寮にはおまさという女中がいたこと、母親が酒を飲んだこと、娘は長い看病疲れで、かなり弱っているようにみえた。と語っていたことなどを、内村伊太夫は記憶をたどりながら話した。
「どうしたんだ」と話し終ってから内村が訊き返した、「あの件でなにか不審なことでもあるのか」
「いや」と千之助はあいまいに云った、「べつの事でひょっと思いついたんだが、どうやら見当が違ったようだ」
邪魔をして済まなかったと云って、千之助はすぐに立ちあがった。
油があったにしても、一軒の火事ぐらいで三人が骨になるほど焼けるだろうか。まして母と娘は丈夫な躯であった。母親は酔い、娘は看病疲れで弱っていたにもせよ、――なにかそこにわけがありそうだ。油。一人は酔い、一人は疲れてい、他の一人は瀕死の病人。油がひどく燃えた。女中は夕方になってから急に暇が出て帰された。
「こんなふうに偶然の重なることは稀ではない」と千之助は呟いた、「しかし細工をしたということも考えられる、仮に細工をしたとすれば、誰が、どんな理由だったろう」
彼はその点に考えを集中した。
明くる日、青木千之助は「むさし屋」へ当ってみた。当主人は伊四郎といい、分家の亀屋伊兵衛の二男が養子にはいったものだが、店の雇人たちは殆んど変っていない。手代の徳次郎だけが暇を取って自分の店を出したということであった。千之助は番頭の嘉助から、手代、小僧にまでそれとなくさぐりを入れてみた。
だがなにも得たものはなかった。
死んだ主人と娘が、よほど店の者によくしたのだろう。かれらはみな二人を褒めちぎり、二人があんなふうに死んだことを、いまでも心から悲しみ嘆いていた。これに対して、主婦のおそのは好かれていなかったらしく、もちろん悪く云う者はなかったが、人の好さそうな番頭の嘉助でさえ、おそのについてはあまり話したがらなかった。
千之助は徳次郎の店を聞いてから、「むさし屋」を出た。
徳次郎の実家は荏原在にあり、十数代も続く大地主で、苗字帯刀をゆるされているという。彼はその二男であるが、自分の望みでむさし屋へ奉公にはいった。去年の秋、礼奉公も済んだので、今年は暖簾を分けてもらうことにきまっていたという。この五月に、下谷御徒町へ店を出したが、それには実家から多額な補助があった、ということであった。
――徳次郎に当ってみよう。
そう思って八丁堀へ帰ると、米沢作馬という同心が待ちかねていて、「また椿の花片です」と云った。千之助は口をあいた。
「殺しか」
「男が殺されて」と米沢が云った、「その枕許に赤い椿の花片が一枚」
「やっぱり、そうか」
「兇器は例の釵で心臓を一と突きだそうです」
「誰かいったか」と千之助はせきこんで訊いた、「場所はどこだ」
「場所は芝の露月町、大和屋という宿屋の二階だそうです」と米沢が答えた、「まだ、どなたもいってはいません、現場に手を付けないように、井田が見張りに当っています、青木さんのお帰りを待っていたんです」
「すぐゆこう、支度をしてくれ」
あの道楽息子め、と千之助は思った。
――きさま自分で招いたことだぞ。あのとき「許婚のような者だ」とか、「私が世話をしている」などと云った。こっちの話をよく聞いて、相手の素姓に疑いをもつだけ頭がはたらいたら、こんなことにはならなかったのだ。
――よっぽど惚れこんでいたんだな。
いい年をしてばかなやつだ。
彼は一人だけ先に、駕籠をとばせながらそう思った。三十四、五にもなり、道楽も相当して来たらしいのに、ばかなやつだと思い、同時に、彼を救えなかった自分の無能をも嘲笑した。あんな十七か八の小娘に扱われて、うろうろ駆けまわるなんて話にもならない。よっぽどのお笑いぐさだぜ、彼は自分を罵った。
大和屋は大きな構えの宿屋で、主人は仁左衛門といい、二人の町役と鳶の者などが彼を出迎えた。千之助は係の女中と、番頭や仁左衛門からざっと事情を聞いた。――事の始終はまえの二件と同様で、男が先に来、すぐに女が来て、酒と食事を注文した。女は小間使を伴れず、一人だったという。男は初めからかなり酔っていたが、そこでも一升ちかく飲み、食事には手を付けず、「泊ってゆく」と云うので、女中が寝る支度をした。
「それから、――半刻ばかり経ったでしょうか」と係の女中が云った、「酔いざめの水を忘れていたことに気がついたので、その支度をしてお座敷へゆきました、そっと声をかけましたが、もう寝ていらっしゃるだろうと思って、音のしないように障子をあけましたら、……女のお客さまがこっちへ向いて、長襦袢を着ていらっしゃるところで、あたしはっとして」
女中は恥ずかしそうに口ごもった。
女客はいま起きたところらしく、二布一枚で上半身はあらわだった。女中が声をかけたのも聞えなかったものか、吃驚して、美しい胸乳を隠したが、自分はこれから帰る、と声をひそめて云った。
「自分はうちが近いから帰るが、この人はわる酔いをしているし、あのとおりよく眠っているから、朝までそっと寝かしておいてくれ、と仰しゃいました」と女中は云った、「それから、お二人の勘定と多分なこころづけを頂きましたし、べつにおかしいようなふうもみえませんでしたので」
男が殺されているのをみつけたのは、午前十時すぎだと云った。
聞いているうちに、同心と書役が来たので、千之助は二階へあがっていった。現場は端にある八帖で、井田十兵衛が退屈そうに莨をふかしていた。――座敷のまん中に夜具が延べられ、頭のほうを枕屏風で囲ってある。死躰は香屋の清一で、掛け夜具が捲ってあり、はだかった胸の、左の乳の下に、平打の銀の釵が突き刺さっていた。
千之助はぞっとそうけ立った。
黄色みを帯びた蝋のような肌へ、深く、まっすぐに突き刺さっている銀の釵が、怨念と呪いの声をあげているように思えたのである。彼は眼をそらして枕許を見た。そこには血を落したかのように、椿の赤い花片が一枚、なにかを暗示するものの如く置かれてあった。
「こんな物がありました」と井田十兵衛が云った、「枕の下に覗いていたので、取り出してみたんですが」
それは巻いて折った手紙で、表に「青木さま」と書いてあった。自分の姓だからちょっとおどろき、彼は跼んだ恰好のままそれを披いた。読んでみると正しく彼に宛てたもので、次のようなことが書いてあった。
――先夜おめにかかった倫でございます、その節はあなたさまをお騙し申し、こんどまたお手数をかけます、さぞ憎い女とおぼしめすことでしょうが、これには深い仔細がございますし、また、わたくしに運がありましたら、あと二度だけお手数をかけることになると思います、それが済みましたら、あなたさまのところへ自首しにまいり、仔細をお話し申すつもりでございますが、いま一と言だけ申上げます、それは……この世には御定法では罰することのできない罪がある、ということでございます。倫。
千之助は唇をひき緊めた。
――法で罰することのできない罪。
彼はその一句を、ながいこと、息をひそめて見まもった。
「あと二人、――」と彼は独り言のように呟いた、「それを止める法はないか、……いったいこの男たちはなにをしたのだ、椿の花片はどういう意味だ」
井田十兵衛がきせるをはたき、その音で千之助はわれに返った。
「倉橋」と彼は手紙を巻きながら書役に云った、「見取り図を描いてくれ」