← Library‹ 五瓣の椿 第五話 一

「およねさんは盃さかずきも取とらないじゃないか」と源次郎げんじろうが云いった、「たまには一ひとつくらいつきあってもいいだろう」

「あたし酔ようとうるさいのよ」

「いいね、うるさいの結構けっこう」源次郎げんじろうは燗徳利かんどくりを持もった、「おまえが酔よってうるさくなったらさぞ色いろっぽいだろう、遠慮えんりょはいらないから一ひとつあげよう」

およねは羞はにかみ笑わらいをし、しなをつくって盃さかずきを取とったが、酌しゃくをされると、その盃さかずきを持もったまま眼めの隅すみで庭にわのほうを見み、すぐにまた源次郎げんじろうを見みた。――男おとこは日本橋にほんばしよろず町まちの袋物ふくろもの問屋とんや「丸まる梅うめ」の主人しゅじんで源次郎げんじろう。年としはちょうど四十よんじゅうだというが、ようすはずっと若わかく、多おおくつもっても三十さんじゅう五ご歳さいより上うえにはみえなかった。

「どうしようかしら」とおよねは云いった、「あなたは女おんなぐせが悪わるいという話はなしだし、まだ気きごころもよくわかっていないんですもの、酔よったあとが心配しんぱいだわね」

「気きごころが知しれないって、冗談じょうだんじゃない、それはこっちの云いうことだぜ」源次郎げんじろうは手酌てじゃくで飲のんだ、「初はじめて逢あったのが森田もりた座ざの夏芝居なつしばいだろう」

「秋あきですよ、七なな月がつだもの、それも、――女おんなのあたしからさそいかけるようになすったのよ、憎にくらしいと云いうよりもこわい方ほうだわ」

「冗談じょうだんじゃない、そいつはとんだ濡衣ぬれぎぬだ」と源次郎げんじろうは云いった、「私わたくしはおよねさんが桟敷さじきにいるのも知しらなかったよ、あのときは、そうさ、まえの晩ばんから友達ともだちと飲のみ続つづけで」

「芸妓げいぎ衆しゅうもいたでしょ」

「友達ともだちのいろさ」

「お友達ともだちのいい人ひとがあなたにしなだれかかるんですか」およねはまた庭にわのほうへ眼めをやったが、すぐ男おとこを見返みかえってにらんだ、「あんな見物けんぶつ人にんのたくさんいる桟敷さじきで、御簾みすもおろさずおおっぴらでいちゃいちゃしながら、あたしにまで罪つみな眼めつきをなさるんだもの、本当ほんとうにこわい方ほうよ、あなたは」

「そいつはまったくの濡衣ぬれぎぬだ、女中じょちゅうに呼よばれて茶屋ちゃやの座敷ざしきへゆくまで、私わたくしはおよねさんを見みた覚おぼえもないよ、だいいち」と云いって彼かれはまた手酌てじゃくで飲のんだ、「――だいいち、私わたくしをこわい男おとこだと思おもったのなら、茶屋ちゃやの座敷ざしきへ呼よび出だすことはないじゃないか」

「憎にくらしい方かたね」およねは溶とけるような媚こびのある眼めで男おとこを見みた、「世間せけんを知しっているひとならしらないけれど、あたしのように世間せけんもよく知しらず、男おとこの方ほうのことなんかなおさら知しらない者ものは、あなたのようなそぶりや、あんな眼めつきをされれば、もう自分じぶんで自分じぶんをどうしようもなくなってしまいますよ」

「覚おぼえがあるんだね」

「初はじめてだからのぼせあがってしまったんじゃありませんか、覚おぼえがあればこんな悪性あくしょうな方かたになんか惚ほれるもんですか」

「そらその調子ちょうしだ」と源次郎げんじろうが云いった、「その眼めもとや身みのこなし、言葉ことばの云いいまわしまで沢田さわだ屋やそっくりだし、沢田さわだ屋やよりいろけたっぷりだ、およねさんはよっぽど島村しまむら東蔵とうぞうがひいきか、さもなければいろごとで磨みがきあげたんだろう」

「ええ、あたし沢田さわだ屋やは好すきよ」

「そらまた変かわった」源次郎げんじろうは燗かん徳利とっくりを取とりあげたまま、感嘆かんたんしたような眼めでおよねを見みまもった、「そこがどうもおかしい、世間せけん知しらずのうぶなお嬢じょうさんにみえるかと思おもうと、いろごとの手てくだを知しり尽つくした人ひとのようにみえ、またひらりとお嬢じょうさんらしくなってしまう、初はじめて逢あってからもう百ひゃく幾十いくじゅう日にちになるし、こうして二人ふたりきりで出会であうのも七ななたびか八はちたびになるだろう、それでも私わたくしにはおよねさんという人ひとがわからない」

およねは微笑びしょうしながら首くびをかしげた。

「気きごころが知しれないと云いいたいのは私わたくしのほうだ」と云いうと、男おとこの眼めにしんけんな光ひかりがうかんだ、「およねさん、本当ほんとうのことを云いってくれ、おまえさんはどこの誰だれで、どうしてこんなに私わたくしをじらすんだ」

「いやだ、そんな顔かおをなすって」およねはあまえるように肩かたを揺ゆった、「それはあたしが云いうまで訊きかないでって、もうなんどもお願ねがいしたでしょ、あたしだってあなたのこと、なにも訊きかないじゃないの、――あたしはあなたが好すき、逢あってお顔かおが見みたいから逢あう、それでいいじゃありませんか」

「およねさんはそれでいいかもしれないが、私わたくしのほうはそれじゃあ済すまないよ」

「あらいやだ、初はじめからその約束やくそくだったじゃあありませんか」およねは上じょう半身はんしんをまっすぐにした、「それがそんなに御ご不満ふまんなら、これ限きりおめにかからないことにしますわ」

「もう私わたくしに飽あきたというわけか」

「いじ悪わるなことを仰おっしゃるからよ」とおよねは沈しずんだ声こえで云いった、「あたしあなたのおかみさんにしてくれと云いいもしないし、こうやって逢あうにしても、いちどだって御ご迷惑めいわくをかけたことはないでしょ、あたしのうちがたとえどんな金持かねもちにしても、娘むすめの身みでこんなことをするにはずいぶん苦労くろうしなければならない、それでもあなたに逢あうためならと思おもって、口くちでは云いえないような辛つらいおもいを」

「わかったわかった、勘弁かんべんしておくれ」源次郎げんじろうはうろたえたように遮さえぎった、「年としがいもないことを云いって私わたくしが悪わるかった、悪わるいところはあやまるが、しかしおまえにそんな苦労くろうさせることは、私わたくしだって男おとこだから辛つらいし、私わたくしにできることならなんでもするからって、これまで幾いくたびも云いっているじゃないか」

「私わたくしが苦労くろうするのは私わたくしの勝手かってですもの、そんなことあなたに心配しんぱいしていただかなくってもようございますわ」

「それを水臭みずくさいというんだ、その水臭みずくさい気持きもちが私わたくしにはたまらないんだよ、およねさん」と彼かれは坐すわり直なおしたような声こえで云いった、「たった一ひとつだけ訊きくが、おまえさんはただこうして逢あうだけでいいのかい」

およねはやわらかに眼めをそらした。

「およねさんも十じゅう二にや十じゅう三さんの小娘こむすめじゃあない、もし本当ほんとうに私わたくしが好すきで逢あっているなら、いつまでこんなままごとみたような逢あいかたをしていられるわけがない筈はずだ」と源次郎げんじろうは云いった、「――もしも、ただこんなことをしているだけで満足まんぞくだとしたら、私わたくしを好すきだというのは本当ほんとうじゃあないと思おもう」

「あなたにはおわかりにならないのよ」

「私わたくしとおまえは男おとこと女おんななんだよ」

「あなたはわからないのね」およねは聞ききとりにくいほど低ひくい声こえで囁ささやいた、「――御ご夫婦ふうふになれるわけじゃないんですもの、女おんなは男おとこの方ほうのように、そうあっさりふみきれるものじゃありませんわ」

「そんなふうに云いわれると一言ひとこともないけれど、男おとこにはこういう辛抱しんぼうほど苦くるしいことはないんだからね」

「あたしだって辛つらいわ」とおよねは囁ささやいた、「――本当ほんとうはあたし、今夜こんやは……」

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