八丁堀の組屋敷へ帰る途中、青木千之助はしきりに、後手を取った自分のふがいなさを責めた。
一昨日の晩、――彼は二人のあとを跟けたのである。七造でもよかったが、大事をとって自分で跟けていった。そして湯島横町の家へ、二人がはいるのを慥かめてから、近所の者にお倫のことを訊いた。
――温和しくって、きれいで、お人柄ないい娘さんですよ。
三軒で訊いたが、三軒とも同じように褒めていた。実家は下町で大きい商家らしい、茶の師匠の看板を出しているが弟子は取らない。躯が弱くて保養でもしているのか、小間使と二人ぐらしで、訪ねて来る客もなし、まして浮いたような噂もない。というように、お倫の云ったこととみな口が合っていた。
――では的が外れたか。
そう思ってそのまま帰った。
昨日は奉行所へ出頭した。吟味にかける盗賊があり、係の与力と打合せをするためで、そのあと夕方まで役所で事務をとった。そうして今日、北町奉行所に用があってでかけたが、帰りにふと思いだしたので、念のために石町へまわってみた。
伊勢屋という紙問屋はあった。あるじの名は喜兵衛、妻女は二年まえに亡くなっていたし、十七になる息子は政吉という。そこまでは合っていたが、肝心の娘のことが違っていた。伊勢屋の娘は名をおいせといい、日本橋槇町の吉野屋という、糸綿問屋へ嫁にいっている。もちろん現在も吉野屋にいるし、懐妊ちゅうで、来月が産み月だ、ということであった。
――お倫という女を知らないか。
青木千之助はそう訊いた。お倫の人柄や、現在の住居や、茶の師匠の看板を出していることなど、できるだけ詳しく訊いてみたが、伊勢屋は思い当る者はないと答えた。
――しかし、向うではこの家のことをよく知っているらしいから、娘さんの友達とか、近所の者でこれと思う娘がある筈だが。
――うちのおいせは引込み思案な子で、友達も二、三人しかいませんでしたし、近所にそれらしい娘がいたという覚えもないように思います。
――二、三人いたという友達はどうだ。
青木千之助はそう問い進めた。
――さようでございますな。
喜兵衛はちょっと考えてから答えた。
――二人はこの町内の娘で、一人は婿を取りましたし、一人はまだ家におります、もう一人、おいせといちばん仲の良かった娘がいましたが、それは今年の正月に亡くなってしまいました。
――死んだ、それはどこの娘だ。
本石町に「むさし屋」という薬種問屋がございますが、そこの一人娘で、名はおしのさんと云いました。
――むさし屋、むさし屋。
友達の二人は町内に住んでい、一人は死んだという。「むさし屋」という屋号になにか記憶があるようだったが、お倫を押えるほうが先だと思い、そのまま辻駕籠をひろって本郷へとばした。
だがお倫はもういなかった。隣りで聞くと、昨日の朝早く引越したという、「実家へ帰ることになった」と挨拶にまわったそうで、そのほかにゆき先を知っている者はなかった。
「勘のいい女だ、おそろしく勘がいい」と歩きながら彼は呟いた、「せめて香屋の伜をと思ったが、それさえ一と足違いで先を越された、ざまはないぞ」
彼は舌打ちをした。
――香屋の伜はやられるかもしれない。
無事に帰るかもしれないが、女が急に引越したのは危険を感じたからであろう。とすれば、つまり女が彼を覘っているとすれば、おそらく無事に帰るようなことはないだろうし、それを防ぐ方法もない。
「なにか手段があるか」と青木は自分に問いかけた、「一昨日の晩で懲りたうえに、これだけ勘のいい娘なら、おいそれと捉まるような場所を選ぶことはあるまい」
仮にまた料理茶屋へ呼びつけたとしても、この広い江戸市中ぜんたいに手を打つことは不可能である。
「一昨日の晩思いきって挙げればよかった」そう呟いて、彼はくっと首を振った、「ぐちはよせ、問題はこれからどうするかだ、香屋の道楽息子は諦めよう、どうしたらあの娘を押えることができるか」
彼の歩調はゆるくなり、堀に沿った片側町を、暫く黙って歩いていった。それから、江戸橋と思われる橋を渡ったとき、道傍によたか蕎麦が荷をおろして、釜下の火を煽ぎながら、湯を沸かしているのを見た。ちょっと見ただけで通り過ぎたが、一丁ばかりいってからふと立停り、じっと夜空を見あげた。
――むさし屋。
よたか蕎麦の行燈に「べんけい」と書いてあった。なにげなく見て通ったのだが、弁慶という字から連想がうかんだのであろう。彼はそのとき初めて、親子三人の焼死、という出来事を思いだした。
「亀戸のほうの寮で、両親と娘が焼け死んだ、慥かそんな事だったな」歩きだしながら彼は声に出して云った、「――うろ覚えだが、母親と娘は達者だった、父親は病気で危篤だったが、母と娘はまったく丈夫だった、それがどうしていっしょに焼け死んだか不審だと、云っているのを聞いた」
伊勢屋の娘ともっとも親しかったのは、そのむさし屋の娘だったという。――彼はいそぎ足になり、かいぞく橋の袂で辻駕籠をひろうと、八丁堀へいそがせた。
組屋敷へ帰ると、同心の井田十兵衛を呼んで、「むさし屋」親子の検屍をしたのは誰だったかしらべさせた。そして、定廻りの内村伊太夫だとわかると、すぐにその住居を訪ねていった。内村は酒を飲んでい、まず一と口つきあえとすすめたが、千之助は断わって用件を述べた。
「ああ、あれはよく覚えている」相当に酔ってはいたが、役目のことになるとさすがにしゃっきりとした、「――危篤の病人はともかく、丈夫な妻と娘が焼け死ぬというのはおかしいので、かなり念入りに調べてみた」
「死躰はどんなだった」
「すっかり焼けて、三人とも殆んど骨だけになっていた」と内村が云った、「医者にも立会わせたが、二躰は男と女、もう一躰は小柄で、骨の質が明らかに若い、それで娘のものだということにきまった」
「骨になるほど焼けることがあるだろうか」
「油のためだったと思う、現場はひどく油臭かったし、納戸に燈油がだいぶしまってあったようだ、しょうばいは薬種問屋だが、油屋も兼業していたからね」