← Library‹ 五瓣の椿 第四話 四

「父ちちの名なは喜兵衛きへえ、母はははおととし亡なくなりました」と娘むすめは云いった、「きょうだいは二人ふたりで、家いえには十じゅう七ななになる弟おとうとの政吉まさきちがおります」

「家いえを出でたのはどういうわけだ」

「それは云いいたくないのですが」と娘むすめはまたためらったが、伏ふし眼めになって、低ひくい声こえで云いいにくそうに続つづけた、「――母ははの亡なくなったあと、まもなく新あたらしい母ははが来きまして」

娘むすめはそこで言葉ことばを切きり、顔かおをあげて、不審いぶかしそうに千之助せんのすけを見みた。

「いまお役目やくめと仰おっしゃいましたけれど、わたくしどういうわけでお調しらべを受うけるのでしょうか」

「人殺ひとごろしが二に度どあった」千之助せんのすけはさりげなく云いった、「瓦版かわらばんが出でたから知しってるだろうと思おもうが、一いち度どは深川ふかがわ、二に度どめに浅草あさくさ、どちらも殺ころされたのは男おとこで、下手へた人ひとは二に度どとも若わかい女おんなだった、知しっているだろう」

「いいえ」娘むすめは大おおきくみひらいた眼めで、吃驚びっくりしたように千之助せんのすけをみつめながら、かぶりを振ふった、「わたくし近所きんじょづきあいを致いたしませんし、瓦版かわらばんを読よむようなこともございませんから」

「茶ちゃの弟子でしたちからも聞きかなかったか」

娘むすめはまた眼めを伏ふせた、「本当ほんとうのことを申もうしますと、看板かんばんは出だしてありますが、わたくし弟子でしは取とっておりません」

「どういうことだ」

千之助せんのすけは咳せきをした。すると格子こうし戸とのあく音おとがした。千之助せんのすけは「早はやい」と思おもった。咳せきを三さん度どするのがきっかけだと教おしえた。いま来きては早はやすぎると思おもったが、もうまにあわない、襖ふすまをあけておはながはいって来きた。茶ちゃ道具どうぐを持もって、「ごめん下ください」と云いってはいって来き、千之助せんのすけの脇わきへ茶ちゃ道具どうぐを置おきながら、娘むすめを見みて「まあ」と大おおきな声こえをあげた。

「まあお珍めずらしい」とおはなは云いった、「いつか門前もんぜん仲町なかちょうの店みせでお眼めにかかった、おりうさまじゃあございませんか」

千之助せんのすけは娘むすめの表情ひょうじょうをみつめた。娘むすめの顔かおは硬こわばるようにみえたが、怖おそれの色いろも、動揺どうようするけはいもみせなかった。

「わたくしはあなたを知しりません」と娘むすめが云いった、「人違ひとちがいをなすっているのでしょう」

「まああんなこと仰おっしゃって、門前もんぜん仲町なかちょうの岡田おかだへ、岸沢きしざわのお師匠ししょうさんといらしったじゃありませんか、あたしあのとき番ばんで、お二人ふたりのお世話せわをした女中じょちゅうですよ」

「この女おんなに相違そういないか」と千之助せんのすけが云いった。

「ええこの人ひとです」おはなは手てをあげて娘むすめを指ゆびさした、「あたしの眼めに間違まちがいはありません、慥たしかにこの人ひとです」

千之助せんのすけは片膝かたひざ立だちになって、娘むすめの左ひだりの手首てくびを掴つかんだ、「おい、正直しょうじきに云いえ、おまえこの女中じょちゅうを知しっているだろう」

「存ぞんじません」娘むすめは掴つかまれた手てを放はなそうともせず、おちついた声こえで、かぶりを振ふりながら云いった、「八幡やわた様さまやお不動ふどう様さまへはおまいりにいったことがありますけれど、料理りょうり茶屋ちゃやなどへあがったことはございません」

「料理りょうり茶屋ちゃやだって」と千之助せんのすけがするどく反問はんもんした、「料理りょうり茶屋ちゃやだということがどうしてわかった」

「だってこの、――」と娘むすめは吃どもった、「この人ひとを見みれば、茶屋ちゃや奉公ほうこうをしている人ひとだということはわかると思おもいます」

「しらばっくれるな」

千之助せんのすけは掴つかんでいる娘むすめの手てをぐいと引ひいた。一いちと揺ゆり揺ゆすぶってみるつもりだったが、娘むすめはまったく無む抵抗ていこうで、その躯むくろは引ひかれるまま、斜ななめ前まえにやわらかくのめった。千之助せんのすけは手てを持もち変かえ、右手みぎてで娘むすめの腕うでの付根つけねを押おさえこんだ。

そのとき襖ふすまがあき、男おとこが一人ひとり、こっちを見みて「あっ」と仰天ぎょうてんしたように叫さけんだ。

「なにをなさる」男おとこはとびあがりそうな声こえでどなった、「おまえさんはなんだ、どうしたんだお倫おさむさん、これはなんのことだ」

「騒さわがないで下ください清きよしさん、人違ひとちがいなんです」と娘むすめが静しずかに云いった、「――済すみませんが、逃にげもどうもしませんから、どうか乱暴らんぼうなことはなさらないで下ください」

千之助せんのすけは手てを放はなして、男おとこを見みた。

「はいってそこを閉しめてくれ」

男おとこはふるえながら、襖ふすまを閉しめてこっちへ来き、娘むすめの側がわへ坐すわった。娘むすめは起おき直なおり裾すそや衿えりをかいつくろい、髪かみへ手てをやった。顔かおは蒼あおざめてみえるが、態度たいども声音こわねもおちついてい、却かえって男おとこのほうがおろおろしていた。

「おれは八丁堀はっちょうぼりの青木あおき千之助せんのすけという者ものだ」と彼かれは男おとこに云いった、「そのほうこの娘むすめを知しっているのか」

「はい、その」と男おとこは慌あわててかしこまった、「じつは許婚いいなずけ同様どうようの者ものでございます」

「同様どうようとは、どういうことだ」

「その、ちょっとわけがありまして」男おとこは娘むすめのほうを見み、口くちごもった。

「構かまいません」と娘むすめが男おとこに云いった、「囲かこい者ものだと仰おっしゃって下ください」

「囲かこい者ものだなんて、そんな」

「おれから訊きくが」と千之助せんのすけが云いった、「それではそのほうが湯島ゆしま横町よこちょうの家いえの面倒めんどうをみているのか」

「まことに失礼しつれいですが」と男おとこはちょっとひらき直なおった、「私わたくしは蔵前くらまえの札差ふださしの伜せがれで名なは清一せいいち、親おやは香屋かや忠兵衛ちゅうべえといいます、これは近ちかいうち私わたくしの妻つまになる倫りんですが、いったいどういう御ご不審ふしんでお取調とりしらべを受うけるのか、それを先さきに聞きかして頂いただけませんか」

千之助せんのすけは男おとこを見みた。清一せいいちと名なのるその男おとこは、もう三十さんじゅう一いちか二にになるだろう、背丈せたけの高たかい、いい顔かおをしているし、着きている物ものも高価こうかな品しなだが、いかにも札差ふださしの家いえの道楽どうらく者しゃという感かんじで、ひらき直なおったかたちもどこやらしまりがなかった。

「人殺ひとごろし兇状きょうじょうの疑うたがいだ」と千之助せんのすけは云いった、「この半月はんつきばかりのあいだに、料理りょうり茶屋ちゃやで人殺ひとごろしが二に件けんあった」

「人殺ひとごろし」と清一せいいちが笑わらった、「冗談じょうだんじゃあねえ、それはまたとんだ」

「清きよしさん」と娘むすめがやわらかに遮さえぎった、「御ご用ようのことですから、温和おとなしく聞きいていて下くださいな」

男おとこは不服ふふくそうに黙だまった。

倫りんという娘むすめは、眼めの隅すみで女中じょちゅうを見みた。千之助せんのすけは仔細しさいを話はなしてい、おはなは気きまずそうに、隅すみのほうで身みをちぢめていた。

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