← Library‹ 五瓣の椿 第一話 二

朝あさになって横よこ山参得さんとくを呼よんだ。呉服橋ごふくばしに住すむ医者いしゃで、喜兵衛きへえが癆痎ろうがいになって以来いらいのかかりつけだったが、診察しんさつをして帰かえるとき、送おくりに出でたおしのにそっと首くびを振ふってみせた。

「むずかしいことになった」と参さん得とくは囁ささやいた、「こんどはあとをよほど大事だいじにしないと、取返とりかえしのつかぬことになるかもしれない」

おしのは睡ねむをのんだ。

「店みせに置おいてはだめだな」と参さん得とくは首くびを捻ひねりながら云いった、「あのとおりの性分しょうぶんだから、少すこしおちつくとすぐに動うごきだすだろう、こんどは寮りょうのほうへ移うつして、しょうばいのことなど忘わすれてゆっくり養生ようじょうをさせなければいけない、それも一日ついたちでも早はやいほうがいい」

「はい」とおしのは頷うなずいて云いった、「なにか特とくに効きくお薬くすりはないものでしょうか」

「ないだろうな、この病気びょうきばかりは特とくに効かいのある薬くすりというのはなさそうだ」参さん得とくはまたそっと首くびを振ふった、「空気くうきのきれいなところで、暢気のんきにして精せいの付つく喰たべ物ものをたべる、そうして病勢びょうせいの衰おとろえるのを待まつ、というよりほかにいまのところ手てはないと思おもう」

「わかりました」おしのはまた頷うなずいた、「できるだけ早はやくそうするように致いたします」

医者いしゃが帰かえるとすぐに、おしのは亀戸かめいどの寮りょうへ使つかいをやった。母ははに来きてもらいたい、ということづてを命めいじ、駕籠かごでゆかせたのであるが、おたみというその若わかい女中じょちゅうは、帰かえって来くると、喜兵衛きへえに向むかって、「おかみさんは躯むくろのぐあいが悪わるくて来こられないそうです」という返辞へんじを伝つたえた。おしのがちょっと座ざを外はずしていたあいだのことで、珍めずらしく喜兵衛きへえは怒おこった。

「どうして迎むかえなどやったんだ」喜兵衛きへえは尖とがった声こえで云いった、「迎むかえをやっても来こないことはわかっているじゃないか」

「ごめんなさい」おしのは眼めで詫わびながら答こたえた、「どうしても相談そうだんしなければならないことがあるんです、あたしちょっといって来きてもいいでしょうか」

「相談そうだんとはどういうことだ」

おしのは勇ゆうをふるうという気持きもちで、医者いしゃの云いったことを父ちちに告つげた。喜兵衛きへえは終おわるまで聞きかずに、激はげしくおしのを遮さえぎった。

「私わたくしは寮りょうなどへゆかない、そんなことをしなくとも大丈夫だいじょうぶだ」

「だってお父ちちつぁん」

「いや、大丈夫だいじょうぶだと云いったら大丈夫だいじょうぶだ」と喜兵衛きへえは云いった、「この病気びょうきのことなら医者いしゃよりも私わたくしのほうがよくわかる、私わたくしは若わかいころから躯むくろのことには気きをつけているし、この病気びょうきにかかってからは、病気びょうきに波なみのあることや、その波なみがしらを逃にげるこつも覚おぼえた、いや本当ほんとうだ」喜兵衛きへえはこみあげてくる咳せきをこらえるために、やや暫しばらく息いきを休やすめた、「人間にんげんには寿命じゅみょうというものがある、養生ようじょう不ふ養生ようじょうによって、生うまれつきの寿命じゅみょうを損そこなうこともあるが、自分じぶんの躯むくろの調子ちょうしによく気きをつけていれば、どうしたら寿命じゅみょうを保たもつかということはわかるものだ、それにこの暮くれに迫せまって、店みせをあけるなどということはできない、大丈夫だいじょうぶだから心配しんぱいはしないでおくれ」

その日ひは琴ことの稽古けいこ納おさめがあった。午うまごろになると喜兵衛きへえは、もうおちついたから着替きがえをしていっておいで、とおしのに云いった。

「あとで起おきたりなさらなければ」とおしのが云いった、「でも、お父ちちつぁんは、あたしがいなくなるときっと起おきてしまうでしょ」

「まだそんなことを云いうのか」と喜兵衛きへえは枕まくらの上うえで首くびを振ふった、「あまりうるさくしないでくれ、病気びょうきの起おこっているときはこらえ性しょうがなくなるんだから」

「ごめんなさい」おしのは明あかるい調子ちょうしで云いった、「じゃああたしいって来きます」

「私わたくしは眠ねむるからゆっくりしておいで」

「はい」おしのは元気げんきに頷うなずいた。

二人ふたりの女中じょちゅう、特とくにお孝たかと、手代てだいの徳次郎とくじろうによく頼たのんでおいておしのはざっと身み支度したくを済すませ、家いえを出でてから辻駕籠つじかごをひろった。むろん稽古けいこ納おさめにゆくのではない、まっすぐに亀戸かめいどの寮りょうへ走はしらせた。途中とちゅうで雨あめが降ふりだし、気温きおんも低ひくくなり、寮りょうへ着ついたときには、あたりはもういちめんの雪ゆき景色けしきであった。

冬ふゆになってから二に度どめであるが、その季節きせつにしては珍めずらしく、形かたちも量りょうも多おおい牡丹雪ぼたんゆきで、門もんから寮りょうの戸口とぐちさえ見みえないくらいであった。

出でて来きたのはおまさであったが、おしのを見みるなりひどく狼狽ろうばいし、ちょっとお待まち下ください、と云いって小走こばしりに奥おくへ去さった。奥おくのほうで三味しゃみ線せんの音おとと、唄うたの声こえが聞きこえてい、おしのは構かまわずにあがって、そこで足袋たびをぬいだ。おまさは戻もどって来くると、あちらはいまちらかっていますからと云いい、客きゃく用ようの八はち帖じょうへとおした。

「いますぐに火ひを取とります」おまさはそわそわと敷物しきものや火鉢ひばちを直なおしながら云いった、「急きゅうにいやなものが降ふりだして、さぞ途中とちゅうお寒さむかったでしょう、いまおかみさんもおいでになりますから」

「いいのよ、せかないでも」

「風邪かぜぎみでくさくさするからって」おまさは眩まぶしそうな顔かおつきで云いった、「ちょっといまなにしていらしったんですよ、いま火ひを取とりますから」

三味しゃみ線せんと唄うたの声こえはもう聞きこえなかった。おまさが火鉢ひばちに火ひを入いれ、茶ちゃと菓子かしをはこんで来くると、まもなく母ははのおそのがあらわれた。年としは三十さんじゅう五ご歳さい、大柄おおがらではあるが躯むくろの線せんが美うつくしく、胸むねや腰こしなどは娘むすめのようにすんなりしている。色いろのやや浅黒あさぐろいほそおもての顔かおに、憂うれいを含ふくんだような切きれ長ながの細ほそい眼めと、やはり薄うすくて小ちいさな唇許くちもとが、娘むすめのおしのでさえ惚ほれぼれするほどの、際立きわだった魅力みりょくをもっていた。

「途中とちゅうで降ふられたんでしょ」おそのは火鉢ひばちへかぶさるように坐すわりながら、うるんだ眼めつきでじっと娘むすめをみつめた、「寒さむいからなにか温あたたかいものでも取とりましょう、あんたきれいになるばかりだわね」

「おっ母ははさんぐあいが悪わるいって」とおしのが云いった、「誰だれかお客きゃくがあるようだけれど、寝ねていたんじゃないんですか」

「お客きゃくなんかいやしなくってよ、寝ねていたんだけれど頭あたまがくしゃくしゃするもんだから、いま床ゆかの上うえでちょっといたずらをしていたところなの、お午うまになにを御ご馳走ちそうしようか」

「おっ母ははさん、おたみから話はなしを聞きいたでしょう」とおしのは云いった、「お父ちちつぁんの病気びょうき、こんどはひどく重おもいのよ、これまでにないほどたくさん血ちを吐はいたし」

「やめてやめて」おそのはきれいな長ながい指ゆびの手てを振ふりながらいたずらっ子このように眉まゆをしかめた、「そんな話はなしを聞きくと胸むねがむかむかするじゃないの、横山よこやまさんていう医者いしゃが付ついてるんだもの、病人びょうにんのことは医者いしゃに任まかせておけばいいでしょ」

「その横山よこやま先生せんせいが仰おっしゃるのよ」おしのはがまん強つよく、子供こどもをなだめるような調子ちょうしで云いった、「こんどはよっぽど大事だいじにしなければいけない、店みせに置おいてはだめだから、寮りょうのほうへ移うつしてゆっくり養生ようじょうをさせるようにって」

「いやよ、いいえだめよ、そんなこと」

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