「おっ母さん」とおしのが云った。
「そんなことだめよ」おそのは脇のほうを向き、すぐにまた向き直って、娘の眼をみつめながら云った、「あんただってわかってるでしょ、そんなこと云ったって当人がきやあしないわ、たとえ医者に死ぬとおどかされても、あの人は店をはなれるような人じゃないことよ、そうでしょ」
おしのは母の顔を見まもった。
「そらね、あんたの眼を見ればわかるわ」とおそのは眼を細めて微笑した、「あんたあの人が承知しないものだから、あたしにすすめさせるつもりで呼びに来たんでしょ」
「お父つぁんは」とおしのが云った、「おっ母さんの云うことならきっときいてよ」
「そんなことをあたしが嬉しがるとでも思ってるの」
「お願いよ、おっ母さん」おしのは母の手を握りながら云った、「こんどは本当に危なそうなの、こんどだけでいいからうちへ来て、寮で養生するように云ってちょうだい、ねえ、一生のお願いよ、おっ母さん」
おそのは娘の手をやさしく撫で、あやすような口ぶりで云った、「おちついて、おちついて、そんな大げさなこと云わないでよ、あんたっておっ母さんには薄情なくせに、あの人のこととなるとすぐにのぼせあがるのね、たまにはあたしのことを考えてくれてもいいじゃないの」
「ええ、そうね」おしのはぎこちない動作で頷いた。云いたいことを抑えつけるような、硬い頷きかたで、それから云った、「おっ母さんのお世話をしなくってほんとに悪いと思うわ、お父つぁんさえおちついたら、こんどこそどんなにでもおっ母さんのお気にいるようにしてよ、だからあたしのお願いもきいてちょうだい」
「いいわ、あんたには負けた」おそのは娘の手を軽く叩き、それを放しながら云った、「あしたかあさって、そうね、あさっての夕方ごろゆくことにしましょ」
「嬉しい、ほんとね」
「断わっておくけれど、あんたの考えているとおりになるかどうかは、あたしにも保証できないことよ」
「ほんとに来て下さるわね」
「ゆくって云ったらゆくわよ」とおそのが云った、「お午になにを喰べる、いっそ鳥鍋でも取ろうか」
おしのは母といっしょに午飯を喰べた。
その座敷に炬燵を入れ、久しぶりに差向いで、話しながら喰べたのであるが、奥の部屋に誰かいるように感じられ、それが気になっておちつかなかった。人がいるというような、物音やけはいは少しもないし、おまさや母のそぶりにも変ったところはなかった。ことによると、初めにはいって来たときの、おまさの狼狽したようすや、爪弾きの三味線と低い唄の声を聞いたのが耳に残っているためであろうか。しんとした奥の部屋に、誰かが息をひそめて、こちらのようすをうかがっている、というふうな感じがどうしても頭から去らなかった。
「じゃあきっとね」おしのは帰るときにもういちど念を押した、「あさっての夕方、待ってるわよ」
「あんたもいま云ったこと忘れないで」とおそのは云った、「肌の手入れとお化粧、もう少し髪の流行に気をつけること、よくって」
呼びにやった駕籠が来、おまさのさしかける傘で雪をよけながら、おしのは拾い足で門の外へ出た。
「肌の手入れ」駕籠が動きだしてから、おしのは訝しそうに呟き、「そうか」と自分に頷いた、「ごはんをたべながら、ずっとその話をしていたのね」
髪化粧、帯、着物、母にはそういうことしか興味はない。昔からそうだった、とおしのは思った。眼をつむって母のことを回想すると、化粧をするところや、反物を選んでいるところや、着飾ってでかける姿しかうかんでこない。父に抱かれて寝たり、子守唄をうたってもらった覚えがあるし、麻疹のときや疱瘡のときはもちろん、風邪をひいたぐらいのときでも、父は側をはなれずに看病してくれた。しかし母に面倒をみてもらったようなことは少なくとも自分の記憶には残っていない、とおしのは思った。母は自分に化粧をしてくれ、着飾らせて、芝居や寄席や、遊山や見物には伴れていってくれた。芝居茶屋でひいきの役者たちを呼び、自分と子役を並んで坐らせ、興がって酒宴をしたことも幾たびかあるし、母がなかまたちと一中節をさらうのだと云って、料理茶屋へ集まり、おさらいなどするようすもなく、男女の芸人や役者などを呼んで遊ぶ、などということも珍らしくはなかった。
――お父つぁんに済まない。
そんなときには気が咎め、こんど母にさそわれても決して遊びには出まいと誓うが、華やかでたのしい座敷を思うと、ついその誓いも忘れて、十か十一くらいの年まではそんなことが続いた。
――おっ母さんは平気だった。
こんなことはないしょだよ、と云ったこともないし、口止めをするようなこともなかった。十一ぐらいから、自分は母の誘惑を拒むようになり、しだいに母と疎くなった。母はそんなことには気もつかないようすで、それからずっと好きなようにくらして来た。あたしがいっしょでないことが、却って自由なようにさえみえたものだ、とおしのは思った。
「あんなに気やすく受け合って来るかしら」おしのは駕籠に揺られながら呟いた、「場合が場合だから来てくれるだろうけれど、もし来てくれなかったら、――こんどこそあたし云ってやるわ」
こんどこそ云うだけのことを云ってやる、とおしのは思った。
夜になると雪は雨になり、明くる朝はきれいに晴れていた。喜兵衛の病勢は変らず、食欲のないのが心配だったが、咳も少なくなり、熱もさがってゆくようであった。おそのは来なかった。約束の三十日は午後から待っていたが、夜になっても使いさえよこさなかった。
――やっぱりそうだったのね。
おしのはくやしさのあまり身がふるえた。すぐ自分で迎えにゆきたいと思ったが、年末の商家は多忙で、女中までが店の手伝いに追われ、おしの以外に父の世話をする手がないため、亀戸までいって来るような暇はまったくなかった。
大晦日の晩、十二時過ぎに、喜兵衛がまた喀血した。十時に店を閉め、番頭と手代たちが帳合にかかった。それが済んでから、三人が帳簿を持って来、喜兵衛の枕許で説明をした。喜兵衛は夜具の上に坐り、いちいち帳簿をつき合わせながら聞いていた。十二時ちょっとまえに年越し蕎麦が来、番頭たち三人が喰べた。おしのは箸を付けただけで、父に薬湯をのませようとしたが、「もうすぐに終るから」と云って、喜兵衛は算盤を置こうとしなかった。そうしてすっかり終ったとき、喜兵衛は手洗いにゆき、その戻りに廊下で喀血して倒れた。
血の量はそれほど多くはなかったが、このまえのときがひどかったし、躰力がまだ恢復していなかったため、喀血したあと失神し、夜が明けるまで昏睡状態が続いた。