それを聞いてどきっとした、とおはなは続けた。なぜかというと、このあいだ蝶太夫が殺されたとき、いっしょに来た女、――つまり蝶太夫を殺したと思われる女が、沢田屋によく似ていた。身ごなしや口ぶりの色っぽいところなど、沢田屋そっくりにみえたからである。
「それであたし慥かめてみようと思って、お新ちゃんと相談のうえお茶を替えにいったんです」と云っておはなは息をはずませた、「向うじゃあ忘れてるでしょう、あたしは側へいってようく見てやりました」
「その女だったのか」
おはなは重おもしい眼つきで千之助をみつめ、自分の証言がどんなに重要な価値を持つかということを示すように、極めてゆっくりと頷いた。
「髪の結いかたも、着物や帯も変っていました」とおはなは囁くように云った、「けれども躯つきや顔だち、声まで変えることはできやしません」
「間違いはないな」
「慥かですとも、あのときのおりうという女に間違いはありません、あたしは証人になってもようございます」
「よし」千之助は頷いて云った、「ちょっとこのうちの主人を呼んでくれ」
おはなは立ってゆき、すぐに五十ばかりの男を伴れて戻った。彼はこの「かね本」のあるじで、名は与助であると云った。
「おれは八丁堀の青木千之助という者だ」
与助は辞儀をして、「御苦労さまでございます」と云った。
「上総屋の七造から知らせがあったのでとんで来たんだが、あらましのことはそのほうも聞いているだろう」
「はい、お新と二人から聞きましたので、すぐ上総屋の親分へお知らせにあがりました」
「考えることがあって、この件はおれが係を買って出た」と千之助は云った、「市中の目明しにはぜんぶ通知したから、今日までに三度、それらしい女をみつけたと云って来た、しかし三度ともまるで人違いだった」
「あたしは人違いなんかしやあしません」とおはなが口をはさんだ、「あたしはこの眼でちゃんと」
「少し黙ってくれ」と制して、千之助はあとを続けた、「そういうわけで、人相風態だけが頼りだから、もしお新の云うことが」
「あたしお新ちゃんじゃありません、おはなですよ、旦那」
「済まなかった」千之助は忍耐して云った、「このおはなの眼に間違いがなかったにしても、これという動かぬ証拠がない」
「まあ、どうしてですか」おはなが憤然とくってかかった、「あたしという証人がちゃんといるのに、ほかに証拠が要るんですか」
「黙ってくれ、頼むからもう少し黙っていてくれ」千之助は哀願するようにおはなを見、それから与助に向かって続けた、「――つまり、そのほうにはわかるだろうが否応を云わせぬ証拠がなければ、むやみに人をお繩にはできない、そうだろう」
「御尤もでございます」
「そこで頼みがある」千之助はちょっと声をひそめた、「その女を隣り座敷で見たいんだ、あとから伴れが来るそうだが、その伴れとどうするか見ていたい、そのようすによってこっちの出かたをきめようと思う」
「わかりました」と云って与助はちょっと考えた、「では座敷を変えましょう、だが、――いや、こんなことはもうとっくに承知でございましょうが、変った好みの客の頼みで作った拵えですから、どうぞ御内聞に願います」
「念には及ばない」千之助は苦笑した、「おれはまだ知らないが、べつに珍らしいことでもないだろう」
「ではちょっとお待ち下さい」
与助は出ていった。
そこでまたおはなが饒舌り始めた。こんどは身の上話で、別れた亭主のことや里子にやってある小さい娘のこと、いくら稼いでも帯一本買うゆとりもない、などというぐち話をしたあと、これがもし本当にあの女だとわかったら、お上からなにか褒美でもあるのだろうか、などと云いだした。
青木千之助は不愉快そうに、眉をしかめておはなを見た。こいつ褒賞がめあてで訴人したのか、と思ったのであるが、そうだとするとその女は怪しい。蝶太夫を殺した女だ、ということはうっかり信じられないぞ、と千之助は思った。
「もし本当にこれが下手人だったら、幾らか御褒美がさがるかもしれない」と彼はおはなに答えた、「けれども、もしまったくの人違いで、そんな疑いをかけられるような女でないとすると、お上に手数をかけ、罪のない人間に迷惑をかけたことで、きびしいお咎めがあるかもしれないぞ」
おはなの口があき、黄色くて大きな前歯があらわれた、「そんな、――」と彼女は吃った、「だってそんな、あたしはただお上のお役に立つつもりで、せっかくの休みに寄席へゆくのもやめて、こうやってなにしてるんですのに」
「その女が下手人なら、御褒美のさがるようにしてやるよ」
おはなは唇を舐めて、「でももしかして」と云いかけたが、そこへ与助が戻って来た。
「支度ができました」と与助が云った、「私が御案内いたします」
「おまえも来てくれ」と千之助がおはなに云った。
伴れてゆかれたのは離れだった。
こっちも田舎ふうの造りらしいが、二人のはいった部屋は納戸のような六帖で、床の間と違い棚はあるが窓はない。灯のはいった行燈と、燗鍋のかかった火鉢の側に酒肴の膳、そして角樽が置いてあった。一方の壁には、坐っていて眼の高さに小さな窓のような枠があり、縦三寸横一尺ほどの滑り戸が付いていた。
「ちょっとごらん下さい」あるじは千之助を呼んだ、「この戸をあけると隣りが見えます、いいえ向うはまだ来てはおりません」
千之助は戸をあけた。桐で作ってあるし、みぞには蝋をひいたらしく、その戸は軽く、そして音もなくあいた。戸のうしろは紫檀の板が嵌めてあり、その中央に小さな、横に細い穴が二つあいていて、覗いてみると隣り座敷がかなりよく見えた。千之助はその穴をしらべ、そこに黒い紗の張ってあるのを認めた。
「隣りの壁はそこが貼り絵になっていまして」と与助が説明した、「こちらの明りを強くしない限り、向うに気づかれる心配は決してございません」
罪な仕掛をするものだ、千之助はそう思ったが、口に出してはなにも云わなかった。