← Library‹ 五瓣の椿 第四話 六

危あぶなかった。本当ほんとうに危あぶなかった、あたしの胸むねはまだこんなに強つよく動悸どうきを打うっているし、手てを拳こぶしにしていないと、指ゆびはみじめなほどふるえる。でもこれは独ひとりになってからのことだ。

門前もんぜん仲町なかちょうの「岡田おかだ」の女中じょちゅうが、どうしてあのうちにいたのだろう。この広ひろいお江戸えどの中なかで茶屋ちゃや奉公ほうこうをしていれば、毎日まいにち大勢たいせいの客きゃくを扱あつかっている筈はずだ。それをいちどしか会あったことのないあたしを、どうして覚おぼえていたのだろうか、――尤もっとも、客きゃくの顔かおを覚おぼえるということは、あの女おんなたちのしょうばいのうちかもしれないけれど。

青木あおき千之助せんのすけという人ひとは、あたしをおりうだと見みぬいただろうか。それともあの人ひとの言葉ことばを信しんじて、疑うたがいを解といただろうか、――どちらともわからない。すっかり疑うたがいを解といたとも思おもえるが、そうではないかもしれない。与力よりきという役目やくめからすれば、そうあっさり諦あきらめる筈はずはない。

――そうよ、そんな筈はずはないわ。

あの女中じょちゅうが「まあお珍めずらしい」と云いったとき、あたしは息いきが止とまった。喉のどのところに拳こぶしくらいもある固かたまりのような物ものがこみあげてきて、息いきが止とまり、眼めの前まえがすうっと暗くらくなるような感かんじだった。青木あおきさまがそっぽを向むいて、あたしを眼めの隅すみから見みていた。顔かおは脇わきへ向むいているのに、青木あおきさまの眼めはあたしをするどくみつめている。それがちょうど針はりで刺さされるように感かんじられたので、あたしは却かえって叫さけびだすのを抑おさえることができたのだ。

――あのときに勝負しょうぶがきまったんだわ。

われながら女おんなはこわいものだと思おもう。息いきが止とまり、眼めの前まえがすうっと暗くらくなるように感かんじ、怖おそろしさのあまり叫さけびだそうとしたとき、青木あおきさまが見みている、と気きづいた。するとからだにあの反応はんのうが起おこったのだ。乳房ちぶさが重おもく張はり、固かたくなった乳首ちくびが肌着はだぎでこすれ、両腿りょうももの奥おくが湯ゆでもこぼしたように熱あつくなる。満みち溢あふれたものが静しずかに解放かいほうされるときの、こころよい充足じゅうそく感かん、――恐怖きょうふはやわらげられて、自信じしんとおちついた気分きぶんがよみがえってきた。青木あおきさまに捻ねじ伏ふせられたときも、自分じぶんが勝かつことをあたしは疑うたがわなかった。なぜなら、あたしは「罪つみを犯おかしてはいない」からであった。

あの女中じょちゅうに「おりうさん」と呼よばれたときだけ、あたしは罪つみというものを感かんじた。それも、蝶ちょう太夫たゆうや得とく石せきを殺ころした、ということに罪つみを感かんじたわけではない。決けっしてそうではない、それとはまったくべつの、なんと云いったらいいかしら、――わからない、なんと云いいようもない。あなたはおりうさんではないか、とあの女中じょちゅうの云いった言葉ことばのなかに、罪つみを感かんじさせるものがあったような気きがする。

そうよ、あたしは「決けっして」罪つみを犯おかしはしなかった。あれが人殺ひとごろしであり、罪つみであるのなら、自分じぶんでそれを感かんじない筈はずはない。濡ぬれた着物きものを着きれば、冷つめたさときみ悪わるさを感かんじない者ものはないだろう。まして、人ひとの命いのちをちぢめるということは、濡ぬれた着物きものを着きるなどという譬たとえとは、比較ひかくもできないほど怖おそろしく重大じゅうだいなことだ。

――それなのにあたしは、爪つめの先さきほども罪つみを感かんじていない、女中じょちゅうに呼よびかけられたあの、ごく短みじかいいっときのほかは……。

――初はじめて蝶ちょう太夫たゆうを殺ころしたとき、あたしのからだに二ふたつの反応はんのうがあった。一ひとつは嘔吐おうとしたこと、もう一ひとつはあれだ。裸はだかにして寄より添そって、教おしえられたとおり、左ひだりの乳ちちの下したをさぐり、そこへ釵かんざしの尖さきを当あててから、あたしは力ちからをこめて、両手りょうてでそれを刺さし込こんだ。

――あたしはむさし屋やのおしの、……

そして、父ちちの恨うらみを云いおうとしたけれど、舌したがつって言葉ことばが出でなかった。頭あたまがぼっとなり、眼めの前まえが暗くらくなった。すると急きゅうに乳房ちぶさが痛いたいほど重おもく張はり、固かたくなった乳首ちくびが肌着はだぎにさわるのが感かんじられ、両腿りょうももの奥おくが湯ゆをこぼすように熱あつくなった。手てのひらや足あしの裏うらに、むず痒がゆいような、するどくこころよい感覚かんかくが起おこり、躯むくろじゅうが痺しびれたようになった。

――拍子ひょうし三みつほどのあいだ、気きを失うしなったような感かんじだった。

海野うんの得とく石せきのときにも、まったく同おなじような反応はんのうが起おこったものだ。嘔吐おうとしたのは血ちの匂においを嗅かいだからだろうか、いや、血ちは殆ほとんど出でなかった。出でたかもしれない、眼めをそむけずにはいられなかったから、少すこしは出でたかもしれないが、そんな匂においはしなかったし、あとで手てを洗あらったときにも、手ては少すこしもよごれてはいなかった。

椿つばきの花片かへんを一いち枚まい、枕許まくらもとへ置おくときに、あたしは父ちちに呼よびかける。お父ちちつぁん、これで恨うらみが一ひとつだけ消きえたでしょ、――すると父ちちの頬笑ほうえむ顔かおがみえるのだ。骨ほねばかりのように病やみ衰おとろえた父ちちの顔かおに、頬笑ほうえみがうかび、枕まくらの上うえでそっと頷うなずくのが、ふしぎなくらいありありとみえるように思おもう。おそらく、父ちちのたましいはあたしに付ついていて、あたしのすることを助たすけ、あたしのしたことでなぐさめられるに違ちがいない。

――死しぬまでにいちど会あいたい、ひと言ことだけ云いってやりたいことがある。

そう云いったときの父ちちの声こえや、見みるに忍しのびないほど苦くるしげな表情ひょうじょうは、いまでもはっきりと記憶きおくに残のこっている。母はははあの男おとこたちとともに、父ちちの心こころをふみにじり、父ちちの一生いっしょうをずたずたにしたのだ。一人ひとりの父ちちを、よってたかって責せめ殺ころしたようなものだ。無力むりょくで、温厚おんこうな父ちち、……どんなに辛つらく、苦くるしく、くやしいことだったろう。「ひと言ことだけ云いってやりたい」と云いいながら、そのひと言ことさえ云いうことができずに死しんでいった。

――まだ三さん人にん残のこっている。

桝屋ますやの佐吉さきちがあげたのは八はち人にんだったが、あたしはその中なかで五ご人にんを選えらんだ。その五ご人にんはいまでも、いろいろな意味いみで人ひとを苦くるしめ、騙だまし、泣なかせている。他ほかの三さん人にんはゆるしても、五ご人にんだけはゆるすことのできない人間にんげんだ。

――あと三さん人にん。

湯島ゆしま横町よこちょうのこの家いえは引越ひっこさなければならない。青木あおきさまはきっと、この家いえを見張みはるに違ちがいない。実家じっかのほうも調しらべれば、嘘うそだということはすぐにわかってしまう。あれはあたしの友達ともだちの家いえなのだから、そして、友達ともだちのおいせさんはもうお嫁よめにいった筈はずだから。

これからは場所ばしょをよく選えらぶことにしよう。ことによると、市し中ちゅうの料理りょうり茶屋ちゃやへは、町方まちかたから手配てはいがゆきわたるかもしれない。それはたいへんな手数てすうだし、全部ぜんぶに手配てはいするということは不ふ可能かのうかもしれないが、それにしても注意ちゅういするに越こしたことはない。

――香屋かや清一せいいち、こんどはあんたの番ばんよ。

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