手紙を読み終ると、清一は顔の筋をほぐし、手紙を袂に入れて立ちあがった。
「いよいよ大願成就だ」と彼は云った、「二千両の持参金付きを嫁に貰えば、大手を振って蔵前の家へ帰れる、おれもそろそろ身を固めてもいいころだからな」
「御祝言にはひとつわっと賑やかに」と米八が熱のない口ぶりで云った、「――へっ、若旦那てえ方はよっぽどいい星の下にお生れなすったんですな」
「私はこれで帰るよ」と清一は云った、「みんなには座敷を付けておくから、残ってゆっくりやってってくれ、私のこころ祝いにね」
「お供を呼びましょう」と菊弥が云った、「本郷へいらっしゃるんでしょ」
「本郷なんてやぼなところじゃあないさ、が、これはまだないしょないしょ」
みんなが立って、きまりきった世辞を云いながら、清一を送り出していった。米八と五人の芸妓たちはまもなく戻って来、どうしようか、と相談した。このまま飲むか、それとも引揚げるか、誰にもあとの座敷はないという。それなら気の合った同志で、このまま飲み続けよう、ということになった。
「いまの話が本当なら、勘定のほうの心配はありませんからね」と米八が云った、「ひとつ、このうちのおかみさんも呼びますか」
「だけれど本当かしら」と松次が云った、「なんだかあたし怖いような気がするわ」
菊弥が盃を取りながら笑った、「またおはこが始まった、あんたときたら障子に鳥影がさしても怖いんだから」
「そうじゃないわ、さっき小幾ちゃんが、あの辺には悪い鼬がいるって聞いたとき、あたしぞうっとそうけ立ったわ」
「悪い鼬じゃなくってよ、あの辺にもそんな気のきいた鼬がいるかって」
「いやーっ」松次が両手で耳を押えた、「ごしょうだから鼬だなんて云わないで、あたし鼬が立ちあがって手招きするとこを見ちゃったんだから」
みんなが笑いだし、初めて気楽に盃を交わしあった。暫くはとりとめのない話が続いたが、そのうちにまた、米八がひょいとまじめな顔になった。
「まったくだ」と米八が云った、「どうも話がどことなくへんだよ、十七やそこらのお嬢さんが、根岸の古梅庵へめしを喰べにゆくというのもおかしいし、瓦町の家を知ってるとすれば、若旦那がどんな人かということもわかっている筈だ、そうじゃありませんか、姐さん」
「あたしもそれを考えていたのよ」とおまさが頷いた、「男ぶりはいいけれど、もう年が年だしねえ、あのとおり底抜けの道楽者に、たいまいな持参金付きで、そんな大家の箱入り娘が自分から嫁にゆきたがるなんて、――話どおりだとすればあたりまえじゃあないと思うわ」
「あの人はさんざんあくどいことをしましたからね」と菊弥が云った、「もしかするとその娘というのは人間じゃあなく、怨霊のようなものかもしれないわ」
「いやいや」と松次が遮った、「お願いだからそんな話やめて」
「おや松次さん」とおまさが松次のうしろを指さした、「おまえさん背中になにを背負ってるのさ」
きゃあといって松次がとびあがった。
そのとき袖垣をまわって、下足番の老人が一人の男を案内して来た。男は三十がらみで、木綿縞の袷に半纒を重ね、尻端折りで、股引に麻裏をはいていた。彼は、「この座敷か」と老人に慥かめてから、縁先へあゆみ寄った。
「ちょっとあけてくれ」と男は呼びかけた、「須賀町の上総屋の者だ」
座敷の騒ぎがぴたっとやみ、米八が立って来て障子をあけた。
「知ってるだろうが、目明しの上総屋、おれは七造という者だ」と男は囁き声で云った、「香屋の清一という客がいるだろう」
「へっ」と米八はそこへ坐った、「若旦那はお帰りになりました」
「帰ったって、いつ帰った」
「ついさっきのことで」と米八が答えた、「使いの人が手紙を持って来まして、それを読むとすぐお帰りになりました」
七造という男は顔をひき緊めた、「その手紙は女からの呼出しじゃあなかったか」
「へえ、そのような話でございました」
「いった先は」と七造がたたみかけた、「ゆき先はわかっているか」
「いいえ、なにも仰しゃいませんでした」
「手紙はあるか」
米八は首を振った、「若旦那が持っていらっしゃいました」
七造はくるっと向き直った。米八が「御苦労さまです」と云うのをうしろに、七造は袖垣をまわって走りだした。
宵のくちでもあり、柳橋という土地柄で、街は灯が明るく、往来の人の中には座敷着姿の芸妓も見えるし、料理茶屋からは絃歌の声も聞えて来て、冬とは思えないほど、あたりはうきうきと賑わっていた。
青木千之助は柳橋の袂に立って、七造が走って来るのを認めた。
「清一はいたか」
七造は息をせきながら手を振り、ふところからずり落ちそうになった十手を、危なく押えて「いません」と云った。
「呼出しの手紙が来て、いましがた帰ったそうです」
「呼出しの手紙」と青木が云った、「しまった、一と足おくれたか」
「どうしましょう」
「おまえはもういい、おれは瓦町を覗いてみよう」
そして彼は走りだした。
――着替えに帰ったかもしれない。
瓦町は一と跨ぎである。女に逢いにゆくとすれば、着替えに寄るということも考えられる。いそげばまにあうかもしれない、彼はそう思って走った。
瓦町の家はさっき訪ねたばかりで、留守のばあやに茶屋を教えられたのであるが、駆け戻ってみると、清一は帰っていなかった。「いいえお帰りになりませんが」とばあやは不安そうに云った、「なにか若旦那に、間違いでもあったのでございますか」
「そうでなければいいと思うが」青木は太息をついた、「――もし帰って来たら、ちょっと須賀町の上総屋へ顔を出すように、いや、当人に咎はない、うっかりすると当人の命にかかわることなんだ、いいな」
「目明しの上総屋さんでございますね」
「そうだ、心配することはないから、必ず顔を出すようにと云ってくれ」
忘れないようにと念を押して、青木千之助はその家を出た。