← Library‹ 五瓣の椿 第四話 九

手紙てがみを読よみ終おわると、清一せいいちは顔かおの筋すじをほぐし、手紙てがみを袂たもとに入いれて立たちあがった。

「いよいよ大願だいがん成就じょうじゅだ」と彼かれは云いった、「二千にせん両りょうの持参じさん金きん付つきを嫁よめに貰もらえば、大手おおてを振ふって蔵前くらまえの家いえへ帰かえれる、おれもそろそろ身みを固かためてもいいころだからな」

「御ご祝言しゅうげんにはひとつわっと賑にぎやかに」と米べい八はちが熱ねつのない口くちぶりで云いった、「――へっ、若わか旦那だんなてえ方かたはよっぽどいい星ほしの下したにお生うまれなすったんですな」

「私わたくしはこれで帰かえるよ」と清一せいいちは云いった、「みんなには座敷ざしきを付つけておくから、残のこってゆっくりやってってくれ、私わたくしのこころ祝いわいにね」

「お供ともを呼よびましょう」と菊弥きくやが云いった、「本郷ほんごうへいらっしゃるんでしょ」

「本郷ほんごうなんてやぼなところじゃあないさ、が、これはまだないしょないしょ」

みんなが立たって、きまりきった世辞せじを云いいながら、清一せいいちを送おくり出だしていった。米べい八はちと五ご人にんの芸妓げいぎたちはまもなく戻もどって来き、どうしようか、と相談そうだんした。このまま飲のむか、それとも引揚ひきあげるか、誰だれにもあとの座敷ざしきはないという。それなら気きの合あった同志どうしで、このまま飲のみ続つづけよう、ということになった。

「いまの話はなしが本当ほんとうなら、勘定かんじょうのほうの心配しんぱいはありませんからね」と米べい八はちが云いった、「ひとつ、このうちのおかみさんも呼よびますか」

「だけれど本当ほんとうかしら」と松次まつじが云いった、「なんだかあたし怖こわいような気きがするわ」

菊弥きくやが盃さかずきを取とりながら笑わらった、「またおはこが始はじまった、あんたときたら障子しょうじに鳥影とりかげがさしても怖こわいんだから」

「そうじゃないわ、さっき小こ幾いくちゃんが、あの辺へんには悪わるい鼬いたちがいるって聞きいたとき、あたしぞうっとそうけ立たったわ」

「悪わるい鼬いたちじゃなくってよ、あの辺へんにもそんな気きのきいた鼬いたちがいるかって」

「いやーっ」松次まつじが両手りょうてで耳みみを押おさえた、「ごしょうだから鼬いたちだなんて云いわないで、あたし鼬いたちが立たちあがって手招てまねきするとこを見みちゃったんだから」

みんなが笑わらいだし、初はじめて気楽きらくに盃さかずきを交かわしあった。暫しばらくはとりとめのない話はなしが続つづいたが、そのうちにまた、米べい八はちがひょいとまじめな顔かおになった。

「まったくだ」と米べい八はちが云いった、「どうも話はなしがどことなくへんだよ、十じゅう七ななやそこらのお嬢じょうさんが、根岸ねぎしの古こ梅ばい庵あんへめしを喰たべにゆくというのもおかしいし、瓦町かわらまちの家いえを知しってるとすれば、若わか旦那だんながどんな人ひとかということもわかっている筈はずだ、そうじゃありませんか、姐ねえさん」

「あたしもそれを考かんがえていたのよ」とおまさが頷うなずいた、「男おとこぶりはいいけれど、もう年ねんが年ねんだしねえ、あのとおり底抜そこぬけの道楽どうらく者しゃに、たいまいな持参じさん金きん付つきで、そんな大家おおやの箱入はこいり娘むすめが自分じぶんから嫁よめにゆきたがるなんて、――話はなしどおりだとすればあたりまえじゃあないと思おもうわ」

「あの人ひとはさんざんあくどいことをしましたからね」と菊弥きくやが云いった、「もしかするとその娘むすめというのは人間にんげんじゃあなく、怨霊おんりょうのようなものかもしれないわ」

「いやいや」と松次まつじが遮さえぎった、「お願ねがいだからそんな話はなしやめて」

「おや松次まつじさん」とおまさが松次まつじのうしろを指ゆびさした、「おまえさん背中せなかになにを背負せおってるのさ」

きゃあといって松次まつじがとびあがった。

そのとき袖垣そでがきをまわって、下足げそく番ばんの老人ろうじんが一人ひとりの男おとこを案内あんないして来きた。男おとこは三十さんじゅうがらみで、木綿もめん縞しまの袷あわせに半纒はんてんを重かさね、尻しり端折はしょりで、股引ももひきに麻裏あさうらをはいていた。彼かれは、「この座敷ざしきか」と老人ろうじんに慥たしかめてから、縁先えんさきへあゆみ寄よった。

「ちょっとあけてくれ」と男おとこは呼よびかけた、「須賀すか町まちの上総かずさ屋やの者ものだ」

座敷ざしきの騒さわぎがぴたっとやみ、米べい八はちが立たって来きて障子しょうじをあけた。

「知しってるだろうが、目明めあかしの上総かずさ屋や、おれは七なな造つくりという者ものだ」と男おとこは囁ささやき声ごえで云いった、「香屋かやの清一せいいちという客きゃくがいるだろう」

「へっ」と米べい八はちはそこへ坐すわった、「若わか旦那だんなはお帰かえりになりました」

「帰かえったって、いつ帰かえった」

「ついさっきのことで」と米べい八はちが答こたえた、「使つかいの人ひとが手紙てがみを持もって来きまして、それを読よむとすぐお帰かえりになりました」

七なな造つくりという男おとこは顔かおをひき緊しめた、「その手紙てがみは女おんなからの呼出よびだしじゃあなかったか」

「へえ、そのような話はなしでございました」

「いった先さきは」と七なな造つくりがたたみかけた、「ゆき先さきはわかっているか」

「いいえ、なにも仰おっしゃいませんでした」

「手紙てがみはあるか」

米べい八はちは首くびを振ふった、「若わか旦那だんなが持もっていらっしゃいました」

七なな造つくりはくるっと向むき直なおった。米べい八はちが「御ご苦労くろうさまです」と云いうのをうしろに、七なな造つくりは袖垣そでがきをまわって走はしりだした。

宵よいのくちでもあり、柳橋やなぎばしという土地とち柄がらで、街まちは灯あかりが明あかるく、往来おうらいの人ひとの中なかには座敷ざしき着姿きすがたの芸妓げいぎも見みえるし、料理りょうり茶屋ちゃやからは絃歌げんかの声こえも聞きこえて来きて、冬ふゆとは思おもえないほど、あたりはうきうきと賑にぎわっていた。

青木あおき千之助せんのすけは柳橋やなぎばしの袂たもとに立たって、七なな造つくりが走はしって来くるのを認みとめた。

「清一せいいちはいたか」

七なな造つくりは息いきをせきながら手てを振ふり、ふところからずり落おちそうになった十手じってを、危あぶなく押おさえて「いません」と云いった。

「呼出よびだしの手紙てがみが来きて、いましがた帰かえったそうです」

「呼出よびだしの手紙てがみ」と青木あおきが云いった、「しまった、一いちと足あしおくれたか」

「どうしましょう」

「おまえはもういい、おれは瓦町かわらまちを覗のぞいてみよう」

そして彼かれは走はしりだした。

――着替きがえに帰かえったかもしれない。

瓦町かわらまちは一いちと跨またぎである。女おんなに逢あいにゆくとすれば、着替きがえに寄よるということも考かんがえられる。いそげばまにあうかもしれない、彼かれはそう思おもって走はしった。

瓦町かわらまちの家いえはさっき訪たずねたばかりで、留守るすのばあやに茶屋ちゃやを教おしえられたのであるが、駆かけ戻もどってみると、清一せいいちは帰かえっていなかった。「いいえお帰かえりになりませんが」とばあやは不安ふあんそうに云いった、「なにか若わか旦那だんなに、間違まちがいでもあったのでございますか」

「そうでなければいいと思おもうが」青木あおきは太息といきをついた、「――もし帰かえって来きたら、ちょっと須賀すか町まちの上総かずさ屋やへ顔かおを出だすように、いや、当人とうにんに咎とがはない、うっかりすると当人とうにんの命いのちにかかわることなんだ、いいな」

「目明めあかしの上総かずさ屋やさんでございますね」

「そうだ、心配しんぱいすることはないから、必かならず顔かおを出だすようにと云いってくれ」

忘わすれないようにと念ねんを押おして、青木あおき千之助せんのすけはその家いえを出でた。

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