← Library‹ 五瓣の椿 第三話 十

「女おんなは子こが生うみたいと云いい続つづける」彼かれは酒さけをぐっと呷あおった、「あんまり諄くどく云いわれるので、つい治療ちりょうの度どを越こしちまった、あのときは私わたくしものぼせてたんでしょうな、それが身みごもってしまったところ、亭主ていしゅは若わかいころ病気びょうきを患わずらって、医者いしゃから子こはできない、と云いわれていたんだそうです」

「嘘うそか本当ほんとうかわかりゃしない」と彼かれは片方かたほうの手てを振ふった、「たとえ本当ほんとうだとしても頑張がんばればいいのに、女おんなはすぐあやまってしまった、ええ、私わたくしのところへ来きてそう云いったんです、そのとき女おんなは云いいましたよ、――生うまれて初はじめて、芯しんそこからのよろこびを味あじわった、責せめ殺ころされても本望ほんもうだって」

「そのとき死しぬつもりだったんですね」

「それから十とお日かばかり経たってからです」

得とく石せきは肴さかなを摘つもうとして箸はしを持もったが、手許てもとがきまらず、塩焼しおやきの鯛たいがむしれないので、すぐに箸はしを置おき、乱暴らんぼうに酒さけを呷あおった。

「女おんなは私わたくしの名なを出ださなかった」と彼かれは云いった、「瓦版かわらばんが出でましたが、ただ密通みっつうとしか書かいてなかった、お読よみになりましたか」

「読よまなかったわ」

「書置かきおきもなかったんでしょうな、私わたくしのところへ、治療ちりょうにかよっていたことは、もちろんわかっていた、だから亭主ていしゅは私わたくしのことを疑うたがっていたようだが」と云いって彼かれは咳せきでもするように、がくんと上躰じょうたいを揺ゆすった、「――へ、いくら疑うたがったところで証拠しょうこがない、証拠しょうこがなければどうしようもありませんからねえ」

「その人ひとは本望ほんもうだと云いったとしても」とおみのが訊きいた、「死しなれてみれば、先生せんせいだって悪わるかったなと思おもうでしょう」

「私わたくしが、――悪わるかったって」

「人間にんげん一人ひとりが死しんだのよ」

「冗談じょうだんじゃない」彼かれは笑わらった、「おみのさんなどはおぼこだからまだわかるまいが、たいていの女おんなが、本当ほんとうのよろこびを知しらずに一生いっしょうを終おわるものなんだ、たとえ責せめ殺ころされても本望ほんもうだと云いったのは、その女おんなの本心ほんしんなんですよ」

「では悪わるいとは思おもわないんですか」

「むしろ慈善じぜんをしたと云いいたいくらいです、貴女きじょにもやがてわかるでしょうがね」

「召めし上あがれ」とおみのは酌しゃくをした、「――むさし屋やのときもそんなふうでしたの」

彼かれは「ちょっと」と云いって、慎重しんちょうに立たちあがり、酔よわないふりをするために、ゆっくりと濡縁ぬれえんへ出でていった。

「お父ちちつぁん」とおみのは仰向あおむいて、そっと囁ささやいた、「あたしに力ちからを貸かして下ください」

戻もどって来きた得とく石せきは、坐すわろうとして重心じゅうしんを誤あやまり、だらしなく横よこざまに倒たおれた。

「いやだわ、そんなにお酔よいになったの」

「なに、まだまだ」彼かれは起おき直なおって右みぎの太腿ふとももを押おさえた、「ここが痛いたむのでしくじったんですよ、このくらいの酒さけで、転ころぶほど私わたくしが酔ようと思おもいますか」

「では好すきなだけ召めし上あがれ」とおみのは頬笑ほうえみかけて、酌しゃくをした、「どうせ泊とまるんですものね、そうでしょ」

「今夜こんやこそはね」と云いって彼かれは飲のんだ、「――ところでどこまで話はなしましたかね」

「むさし屋やさんのことよ」

「ああ、むさし屋やのおそのさんか」彼かれは蒼あおくなってきた顔かおでにっと笑わらった、「あの人ひとはたいへんなものだった、私わたくしはずいぶん女おんなを知しっているが、あんな女おんなにはあとにも先さきにも会あったことがありませんね、生うまれつきからだがそんなふうにできてたんでしょう。それもただ好すきだというだけではなく、いつも相手あいてが変かわらなければだめだというんです、また悪わるいことに、婿むこに取とった亭主ていしゅがいけなかった」

「悪わるい人ひとだったんですか」

「そう云いえば云いえるような人ひとなんだ」

おみのの顔かおが屹きっとなり、眼めに強つよい光ひかりがあらわれたが、もちろん得とく石せきは気きがつかなかった。

「人間にんげんは善人ぜんにんで、温和おとなしくって、荒あらい声こえを立たてたこともない」と彼かれは続つづけた、「婿むこには多おおい型かただが、それに輪わを掛かけたような好こう人物じんぶつで、もちろん女おんなを扱あつかうこつなんぞはまるっきり知しらない、つまり朴念仁ぼくねんじんというやつです」

おみのはぎゅっと眼めをつむった。

「こういう人間にんげんは毒どくにも薬くすりにもならないというが、おそのさんのような人ひとにとっては毒どくになるばかりです」

おみのはふるえる声こえを抑おさえて訊きいた。

「どういうわけで毒どくになるんです」

「たとえば」彼かれは頭あたまをぐらっと垂たれ、それからすぐ思おもいついたように云いった、「たとえば、燃もえている火ひに焚木たきぎをくべてやる力ちからがないようなものです、火ひは燃もえ続つづけに燃もえようとするが、付ついている者ものに焚ふん木きをくべてやる力ちからがなければ、燃もえている火ひは消きえてしまうでしょう」

「それは毒どくだという譬たとえにはならないじゃないの」

「おそのさんを火ひだと思おもってごらんなさい、ああ」と彼かれはふいに声こえをあげた、「そうだ、――火ひのことなんかに譬たとえたのは、あの人ひとが御ご亭主ていしゅといっしょに焼やけ死しんだからだな、うん、そうだ、あの人ひとはいつも火ひのように燃もえていた、ところがその婿むこは焚ふん木もく一いち本ほんくべてやる力ちからもなかった、おまけに癆痎ろうがいで寝ねこんじまったというし、おそのさんにとっては毒薬どくやくのようなものだったんですよ」

「だって、そんな、――」とふるえながらおみのが云いった、「そんな詳くわしいことをどうして知しっていらっしゃるの」

「寝ね物語ものがたりというやつさ」彼かれは得意とくいそうに笑わらって、注そそがれた酒さけを飲のんだ、「ふだんどんなにとりすましている女おんなでも、寝ね物語ものがたりとなるとあけすけになるものです、男おとこのこっちが恥はずかしくなるくらい、思おもいきってあけすけになるものですよ」

「そうして、その、お婿むこさんのことを、二人ふたりで笑わらっていたのね」

「笑わらわれるより笑わらえというでしょう」

「ではその二人ふたりが亡なくなったから、いまは先生せんせいお一人ひとりで笑わらう番ばんね」

「それは済すんだことさ」

「あたし先生せんせいの笑わらうのが見みたいわ」

「済すんだことだと云いってるでしょう」彼かれの持もっている盃さかずきから酒さけがこぼれた、「いまはおみのさんという、可愛かわいい人ひとがいる、昔むかしのことはみんなくそくらえだ」

「はい、お酌しゃく、――召めし上あがれ」

「もういい、もうよしにします」

「あら、いくじのないこと」

「ひと休やすみだ」彼かれは横よこになりながら、すばやくおみのの手てを掴つかんだ、「おみのさん、ひと休やすみしてから飲のみ直なおすことにしよう」

「放はなして、乱暴らんぼうなことは嫌きらいよ」

「じゃあ隣となりへいきますか」

おみのは顔かおをそむけながら「ええ」と頷うなずいた。

「今夜こんやこそ、じらしっこなしですよ」

「放はなして」とおみのは囁ささやいた、「あたし先さきにいってますから」

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%