おみのはずっといって、小部屋の障子をあけた。中には小女が一人、火鉢を抱えるようにして、行燈の光で双紙本を読んでいた。
「まさちゃん」とおみのは云った、「あんたもうごはんは済ませたの」
「はい、頂きました」
「ではちょっとお使いにいって来てちょうだい」おみのはふところから紙入れを出し、幾らかの銭を小女に渡しながら云った、「これで梅花香を買って来て、粉で箱入りになっているほうよ、知ってるでしょ」
「はい知ってます」
「そしてね、買って来たら向うの離れへ来て、そっとあたしを呼びだしておくれ、用は云わずにただ呼ぶの、わかったわね」
「はい、わかりました」
小女が店のほうへ出ていってから、おみのは帳場へゆき、女中に酒と肴を頼んで、ゆっくりと元の離れへ戻った。「三人の男」というのには会わなかったし、そんな人間がいるようすもない。彼女は「かれら」と話すだけの時間を費やしただけのようであった。
「ああ戻ってくれたか」おみのを見ると得石は片手で胸を撫でた、「ながいものだから、また置いてきぼりをくったかと思いましたよ」
「あんなことを」おみのは火鉢の脇に坐り、掛けてある燗鍋に触ってみながら、したたるように嬌かしいながし眼をくれた、「――今夜は泊るつもりでって、手紙に書いてあげたでしょう」
「こんどこそ、本気にしますよ」
「ではいままでは、本気じゃなかったんですか」
おみのは酒を徳利に移し、燗鍋へ新らしく酒を注ぎ足してから、彼に酌をした。
「冗談じゃない、こっちは初めから本気だったのに、いつも肝心なところでおみのさんに逃げられたんですよ」そこで彼は思いだしたように、慌ててまわりを眺めまわした、「今日は約束した物もちゃんと持って来たし、――へんだな、さっきここへ」
「手提ですか」とおみのが云った、「手提ならここにありますよ」
火鉢の脇から手提を取って、おみのは彼の手へ渡した。彼はいそいで袋をあけようとしたが、紐がもつれてなかなかあかなかった。
「なにをお出しになるの」
「このまえの約束した物ですよ」と得石はじれったそうにもつれた紐を解こうとした、「――貸金の証文を纒めて持って来たんです」
「あらいやだ、それならさっきみせて下すったじゃありませんか」
得石は顔をあげた、「みせましたか」
「あたしに出してみせて、それから横におなりになったのよ、覚えていらっしゃらないんですか」
「そうでしたか」彼は紐と取り組むのをやめ、手提をそこへ置いて盃を取った、「するとやっぱり酔ってたんだな」
「証文はみせて頂いたわ、そのほかにもう一つだけ、うかがいたいことがあるの」
「やれやれ、まだなにかあるんですか」
そのとき女中が酒肴を持って来た。おみのはあがり端まで出てゆき、自分でそれを運びこんだ。そのとき得石は、おみのが女中に、なにか囁くのを聞きとめた。
「なんです」と彼はおみのが坐るのを待ちかねて云った、「どうかしたんですか」
「なんでもないのよ」とおみのが云った、「あの男たちまだ飲んでるんですって、でもちゃんと云うだけの物を遣ったんだからもう帰るでしょ、大丈夫よ」
得石は不安そうに盃を口へ持っていった。おみのは眼の隅でそのようすを見、それから酌をして云いだした。
「あたしこのまえ、先生のことがすっかり知りたいって、云ったでしょ」
「もう洗いざらい知ってるくせに」
「まだ知りたいことがたくさんあるの、先生がどうしてそう女にもてるのか、先生のために死んだ人もいるそうだし、むさし屋のおかみさんは御主人をよそにして、先生にすっかり身揚りをしたって、なぜみんなをそんなに夢中にさせることができるのか、今夜うかがっておきたいのよ」
「それは口で云わなくっても、もうすぐ貴女自身で知ることができますよ」
「そのまえに知っておきたいのよ」おみのは上半身をゆらっと振った、「まさか妖術を使うわけでもないでしょう」
「立派な医術の一つです」と得石は酒を呷って云った、「もっとも誰にでもできることじゃない、こればかりは身に備わったものだろうが、――誰か来たようじゃないか」
あがり端で「ごめん下さい」と云う声がし、得石はびくっと躯を固くした。おみのは立ってゆき、なにか話しあっていたが、やがて戻って来ると、得石に笑いかけながら坐った。
「なんだ」と彼が訊いた。
「あの三人が帰りましたって、これで安心なすったでしょ」と云って、おみのは膳の上の盃を取った、「あたしも頂くから、いまの話を続けてちょうだい」
得石は話しだした。不安と緊張から解放されて、身も心もくつろいだというようすだった。
おみのは隙なしに酌をし、それをぐいぐい飲みながら、いい気持そうに話し続けた。女のからだの機能から始めたが、詳しいことはおみのにはよくわからないらしい。それとも聞くふりをして聞いていないのか、かたちだけ合槌を打ちながら、もっぱら酒の燗と酌をすることにかかっていた。
「そのかみさんは首を吊って死んだ」
「まあ可哀そうに」
「そう思うでしょう、当人以外はみんな可哀そうにと思うだろうが、本当のところそのかみさんは満足して死んだんですよ」
「どうしてわかるの」
「その女は子を欲しがっていた」と彼は独りで頷いた、「亭主と七年もいっしょにいて、どうしても子ができない、年は二十六だったと思うが、子ができないうえにあのほうも不満だった、わかりますか」
「続けてちょうだい」
「私は診察してすぐにそれがわかった、女は自分ではなにも知らなかった、ただ子供が欲しいのに亭主が頼りない、というだけだったんです」そこでまた彼は、女のからだの微妙さについて繰返した、「――私が治療してやると、その女は吃驚しました、自分がどうなったかもわからなかった、こんなことは生れて初めてだと云って、それから約二た月間、躯に障りのある日を除いて、二日おきにきちんとかよって来た」
「盃がお留守よ」とおみのが云った。