「女は子が生みたいと云い続ける」彼は酒をぐっと呷った、「あんまり諄く云われるので、つい治療の度を越しちまった、あのときは私ものぼせてたんでしょうな、それが身ごもってしまったところ、亭主は若いころ病気を患って、医者から子はできない、と云われていたんだそうです」
「嘘か本当かわかりゃしない」と彼は片方の手を振った、「たとえ本当だとしても頑張ればいいのに、女はすぐあやまってしまった、ええ、私のところへ来てそう云ったんです、そのとき女は云いましたよ、――生れて初めて、芯そこからのよろこびを味わった、責め殺されても本望だって」
「そのとき死ぬつもりだったんですね」
「それから十日ばかり経ってからです」
得石は肴を摘もうとして箸を持ったが、手許がきまらず、塩焼きの鯛がむしれないので、すぐに箸を置き、乱暴に酒を呷った。
「女は私の名を出さなかった」と彼は云った、「瓦版が出ましたが、ただ密通としか書いてなかった、お読みになりましたか」
「読まなかったわ」
「書置もなかったんでしょうな、私のところへ、治療にかよっていたことは、もちろんわかっていた、だから亭主は私のことを疑っていたようだが」と云って彼は咳でもするように、がくんと上躰を揺すった、「――へ、いくら疑ったところで証拠がない、証拠がなければどうしようもありませんからねえ」
「その人は本望だと云ったとしても」とおみのが訊いた、「死なれてみれば、先生だって悪かったなと思うでしょう」
「私が、――悪かったって」
「人間一人が死んだのよ」
「冗談じゃない」彼は笑った、「おみのさんなどはおぼこだからまだわかるまいが、たいていの女が、本当のよろこびを知らずに一生を終るものなんだ、たとえ責め殺されても本望だと云ったのは、その女の本心なんですよ」
「では悪いとは思わないんですか」
「むしろ慈善をしたと云いたいくらいです、貴女にもやがてわかるでしょうがね」
「召し上れ」とおみのは酌をした、「――むさし屋のときもそんなふうでしたの」
彼は「ちょっと」と云って、慎重に立ちあがり、酔わないふりをするために、ゆっくりと濡縁へ出ていった。
「お父つぁん」とおみのは仰向いて、そっと囁いた、「あたしに力を貸して下さい」
戻って来た得石は、坐ろうとして重心を誤り、だらしなく横ざまに倒れた。
「いやだわ、そんなにお酔いになったの」
「なに、まだまだ」彼は起き直って右の太腿を押えた、「ここが痛むのでしくじったんですよ、このくらいの酒で、転ぶほど私が酔うと思いますか」
「では好きなだけ召し上れ」とおみのは頬笑みかけて、酌をした、「どうせ泊るんですものね、そうでしょ」
「今夜こそはね」と云って彼は飲んだ、「――ところでどこまで話しましたかね」
「むさし屋さんのことよ」
「ああ、むさし屋のおそのさんか」彼は蒼くなってきた顔でにっと笑った、「あの人はたいへんなものだった、私はずいぶん女を知っているが、あんな女にはあとにも先にも会ったことがありませんね、生れつきからだがそんなふうにできてたんでしょう。それもただ好きだというだけではなく、いつも相手が変らなければだめだというんです、また悪いことに、婿に取った亭主がいけなかった」
「悪い人だったんですか」
「そう云えば云えるような人なんだ」
おみのの顔が屹となり、眼に強い光があらわれたが、もちろん得石は気がつかなかった。
「人間は善人で、温和しくって、荒い声を立てたこともない」と彼は続けた、「婿には多い型だが、それに輪を掛けたような好人物で、もちろん女を扱うこつなんぞはまるっきり知らない、つまり朴念仁というやつです」
おみのはぎゅっと眼をつむった。
「こういう人間は毒にも薬にもならないというが、おそのさんのような人にとっては毒になるばかりです」
おみのはふるえる声を抑えて訊いた。
「どういうわけで毒になるんです」
「たとえば」彼は頭をぐらっと垂れ、それからすぐ思いついたように云った、「たとえば、燃えている火に焚木をくべてやる力がないようなものです、火は燃え続けに燃えようとするが、付いている者に焚木をくべてやる力がなければ、燃えている火は消えてしまうでしょう」
「それは毒だという譬えにはならないじゃないの」
「おそのさんを火だと思ってごらんなさい、ああ」と彼はふいに声をあげた、「そうだ、――火のことなんかに譬えたのは、あの人が御亭主といっしょに焼け死んだからだな、うん、そうだ、あの人はいつも火のように燃えていた、ところがその婿は焚木一本くべてやる力もなかった、おまけに癆痎で寝こんじまったというし、おそのさんにとっては毒薬のようなものだったんですよ」
「だって、そんな、――」とふるえながらおみのが云った、「そんな詳しいことをどうして知っていらっしゃるの」
「寝物語というやつさ」彼は得意そうに笑って、注がれた酒を飲んだ、「ふだんどんなにとりすましている女でも、寝物語となるとあけすけになるものです、男のこっちが恥ずかしくなるくらい、思いきってあけすけになるものですよ」
「そうして、その、お婿さんのことを、二人で笑っていたのね」
「笑われるより笑えというでしょう」
「ではその二人が亡くなったから、いまは先生お一人で笑う番ね」
「それは済んだことさ」
「あたし先生の笑うのが見たいわ」
「済んだことだと云ってるでしょう」彼の持っている盃から酒がこぼれた、「いまはおみのさんという、可愛い人がいる、昔のことはみんなくそくらえだ」
「はい、お酌、――召し上れ」
「もういい、もうよしにします」
「あら、いくじのないこと」
「ひと休みだ」彼は横になりながら、すばやくおみのの手を掴んだ、「おみのさん、ひと休みしてから飲み直すことにしよう」
「放して、乱暴なことは嫌いよ」
「じゃあ隣りへいきますか」
おみのは顔をそむけながら「ええ」と頷いた。
「今夜こそ、じらしっこなしですよ」
「放して」とおみのは囁いた、「あたし先にいってますから」