← Library‹ 五瓣の椿 第三話 十一

おみのは立たって、隣となりの四よん帖じょう半はんへはいり、襖ふすまを閉しめながら、嬌かしく囁ささやいた。

「いいと云いうまで、来こないで下くださいね」

得とく石せきは肱枕ひじまくらをしたまま頷うなずいた。

「おい、海野うんの先生せんせい」と彼かれは口くちの中なかで低ひくく呟つぶやいた、「とうとう運うんをつかんだな、大だい大吉だいきちの運うんだ、あっぱれだぞ」

得とく石せきの顔かおがほぐれ、唇くちびるに微笑びしょうがうかんだ。彼かれは眼めをつむって欠伸あくびをし、それから吃驚びっくりしたように眼めをみひらいた。

「おみのさん」と彼かれは呼よんだ。

返辞へんじは聞きこえず、得とく石せきは起おき直なおった。

「おみのさん」とまた彼かれは呼よんだ。

四よん帖じょう半はんでかすかに、「どうぞ」と云いう声こえが聞きこえた。

得とく石せきは立たちあがってよろめき、よろめきながら濡縁ぬれえんへ出でていったが、戻もどって来くると、いっそう蒼白あおじろくなった顔かおに、非ひ人間にんげん的てきな、欲望よくぼうのむきだしな表情ひょうじょうがあらわれていた。彼かれは足元あしもとに注意ちゅういしながら、四よん帖じょう半はんの襖ふすまをあけ、うしろ手でにそれを閉しめた。

おみのは長襦袢ながじゅばんになって、夜具やぐの枕許まくらもとに坐すわっていたが、得とく石せきがはいって来くると、彼かれの寝衣ねまきを取とって立たちあがった。得とく石せきは構かまわず歩あゆみより両手りょうてでおみのを抱いだこうとした。

「だめ、着替きがえてから」

「そのまえに、ちょっと」

「だめですよ」おみのは横よこへ逃にげた、「戸口とぐちの鍵かぎも掛かけてないじゃありませんか」

「人ひとなんか来きやあしないさ」

得とく石せきはおみのを捉つかまえようとして、灯あかりのはいった丸まる行燈あんどんに躓つまずき、慌あわててそれを押おさえた。おみのは寝衣ねまきをそこへ置おき、では自分じぶんで着替きがえて下くださいと云いった。

「あたし戸口とぐちの鍵かぎを掛かけて来きますわ」

「まさか」と彼かれはしんけんな顔かおで云いった、「ここまできて、まさか逃にげるんじゃあないだろうね」

「こんな恰好かっこうで」とおみのは長襦袢ながじゅばんの袖そでをひろげてみせた、「――あたしこそ、今夜こんやは先生せんせいを逃にがさないことよ」

そして六ろく帖じょうのほうへ出で、襖ふすまを閉しめた。

おみのは火鉢ひばちの脇わきへ跼かがみ、隣となりで得とく石せきの着替きがえする音おとを聞ききながら、仰向あおむいてきつく眼めをつむった。顔かおは緊張きんちょうのため硬こわばり、躯むくろが小刻こきざみにふるえた。「お父ちちつぁん」とおみのは祈いのるように呟つぶやいた、「あたしに力ちからを貸かして下ください」

四よん帖じょう半はんでどしんという音おとがした。得とく石せきが寝ねたのであろう、おみのは頭あたまを垂たれて、やや暫しばらくじっとしていた。躯むくろのふるえのしずまるのを待まっていたらしい、やがて、頭あたまから銀ぎんの平打ひらうちの釵かんざしを抜ぬき取とると、それを右手みぎてに持もって、静しずかに四し帖じょう半はんの襖ふすまをあけた。

「ようやくおでましか」と得とく石せきの云いうのが聞きこえた、「さあ、早はやくここへ」

おみのは中なかへはいって襖ふすまを閉しめた。

それから四半しはん刻ときたらずして、きちんと身みなりをととのえたおみのが出でて来きた。そのまま濡縁ぬれえんへ出でたが、嘔吐おうとする音おとが聞きこえ、やがて六ろく帖じょうへ戻もどると、袂たもとから小ちいさな紙箱かみばこを出だした。その蓋ふたには「梅花ばいか香こう」と書かいてあったが、おみのはその中なかから緑色みどりいろの粉末ふんまつを摘つみ取とり、幾いくたびも火鉢ひばちの火ひにくべた。爽さわやかな香かおりが部屋へやじゅうに漂ただよい、おみのは得とく石せきの手提てさげを持もって立たちあがった。そして、しっかりした足あしどりで戸口とぐちのほうへ出でてゆきながら、「これは川かわへ捨すてればいいわ」と云いった。

明あくる日ひの午前ごぜん十じゅう時じころ、――

離はなれの掃除そうじにいった女中じょちゅうのおきぬは、悲鳴ひめいをあげながら母屋おもやへころげこんで来きた。離はなれで人ひとが殺ころされているというのである。ゆうべの係かかりは誰だれだ、おふみさんです、ということでおふみが呼よばれた。

「みのさんという娘むすめさんがお伴つれでした」とおふみが云いった、「いいえ、どこの人ひとだか知しりません、初はじめてのお客きゃくでしたが、ゆうべ五いつつ半はん(九きゅう時じ)ごろでしょうか、お伴つれさまは悪酔わるよいをしたから泊とめてもらうと云いって、泊とめることはできないと断ことわったんですけれど、立たつこともできないからと仰おっしゃるもので」

「また心付こころづけをにぎらされたんだろう」と主人しゅじんが云いった、「それでその娘むすめの帰かえったあとで見みにゆかなかったのか」

「ええ、いそがしかったもので、つい」

「誰だれか町役まちやくを呼よんで来きてくれ」

町役まちやくが二人ふたり来き、主人しゅじんはかれらを案内あんないして、その離はなれへいった。死し躰からだは四よん帖じょう半はんの夜具やぐの中なかにあった。掛かけ夜具やぐがはねてあり、寝衣ねまきがはだけて、あらわになった胸むねの左ひだりの乳ちちの下したに、銀ぎんの平打ひらうちの釵かんざしが突つき刺ささっていた。

「枕許まくらもとに血ちがとんでるな」と町役まちやくの一人ひとりが云いった。

「いや、血ちじゃあない」とひらのの主人しゅじんが覗のぞきこんで首くびを振ふった、「これは椿つばきの花片かへんだ」

「死し躰からだの枕許まくらもとに椿つばきの花片かへんが一いち枚まい……」ともう一人ひとりの町役まちやくが、上眼うわめづかいに唇くちびるを舐なめ、首くびをひねった、「どこかで聞きいたことがあるようだな」

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