おみのは立って、隣りの四帖半へはいり、襖を閉めながら、嬌かしく囁いた。
「いいと云うまで、来ないで下さいね」
得石は肱枕をしたまま頷いた。
「おい、海野先生」と彼は口の中で低く呟いた、「とうとう運をつかんだな、大大吉の運だ、あっぱれだぞ」
得石の顔がほぐれ、唇に微笑がうかんだ。彼は眼をつむって欠伸をし、それから吃驚したように眼をみひらいた。
「おみのさん」と彼は呼んだ。
返辞は聞えず、得石は起き直った。
「おみのさん」とまた彼は呼んだ。
四帖半でかすかに、「どうぞ」と云う声が聞えた。
得石は立ちあがってよろめき、よろめきながら濡縁へ出ていったが、戻って来ると、いっそう蒼白くなった顔に、非人間的な、欲望のむきだしな表情があらわれていた。彼は足元に注意しながら、四帖半の襖をあけ、うしろ手にそれを閉めた。
おみのは長襦袢になって、夜具の枕許に坐っていたが、得石がはいって来ると、彼の寝衣を取って立ちあがった。得石は構わず歩みより両手でおみのを抱こうとした。
「だめ、着替えてから」
「そのまえに、ちょっと」
「だめですよ」おみのは横へ逃げた、「戸口の鍵も掛けてないじゃありませんか」
「人なんか来やあしないさ」
得石はおみのを捉まえようとして、灯のはいった丸行燈に躓き、慌ててそれを押えた。おみのは寝衣をそこへ置き、では自分で着替えて下さいと云った。
「あたし戸口の鍵を掛けて来ますわ」
「まさか」と彼はしんけんな顔で云った、「ここまできて、まさか逃げるんじゃあないだろうね」
「こんな恰好で」とおみのは長襦袢の袖をひろげてみせた、「――あたしこそ、今夜は先生を逃がさないことよ」
そして六帖のほうへ出、襖を閉めた。
おみのは火鉢の脇へ跼み、隣りで得石の着替えする音を聞きながら、仰向いてきつく眼をつむった。顔は緊張のため硬ばり、躯が小刻みにふるえた。「お父つぁん」とおみのは祈るように呟いた、「あたしに力を貸して下さい」
四帖半でどしんという音がした。得石が寝たのであろう、おみのは頭を垂れて、やや暫くじっとしていた。躯のふるえのしずまるのを待っていたらしい、やがて、頭から銀の平打の釵を抜き取ると、それを右手に持って、静かに四帖半の襖をあけた。
「ようやくおでましか」と得石の云うのが聞えた、「さあ、早くここへ」
おみのは中へはいって襖を閉めた。
それから四半刻たらずして、きちんと身なりをととのえたおみのが出て来た。そのまま濡縁へ出たが、嘔吐する音が聞え、やがて六帖へ戻ると、袂から小さな紙箱を出した。その蓋には「梅花香」と書いてあったが、おみのはその中から緑色の粉末を摘み取り、幾たびも火鉢の火にくべた。爽やかな香りが部屋じゅうに漂い、おみのは得石の手提を持って立ちあがった。そして、しっかりした足どりで戸口のほうへ出てゆきながら、「これは川へ捨てればいいわ」と云った。
明くる日の午前十時ころ、――
離れの掃除にいった女中のおきぬは、悲鳴をあげながら母屋へころげこんで来た。離れで人が殺されているというのである。ゆうべの係は誰だ、おふみさんです、ということでおふみが呼ばれた。
「みのさんという娘さんがお伴れでした」とおふみが云った、「いいえ、どこの人だか知りません、初めてのお客でしたが、ゆうべ五つ半(九時)ごろでしょうか、お伴れさまは悪酔いをしたから泊めてもらうと云って、泊めることはできないと断わったんですけれど、立つこともできないからと仰しゃるもので」
「また心付をにぎらされたんだろう」と主人が云った、「それでその娘の帰ったあとで見にゆかなかったのか」
「ええ、いそがしかったもので、つい」
「誰か町役を呼んで来てくれ」
町役が二人来、主人はかれらを案内して、その離れへいった。死躰は四帖半の夜具の中にあった。掛け夜具がはねてあり、寝衣がはだけて、あらわになった胸の左の乳の下に、銀の平打の釵が突き刺さっていた。
「枕許に血がとんでるな」と町役の一人が云った。
「いや、血じゃあない」とひらのの主人が覗きこんで首を振った、「これは椿の花片だ」
「死躰の枕許に椿の花片が一枚……」ともう一人の町役が、上眼づかいに唇を舐め、首をひねった、「どこかで聞いたことがあるようだな」