「父の名は喜兵衛、母はおととし亡くなりました」と娘は云った、「きょうだいは二人で、家には十七になる弟の政吉がおります」
「家を出たのはどういうわけだ」
「それは云いたくないのですが」と娘はまたためらったが、伏し眼になって、低い声で云いにくそうに続けた、「――母の亡くなったあと、まもなく新らしい母が来まして」
娘はそこで言葉を切り、顔をあげて、不審かしそうに千之助を見た。
「いまお役目と仰しゃいましたけれど、わたくしどういうわけでお調べを受けるのでしょうか」
「人殺しが二度あった」千之助はさりげなく云った、「瓦版が出たから知ってるだろうと思うが、一度は深川、二度めに浅草、どちらも殺されたのは男で、下手人は二度とも若い女だった、知っているだろう」
「いいえ」娘は大きくみひらいた眼で、吃驚したように千之助をみつめながら、かぶりを振った、「わたくし近所づきあいを致しませんし、瓦版を読むようなこともございませんから」
「茶の弟子たちからも聞かなかったか」
娘はまた眼を伏せた、「本当のことを申しますと、看板は出してありますが、わたくし弟子は取っておりません」
「どういうことだ」
千之助は咳をした。すると格子戸のあく音がした。千之助は「早い」と思った。咳を三度するのがきっかけだと教えた。いま来ては早すぎると思ったが、もうまにあわない、襖をあけておはながはいって来た。茶道具を持って、「ごめん下さい」と云ってはいって来、千之助の脇へ茶道具を置きながら、娘を見て「まあ」と大きな声をあげた。
「まあお珍らしい」とおはなは云った、「いつか門前仲町の店でお眼にかかった、おりうさまじゃあございませんか」
千之助は娘の表情をみつめた。娘の顔は硬ばるようにみえたが、怖れの色も、動揺するけはいもみせなかった。
「わたくしはあなたを知りません」と娘が云った、「人違いをなすっているのでしょう」
「まああんなこと仰しゃって、門前仲町の岡田へ、岸沢のお師匠さんといらしったじゃありませんか、あたしあのとき番で、お二人のお世話をした女中ですよ」
「この女に相違ないか」と千之助が云った。
「ええこの人です」おはなは手をあげて娘を指さした、「あたしの眼に間違いはありません、慥かにこの人です」
千之助は片膝立ちになって、娘の左の手首を掴んだ、「おい、正直に云え、おまえこの女中を知っているだろう」
「存じません」娘は掴まれた手を放そうともせず、おちついた声で、かぶりを振りながら云った、「八幡様やお不動様へはおまいりにいったことがありますけれど、料理茶屋などへあがったことはございません」
「料理茶屋だって」と千之助がするどく反問した、「料理茶屋だということがどうしてわかった」
「だってこの、――」と娘は吃った、「この人を見れば、茶屋奉公をしている人だということはわかると思います」
「しらばっくれるな」
千之助は掴んでいる娘の手をぐいと引いた。一と揺り揺すぶってみるつもりだったが、娘はまったく無抵抗で、その躯は引かれるまま、斜め前にやわらかくのめった。千之助は手を持ち変え、右手で娘の腕の付根を押えこんだ。
そのとき襖があき、男が一人、こっちを見て「あっ」と仰天したように叫んだ。
「なにをなさる」男はとびあがりそうな声でどなった、「おまえさんはなんだ、どうしたんだお倫さん、これはなんのことだ」
「騒がないで下さい清さん、人違いなんです」と娘が静かに云った、「――済みませんが、逃げもどうもしませんから、どうか乱暴なことはなさらないで下さい」
千之助は手を放して、男を見た。
「はいってそこを閉めてくれ」
男はふるえながら、襖を閉めてこっちへ来、娘の側へ坐った。娘は起き直り裾や衿をかいつくろい、髪へ手をやった。顔は蒼ざめてみえるが、態度も声音もおちついてい、却って男のほうがおろおろしていた。
「おれは八丁堀の青木千之助という者だ」と彼は男に云った、「そのほうこの娘を知っているのか」
「はい、その」と男は慌ててかしこまった、「じつは許婚同様の者でございます」
「同様とは、どういうことだ」
「その、ちょっとわけがありまして」男は娘のほうを見、口ごもった。
「構いません」と娘が男に云った、「囲い者だと仰しゃって下さい」
「囲い者だなんて、そんな」
「おれから訊くが」と千之助が云った、「それではそのほうが湯島横町の家の面倒をみているのか」
「まことに失礼ですが」と男はちょっとひらき直った、「私は蔵前の札差の伜で名は清一、親は香屋忠兵衛といいます、これは近いうち私の妻になる倫ですが、いったいどういう御不審でお取調べを受けるのか、それを先に聞かして頂けませんか」
千之助は男を見た。清一と名のるその男は、もう三十一か二になるだろう、背丈の高い、いい顔をしているし、着ている物も高価な品だが、いかにも札差の家の道楽者という感じで、ひらき直ったかたちもどこやらしまりがなかった。
「人殺し兇状の疑いだ」と千之助は云った、「この半月ばかりのあいだに、料理茶屋で人殺しが二件あった」
「人殺し」と清一が笑った、「冗談じゃあねえ、それはまたとんだ」
「清さん」と娘がやわらかに遮った、「御用のことですから、温和しく聞いていて下さいな」
男は不服そうに黙った。
倫という娘は、眼の隅で女中を見た。千之助は仔細を話してい、おはなは気まずそうに、隅のほうで身をちぢめていた。