← Library‹ 五瓣の椿 第四話 三

江戸えど市し中ちゅうで客きゃくを泊とめることができるのは、宿屋やどやのほかに新しん吉原よしわら、品川しながわ、内藤ないとう新宿しんじゅく、板橋いたばしの四よんカ所しょだけである。しかしそれは表向おもてむきの話はなしで、時ときと場合ばあいによれば、小しょう料理りょうり屋やで泊とまることができる。こういうことはいつの時代じだいでも同おなじだろうが、特とくに、芝居しばいや色街いろまちの近ちかく、また、まわりの閑静かんせいな場所ばしょにある料亭りょうていでは、逢曳あいびきを目的もくてきに来くる客きゃくが少すくなくないから、たとえ泊とまらないにしても、それに応おうじた造つくりの小しょう座敷ざしきや、必要ひつような支度したくの揃そろっていることは通例つうれいであった。そうしてまた、隣となりからそういうことを覗のぞくという、癖くせの悪わるい客きゃくがあり、そんな客きゃくのために特殊とくしゅな仕掛しかけのある店みせがある、ということは、与力よりきという役目やくめ柄がらで千之助せんのすけもまえから聞きいていた。

――人間にんげんというやつは奇妙きみょうな生いき物ものだ。

下卑げびた、いやらしいことには違ちがいない。覗のぞかれる者ものの身みになれば赦ゆるすことのできない屈辱くつじょくであろう。だが、これもまた人間にんげんだけの持もつ欲望よくぼうと知恵ちえであることも慥たしかだ、と千之助せんのすけは思おもった。

「もう来くるじぶんです」と与助よすけが云いった、「有あり合あわせですがどうぞ、一いちと口くち召めし上あがりながらお待まち下ください、行燈あんどんの明あかるさはこのくらいでちょうどですから」

「酒さけはいらない」と千之助せんのすけが云いった、「この膳ぜんはさげて、茶ちゃを持もって来きてもらおう」

「しかしせっかく支度したくをしたものですから」

「酒さけは飲のまない」と千之助せんのすけは強つよく云いった、「さげさせてくれ」

与助よすけは「へえ」と云いった。

あるじが去さるとまもなく、隣となり座敷ざしきへその女おんながはいって来きた。まだ十じゅう七ななか八はちくらいの娘むすめで、おはなに覗のぞかせると「そうだ」と云いった。案内あんないした女中じょちゅうがお新しんというのだそうで、火鉢ひばちの火ひを直なおしたり、酒さけや肴さかなの膳ぜんをはこんで来きたりした。火鉢ひばちには燗鍋かんなべをかけ、膳ぜんは二ふたつ、角樽つのだるは一いち升しょう入いりであった。

このあいだにこっちでも酒さけの支度したくをさげ、若わかい女中じょちゅうが菓子かし鉢はちと茶ちゃ道具どうぐを持もって来きた。おはなの耳みみへ口くちをよせて「姉あねさん頼たのみますよ」と囁ささやいたから、それが妹いもうとのお初はつというのであろう、千之助せんのすけには黙だまって会釈えしゃくをし、忍しのび足あしで去さっていった。彼かれはおはなに手てを振ふった。茶ちゃはあとだ、というふうに手てを振ふり、そのまま隣となりのようすを見みまもった。

――罪つみだな、こいつは。

役目やくめとはいえこれは罪つみなことだ、と彼かれは思おもった。たとえ相手あいてが人殺ひとごろしであっても、そんなふうに覗のぞき見みをするというのは非道ひどうであり、むしろ神聖しんせいを冒涜ぼうとくする、という感かんじさえした。

隣となり座敷ざしきの娘むすめは火鉢ひばちへ片手かたてをかざし、片手かたてに本ほんを持もって読よんでいた。こちらからは斜ななめに横顔よこがおが見みえるが、ちょっと憂うれいのある、おとなしそうな顔かおだちで、しんと坐すわった姿勢しせいも、静しずかに本ほんを繰くる手てつきも、優雅ゆうがにおちついていて、どう見みても大店おおだなの奥おくに育そだった箱入はこいり娘むすめ、というふうにしか思おもえなかった。

――これは違ちがうな。

どう考かんがえても人ひとを殺ころすようにはみえない。壮年そうねんの男おとこを二人ふたりまで殺ころしたとすれば、どこかにそういうものが感かんじられる筈はずである。与力よりきとして幾十いくじゅう人にんとなく罪人ざいにんに接せっして来き、中なかにはずいぶん眼外めはずれな例れいもあったが、罪つみを犯おかした人間にんげんと無実むじつの人間にんげんとは、ふしぎなほど直感ちょっかんで判断はんだんがつく。無実むじつな人間にんげんを誤認ごにんすることはあっても、罪つみを犯おかした人間にんげんを見誤みあやまるようなことは殆ほとんどなかった。

――これは人殺ひとごろしのできるような娘むすめではない。

千之助せんのすけはそう考かんがえながら、ふとまた、「その箱入はこいり娘むすめがこんなところで男おとこを待まっている」ということに気きづいた。こんどの殺ころしそのものが尋常じんじょうではない、「釵かんざし」と一いち枚まいの「花弁かべん」という取合とりあわせ、またどっちの男おとこも行状ぎょうじょうが悪わるかったこと、下手げしゅ人にんと思おもわれるのが、どちらも女おんなであったことなどを、改あらためてなぞるように思おもい返かえした。

そのとき千之助せんのすけは壁かべからはなれた。隣となりの娘むすめが、火鉢ひばちにかざしていた手てを、袖口そでぐちからふところへ入いれたのである。その手ては乳房ちぶさの上うえへ置おかれたようで、たぶん無心むしんな動作どうさだったろうが、覗のぞいている千之助せんのすけにとっては、見みてはならないものを見みたような、うしろめたい気分きぶんにおそわれたのであった。

――男おとこの来くるのを待まつことはない、当あたってみよう。

男おとこが来きてからでは、却かえって事ことが面倒めんどうになるかもしれない、そう思おもったので、千之助せんのすけはおはなを手てで招まねき、その耳みみへ口くちを寄よせて、彼女かのじょにして貰もらう役割やくわりを教おしえた。

「わかったな」と彼かれは念ねんを押おした、「きっかけが大事だいじだぞ、いいか」

「はい」とおはなは頷うなずいた、「大丈夫だいじょうぶやれると思おもいます」

千之助せんのすけは立たちあがった。

その部屋へやの出入でいり口くちは、隣となり座敷ざしきと反対はんたいのほうにある。千之助せんのすけはいちど外がいへ出で、袖垣そでがきのところを踏石ふみいしづたいに廻まわっていって、その座敷ざしきの格子こうしをあけた。とっつきが三さん帖じょう、衝立ついたてがあって、すぐ左ひだりが座敷ざしきらしい。千之助せんのすけは刀かたなを右手みぎてに持もち、黙だまって静しずかに襖ふすまをあけ、立たったままで娘むすめを見みた。

「まあおそい……」と云いいかけて、娘むすめは口くちをつぐみ、不審ふしんそうに千之助せんのすけを見みた。

千之助せんのすけは娘むすめを見みおろした。娘むすめは本ほんを持もったほうの手てを膝ひざにおろし、静しずかな眼めで千之助せんのすけを見みあげながら、「なにか御ご用ようですか」と云いった。驚おどろいたり狼狽ろうばいしたようすは少すこしもなく、ゆったりとおちついた態度たいどだった。

「私わたくしは町方まちかた与力よりきの青木あおき千之助せんのすけという者ものです」と彼かれは答こたえて云いった、「ちょっと聞ききたいことがあるのだが、坐すわってもいいですか」

娘むすめは「どうぞ」と云いい、すぐ気きがついたように、片方かたほうの膳ぜんの前まえにある座ざ蒲団ふとんを取とって、千之助せんのすけのほうへすすめた。彼かれはそこへ坐すわり、刀かたなを右みぎに置おいた。

「役目やくめだから言葉ことばを改あらためます」

「はい」と娘むすめは坐すわり直なおした。

「まずところと名なを聞きこう」

「住居じゅうきょは湯島ゆしま横町よこまち、名なは倫りんと申もうします」

「親おやがかりか」

「はい、いいえ」娘むすめはかぶりを振ふりながら、眩まぶしそうに眼めを伏ふせた、「少すこしわけがありまして、いま親おやの家いえからはなれ、湯島ゆしま横町よこまちで茶ちゃの師匠ししょうをしております」

「年ねんは幾いくつになる」

「二十歳はたちになります」

「二十にじゅう歳さいで茶ちゃの師匠ししょうか」と千之助せんのすけは云いった、「実家じっかのことを聞きこう、ところ、しょうばい、両親りょうしんやきょうだいのことだ」

娘むすめはためらった、「あのう」と娘むすめは口くちごもり、哀願あいがんするような眼めで千之助せんのすけを見みた、「こんなことが親おやに知しれると困こまるのですが」

「親おやには知しれないようにしてやる、尤もっとも、云いえなければむりに云いわなくともいいんだ」

「家いえは日本橋にほんばし石町こくちょうで、伊勢屋いせやという紙かみ問屋とんやをしております」

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