江戸市中で客を泊めることができるのは、宿屋のほかに新吉原、品川、内藤新宿、板橋の四カ所だけである。しかしそれは表向きの話で、時と場合によれば、小料理屋で泊ることができる。こういうことはいつの時代でも同じだろうが、特に、芝居や色街の近く、また、まわりの閑静な場所にある料亭では、逢曳きを目的に来る客が少なくないから、たとえ泊らないにしても、それに応じた造りの小座敷や、必要な支度の揃っていることは通例であった。そうしてまた、隣りからそういうことを覗くという、癖の悪い客があり、そんな客のために特殊な仕掛のある店がある、ということは、与力という役目柄で千之助もまえから聞いていた。
――人間というやつは奇妙な生き物だ。
下卑た、いやらしいことには違いない。覗かれる者の身になれば赦すことのできない屈辱であろう。だが、これもまた人間だけの持つ欲望と知恵であることも慥かだ、と千之助は思った。
「もう来るじぶんです」と与助が云った、「有り合せですがどうぞ、一と口召し上りながらお待ち下さい、行燈の明るさはこのくらいでちょうどですから」
「酒はいらない」と千之助が云った、「この膳はさげて、茶を持って来てもらおう」
「しかしせっかく支度をしたものですから」
「酒は飲まない」と千之助は強く云った、「さげさせてくれ」
与助は「へえ」と云った。
あるじが去るとまもなく、隣り座敷へその女がはいって来た。まだ十七か八くらいの娘で、おはなに覗かせると「そうだ」と云った。案内した女中がお新というのだそうで、火鉢の火を直したり、酒や肴の膳をはこんで来たりした。火鉢には燗鍋をかけ、膳は二つ、角樽は一升入りであった。
このあいだにこっちでも酒の支度をさげ、若い女中が菓子鉢と茶道具を持って来た。おはなの耳へ口をよせて「姉さん頼みますよ」と囁いたから、それが妹のお初というのであろう、千之助には黙って会釈をし、忍び足で去っていった。彼はおはなに手を振った。茶はあとだ、というふうに手を振り、そのまま隣りのようすを見まもった。
――罪だな、こいつは。
役目とはいえこれは罪なことだ、と彼は思った。たとえ相手が人殺しであっても、そんなふうに覗き見をするというのは非道であり、むしろ神聖を冒涜する、という感じさえした。
隣り座敷の娘は火鉢へ片手をかざし、片手に本を持って読んでいた。こちらからは斜めに横顔が見えるが、ちょっと憂いのある、おとなしそうな顔だちで、しんと坐った姿勢も、静かに本を繰る手つきも、優雅におちついていて、どう見ても大店の奥に育った箱入り娘、というふうにしか思えなかった。
――これは違うな。
どう考えても人を殺すようにはみえない。壮年の男を二人まで殺したとすれば、どこかにそういうものが感じられる筈である。与力として幾十人となく罪人に接して来、中にはずいぶん眼外れな例もあったが、罪を犯した人間と無実の人間とは、ふしぎなほど直感で判断がつく。無実な人間を誤認することはあっても、罪を犯した人間を見誤るようなことは殆んどなかった。
――これは人殺しのできるような娘ではない。
千之助はそう考えながら、ふとまた、「その箱入り娘がこんなところで男を待っている」ということに気づいた。こんどの殺しそのものが尋常ではない、「釵」と一枚の「花弁」という取合せ、またどっちの男も行状が悪かったこと、下手人と思われるのが、どちらも女であったことなどを、改めてなぞるように思い返した。
そのとき千之助は壁からはなれた。隣りの娘が、火鉢にかざしていた手を、袖口からふところへ入れたのである。その手は乳房の上へ置かれたようで、たぶん無心な動作だったろうが、覗いている千之助にとっては、見てはならないものを見たような、うしろめたい気分におそわれたのであった。
――男の来るのを待つことはない、当ってみよう。
男が来てからでは、却って事が面倒になるかもしれない、そう思ったので、千之助はおはなを手で招き、その耳へ口を寄せて、彼女にして貰う役割を教えた。
「わかったな」と彼は念を押した、「きっかけが大事だぞ、いいか」
「はい」とおはなは頷いた、「大丈夫やれると思います」
千之助は立ちあがった。
その部屋の出入り口は、隣り座敷と反対のほうにある。千之助はいちど外へ出、袖垣のところを踏石づたいに廻っていって、その座敷の格子をあけた。とっつきが三帖、衝立があって、すぐ左が座敷らしい。千之助は刀を右手に持ち、黙って静かに襖をあけ、立ったままで娘を見た。
「まあおそい……」と云いかけて、娘は口をつぐみ、不審そうに千之助を見た。
千之助は娘を見おろした。娘は本を持ったほうの手を膝におろし、静かな眼で千之助を見あげながら、「なにか御用ですか」と云った。驚いたり狼狽したようすは少しもなく、ゆったりとおちついた態度だった。
「私は町方与力の青木千之助という者です」と彼は答えて云った、「ちょっと聞きたいことがあるのだが、坐ってもいいですか」
娘は「どうぞ」と云い、すぐ気がついたように、片方の膳の前にある座蒲団を取って、千之助のほうへすすめた。彼はそこへ坐り、刀を右に置いた。
「役目だから言葉を改めます」
「はい」と娘は坐り直した。
「まずところと名を聞こう」
「住居は湯島横町、名は倫と申します」
「親がかりか」
「はい、いいえ」娘はかぶりを振りながら、眩しそうに眼を伏せた、「少しわけがありまして、いま親の家からはなれ、湯島横町で茶の師匠をしております」
「年は幾つになる」
「二十歳になります」
「二十歳で茶の師匠か」と千之助は云った、「実家のことを聞こう、ところ、しょうばい、両親やきょうだいのことだ」
娘はためらった、「あのう」と娘は口ごもり、哀願するような眼で千之助を見た、「こんなことが親に知れると困るのですが」
「親には知れないようにしてやる、尤も、云えなければむりに云わなくともいいんだ」
「家は日本橋石町で、伊勢屋という紙問屋をしております」