← Library‹ 五瓣の椿 第一話 三

「おっ母ははさん」とおしのが云いった。

「そんなことだめよ」おそのは脇わきのほうを向むき、すぐにまた向むき直なおって、娘むすめの眼めをみつめながら云いった、「あんただってわかってるでしょ、そんなこと云いったって当人とうにんがきやあしないわ、たとえ医者いしゃに死しぬとおどかされても、あの人ひとは店みせをはなれるような人ひとじゃないことよ、そうでしょ」

おしのは母ははの顔かおを見みまもった。

「そらね、あんたの眼めを見みればわかるわ」とおそのは眼めを細ほそめて微笑びしょうした、「あんたあの人ひとが承知しょうちしないものだから、あたしにすすめさせるつもりで呼よびに来きたんでしょ」

「お父ちちつぁんは」とおしのが云いった、「おっ母ははさんの云いうことならきっときいてよ」

「そんなことをあたしが嬉うれしがるとでも思おもってるの」

「お願ねがいよ、おっ母ははさん」おしのは母ははの手てを握にぎりながら云いった、「こんどは本当ほんとうに危あぶなそうなの、こんどだけでいいからうちへ来きて、寮りょうで養生ようじょうするように云いってちょうだい、ねえ、一生いっしょうのお願ねがいよ、おっ母ははさん」

おそのは娘むすめの手てをやさしく撫なで、あやすような口くちぶりで云いった、「おちついて、おちついて、そんな大おおげさなこと云いわないでよ、あんたっておっ母ははさんには薄情はくじょうなくせに、あの人ひとのこととなるとすぐにのぼせあがるのね、たまにはあたしのことを考かんがえてくれてもいいじゃないの」

「ええ、そうね」おしのはぎこちない動作どうさで頷うなずいた。云いいたいことを抑おさえつけるような、硬かたい頷うなずきかたで、それから云いった、「おっ母ははさんのお世話せわをしなくってほんとに悪わるいと思おもうわ、お父ちちつぁんさえおちついたら、こんどこそどんなにでもおっ母ははさんのお気きにいるようにしてよ、だからあたしのお願ねがいもきいてちょうだい」

「いいわ、あんたには負まけた」おそのは娘むすめの手てを軽かるく叩たたき、それを放はなしながら云いった、「あしたかあさって、そうね、あさっての夕方ゆうがたごろゆくことにしましょ」

「嬉うれしい、ほんとね」

「断ことわっておくけれど、あんたの考かんがえているとおりになるかどうかは、あたしにも保証ほしょうできないことよ」

「ほんとに来きて下くださるわね」

「ゆくって云いったらゆくわよ」とおそのが云いった、「お午うまになにを喰たべる、いっそ鳥鍋とりなべでも取とろうか」

おしのは母ははといっしょに午飯ごはんを喰たべた。

その座敷ざしきに炬燵こたつを入いれ、久ひさしぶりに差向さしむかいで、話はなしながら喰たべたのであるが、奥おくの部屋へやに誰だれかいるように感かんじられ、それが気きになっておちつかなかった。人ひとがいるというような、物音ものおとやけはいは少すこしもないし、おまさや母ははのそぶりにも変かわったところはなかった。ことによると、初はじめにはいって来きたときの、おまさの狼狽ろうばいしたようすや、爪弾つまはじきの三味しゃみ線せんと低ひくい唄うたの声こえを聞きいたのが耳みみに残のこっているためであろうか。しんとした奥おくの部屋へやに、誰だれかが息いきをひそめて、こちらのようすをうかがっている、というふうな感かんじがどうしても頭あたまから去さらなかった。

「じゃあきっとね」おしのは帰かえるときにもういちど念ねんを押おした、「あさっての夕方ゆうがた、待まってるわよ」

「あんたもいま云いったこと忘わすれないで」とおそのは云いった、「肌はだの手入ていれとお化粧けしょう、もう少すこし髪かみの流行はやりに気きをつけること、よくって」

呼よびにやった駕籠かごが来き、おまさのさしかける傘かさで雪ゆきをよけながら、おしのは拾ひろい足あしで門もんの外そとへ出でた。

「肌はだの手入ていれ」駕籠かごが動うごきだしてから、おしのは訝いぶかしそうに呟つぶやき、「そうか」と自分じぶんに頷うなずいた、「ごはんをたべながら、ずっとその話はなしをしていたのね」

髪かみ化粧けしょう、帯おび、着物きもの、母ははにはそういうことしか興味きょうみはない。昔むかしからそうだった、とおしのは思おもった。眼めをつむって母ははのことを回想かいそうすると、化粧けしょうをするところや、反物たんものを選えらんでいるところや、着飾きかざってでかける姿すがたしかうかんでこない。父ちちに抱いだかれて寝ねたり、子守こもり唄うたをうたってもらった覚おぼえがあるし、麻疹はしかのときや疱瘡ほうそうのときはもちろん、風邪かぜをひいたぐらいのときでも、父ちちは側がわをはなれずに看病かんびょうしてくれた。しかし母ははに面倒めんどうをみてもらったようなことは少すくなくとも自分じぶんの記憶きおくには残のこっていない、とおしのは思おもった。母ははは自分じぶんに化粧けしょうをしてくれ、着飾きかざらせて、芝居しばいや寄席よせや、遊山ゆさんや見物けんぶつには伴つれていってくれた。芝居しばい茶屋ちゃやでひいきの役者やくしゃたちを呼よび、自分じぶんと子役こやくを並ならんで坐すわらせ、興きょうがって酒宴しゅえんをしたことも幾いくたびかあるし、母ははがなかまたちと一中節いっちゅうぶしをさらうのだと云いって、料理りょうり茶屋ちゃやへ集あつまり、おさらいなどするようすもなく、男女だんじょの芸人げいにんや役者やくしゃなどを呼よんで遊あそぶ、などということも珍めずらしくはなかった。

――お父ちちつぁんに済すまない。

そんなときには気きが咎とがめ、こんど母ははにさそわれても決けっして遊あそびには出でまいと誓ちかうが、華はなやかでたのしい座敷ざしきを思おもうと、ついその誓ちかいも忘わすれて、十じゅうか十じゅう一いちくらいの年としまではそんなことが続つづいた。

――おっ母ははさんは平気へいきだった。

こんなことはないしょだよ、と云いったこともないし、口止くちどめをするようなこともなかった。十じゅう一いちぐらいから、自分じぶんは母ははの誘惑ゆうわくを拒こばむようになり、しだいに母ははと疎うとくなった。母はははそんなことには気きもつかないようすで、それからずっと好すきなようにくらして来きた。あたしがいっしょでないことが、却かえって自由じゆうなようにさえみえたものだ、とおしのは思おもった。

「あんなに気きやすく受うけ合あって来くるかしら」おしのは駕籠かごに揺ゆられながら呟つぶやいた、「場合ばあいが場合ばあいだから来きてくれるだろうけれど、もし来きてくれなかったら、――こんどこそあたし云いってやるわ」

こんどこそ云いうだけのことを云いってやる、とおしのは思おもった。

夜よるになると雪ゆきは雨あめになり、明あくる朝あさはきれいに晴はれていた。喜兵衛きへえの病勢びょうせいは変かわらず、食欲しょくよくのないのが心配しんぱいだったが、咳せきも少すくなくなり、熱ねつもさがってゆくようであった。おそのは来こなかった。約束やくそくの三十さんじゅう日にちは午後ごごから待まっていたが、夜よるになっても使つかいさえよこさなかった。

――やっぱりそうだったのね。

おしのはくやしさのあまり身みがふるえた。すぐ自分じぶんで迎むかえにゆきたいと思おもったが、年末ねんまつの商家しょうかは多忙たぼうで、女中じょちゅうまでが店みせの手伝てつだいに追おわれ、おしの以外いがいに父ちちの世話せわをする手てがないため、亀戸かめいどまでいって来くるような暇ひまはまったくなかった。

大晦日おおみそかの晩ばん、十じゅう二に時じ過すぎに、喜兵衛きへえがまた喀血かっけつした。十じゅう時じに店みせを閉しめ、番頭ばんとうと手代てだいたちが帳合ちょうあいにかかった。それが済すんでから、三さん人にんが帳簿ちょうぼを持もって来き、喜兵衛きへえの枕許まくらもとで説明せつめいをした。喜兵衛きへえは夜具やぐの上うえに坐すわり、いちいち帳簿ちょうぼをつき合あわせながら聞きいていた。十じゅう二に時じちょっとまえに年越としこし蕎麦そばが来き、番頭ばんとうたち三さん人にんが喰たべた。おしのは箸はしを付つけただけで、父ちちに薬湯やくとうをのませようとしたが、「もうすぐに終おわるから」と云いって、喜兵衛きへえは算盤そろばんを置おこうとしなかった。そうしてすっかり終おわったとき、喜兵衛きへえは手洗てあらいにゆき、その戻もどりに廊下ろうかで喀血かっけつして倒たおれた。

血ちの量りょうはそれほど多おおくはなかったが、このまえのときがひどかったし、躰力たいりょくがまだ恢復かいふくしていなかったため、喀血かっけつしたあと失神しっしんし、夜よるが明あけるまで昏睡こんすい状態じょうたいが続つづいた。

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