← Library‹ 五瓣の椿 第一話 四

おしのは夜明よあけを待まって、亀戸かめいどへ使つかいをやった。医者いしゃの横よこ山参さんじん得とくは首くびを振ふった。

「どんな名医めいいでもだめだ」と参さん得とくは病人びょうにんの枕許まくらもとで云いった、「もう人間にんげんの手てには負おえない、明日あすまでもむずかしいと思おもう」

おしのは番頭ばんとうたちと相談そうだんをし、例年れいねんどおり元旦がんたんを祝いわうことにした。どんなことがあっても、父ちちは必かならず店みせのしきたりを守まもった。おしのはその父ちちの性分しょうぶんを盾たてに取とり、番頭ばんとうたちの反対はんたいを押おし切きって、いつものように祝儀しゅうぎの支度したくをさせた。――亀戸かめいどへ使つかいにやったのは、年上としうえの女中じょちゅうのお孝たかであったが駕籠かごでいったにしても帰かえりが早はやく、おしのを廊下ろうかへ呼よんで、「おかみさんは留守るすでした」と囁ささやいた。

「留守るすって、どういうこと」

「江えノ島しまへいらしったんですって」

おしのの口くちがゆっくりとあいた。

「二十にじゅう九きゅう日にちの朝あさ」とお孝たかは続つづけた、「石町こくちょうの伊勢いせ久ひさしのおかみさん、通とおり二に丁目ちょうめの吉井よしい屋やのおかみさん、そのほかお二人ふたりごいっしょに、往いき帰かえりとも七なな日かのつもりで、江えノ島しまの弁天べんてん様さまへおまいりにいらしったんだそうです」

「おっ母ははさんが、二十にじゅう九きゅう日にちに」おしのはぼんやりと訊きき返かえした、「――江えノ島しまへだって」

「おまささんがそう云いってました」

「二十にじゅう九きゅう日にち」とおしのはまた訊きき返かえした、「それ本当ほんとうのことだろうね」

だがお孝たかの返辞へんじを聞きこうともせず、おしのはふらふらと、よろめきながら自分じぶんの部屋へやへはいり、畳たたみの上うえへ崩くずれるように坐すわった。二十にじゅう九きゅう日にちはおしのが訪たずねた翌日よくじつに当あたる、そのとき母はははあさっての夕方ゆうがたにゆくと約束やくそくをした。父ちちがこれまでとは違ちがって、本当ほんとうに重態じゅうたいだということをはっきりと云いったし、それが誇張こちょうでないことはわかった筈はずである。

「おっ母ははさんは騙だました」おしのは歯はと歯はのあいだで呟つぶやいた、「おっ母ははさんはあたしを騙だましたのよ、あのときもう江えノ島しまへゆくことはきまっていたんだわ」

二十にじゅう七しち日にちの夜よるから、火ひのけを入いれなかったその部屋へやは、壁かべまでしみとおるほど冷ひえていた。しかしおしのはその寒さむさにも気きづかず、おたみが呼よびに来くるまで、独ひとりでじっと坐すわっていた。おたみは襖ふすまの外そとから呼よびかけ、返辞へんじがないので襖ふすまをあけた。

「いらしったんですか」とおたみが云いった、「旦那だんながお呼よびです」

おしのはゆっくりと女中じょちゅうを見みた。

「旦那だんなが眼めをおさましになったんです」とおたみは云いった、「そしておしのさんはどこにいるかって」

おしのは夢ゆめからさめでもしたように、ああと声こえをあげて立たちあがった。

喜兵衛きへえの枕許まくらもとには手代てだいの忠三ちゅうぞうがいて、喜兵衛きへえがなにか云いうのを、のり出だすような恰好かっこで聞きいていたが、おしのと入いれ替かわりに店みせのほうへ出でていった。喜兵衛きへえはおしのを見みると、安心あんしんしたように頷うなずき、そして眼めをつむった。おしのは坐すわって、気分きぶんはどうかと訊きいた。喜兵衛きへえは暫しばらく経たってから、力ちからのない低ひくい声こえで「大丈夫だいじょうぶだ」と云いった。

「心配しんぱいしなくてもいい、大丈夫だいじょうぶだ」と喜兵衛きへえは云いった、壁かべの向むこうから聞きこえて来くるような声こえであった、「同おなじことを云いうようだが、私わたくしは大丈夫だいじょうぶだ、こんなことで死しにはしない、参さん得とくさんにはわからないんだ」

「ごしょうよ、そんなに話はなしをしないで」

「これだけ云いっておきたいんだ」と喜兵衛きへえは眼めをつむったままで云いった、「私わたくしは夜よなかに倒たおれてからのことを、みんな知しっている、気きを失うしなったのはほんの僅わずかなまで、それからちょっと眠ねむったときのほかは、なにもかも知しっている、もうどんな名医めいいでもだめだと、参さん得とくさんの云いうのも聞きいていたんだ」

そして喜兵衛きへえは眼めをあき、娘むすめを見みて唇くちびるに微笑びしょうをうかべた。

「わかるだろう」と喜兵衛きへえは云いった、「私わたくしはまだ死しにはしない、ゆうべ吐はいたのは、残のこっていた悪わるい血ちだ、病気びょうきの根ねになっていた悪わるい血ちが、ゆうべできれいに出でてしまった、医者いしゃにはわからないが、私わたくしにはそれがよくわかるんだ、きょうほど、――」と云いって喜兵衛きへえはまた眼めをつむった、「この病気びょうきになってから、きょうほど気持きもちの軽かるくなったことはない、胸むねの中なかも洗あらったようにさっぱりしたよ」

「よかったわ、よかったわお父ちちつぁん」とおしのが云いった、「でも話はなしはもうそのくらいにして、少すこし眠ねむって下くださいな」

「ああ眠ねむろう」喜兵衛きへえは云いった、「私わたくしは眠ねむるから、おまえもつまらない心配しんぱいはしないでおくれ、――みんなが来きたようだね」

おしのは振ふり返かえった。すぐに襖ふすまがあいて、番頭ばんとう、手代てだいをはじめ店みせの者ものがぜんぶはいって来き、襖際ふすまぎわに並ならんで坐すわった。

「私わたくしがそう云いったんだ」と喜兵衛きへえが云いった、「おまえが挨拶あいさつをしておくれ」

おしのは向むき直なおった。

「明あけましておめでとうございます」と番頭ばんとうの嘉助かすけが両手りょうてを突ついて低頭ていとうした。他ほかの者ものも一斉いっせいに低頭ていとうし、嘉助かすけが続つづけた、「昨年さくねんちゅうはお世話せわになりました、今年ことしはお店みせもますます御ご繁昌はんじょう、私わたくし共どももまたどうぞよろしくお願ねがい申もうします」

そして他ほかの者ものが「おめでとうございます」と声こえをそろえて云いった。おしのは歯はをくいしばった。

「はい」とおしのは俯向うつむいて答こたえた、「おめでとう」それからようやくのことで続つづけた、「どうぞ今年ことしも、よろしくお頼たのみ申もうします」

店みせの者ものたちは逃にげるように去さった。

――おめでとう。

おしのはその姿勢しせいのまま、心こころの中なかでそう繰返くりかえした。

――明あけまして、おめでとう。

おしのは叫さけびだしたいような衝動しょうどうにおそわれ、それをこらえるために力ちから限かぎり手てを握にぎり緊しめた。喜兵衛きへえは太息といきをつき、これで元日がんじつらしくなった、と云いった。私わたくしは眠ねむるから、おまえは雑煮ぞうにを祝いわって、私わたくしの代かわりに年賀ねんがの客きゃくに会あっておくれ、悪わるいけれど親類しんるいの方ほうたちにも失礼しつれいするから、と喜兵衛きへえは云いった。

三み日かの夜半やはん――、およそ午前ごぜん一いち時じごろに、おしのは父ちちの呼よぶ声こえで眼めをさました。年末ねんまつからの疲つかれで性せいもなく眠ねむっていたらしい。父ちちの呼よぶ声こえが聞きこえているのに、なかなか眼めをさますことができなかった。喜兵衛きへえはあぶら汗あせをかき、は、は、と短みじかく力ちからのない呼吸こきゅうをしていた。おしのはぎょっとし、寝衣ねまきのままはね起おきたが、喜兵衛きへえはかすかに首くびを振ふった。

「そのまま、寝ねたままでいい」と喜兵衛きへえは云いった、「風邪かぜをひくといけないから、寝ねたままで聞きいておくれ、話はなしたいことがあるんだ」

おしのは頷うなずいたが、半纒はんてんをひっかけて起おき、父ちちの枕許まくらもとへすり寄よって、手拭てぬぐいで汗あせを拭ふいてやってから、薬湯やくとうを注そそごうかと訊きいた。なにも欲ほしくない、寒さむいから早はやく横よこにおなり、と喜兵衛きへえは云いった。おしのは云いわれるとおりにした。

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