「およねさんは盃も取らないじゃないか」と源次郎が云った、「たまには一つくらいつきあってもいいだろう」
「あたし酔うとうるさいのよ」
「いいね、うるさいの結構」源次郎は燗徳利を持った、「おまえが酔ってうるさくなったらさぞ色っぽいだろう、遠慮はいらないから一つあげよう」
およねは羞み笑いをし、しなをつくって盃を取ったが、酌をされると、その盃を持ったまま眼の隅で庭のほうを見、すぐにまた源次郎を見た。――男は日本橋よろず町の袋物問屋「丸梅」の主人で源次郎。年はちょうど四十だというが、ようすはずっと若く、多くつもっても三十五歳より上にはみえなかった。
「どうしようかしら」とおよねは云った、「あなたは女ぐせが悪いという話だし、まだ気ごころもよくわかっていないんですもの、酔ったあとが心配だわね」
「気ごころが知れないって、冗談じゃない、それはこっちの云うことだぜ」源次郎は手酌で飲んだ、「初めて逢ったのが森田座の夏芝居だろう」
「秋ですよ、七月だもの、それも、――女のあたしからさそいかけるようになすったのよ、憎らしいと云うよりもこわい方だわ」
「冗談じゃない、そいつはとんだ濡衣だ」と源次郎は云った、「私はおよねさんが桟敷にいるのも知らなかったよ、あのときは、そうさ、まえの晩から友達と飲み続けで」
「芸妓衆もいたでしょ」
「友達のいろさ」
「お友達のいい人があなたにしなだれかかるんですか」およねはまた庭のほうへ眼をやったが、すぐ男を見返ってにらんだ、「あんな見物人のたくさんいる桟敷で、御簾もおろさずおおっぴらでいちゃいちゃしながら、あたしにまで罪な眼つきをなさるんだもの、本当にこわい方よ、あなたは」
「そいつはまったくの濡衣だ、女中に呼ばれて茶屋の座敷へゆくまで、私はおよねさんを見た覚えもないよ、だいいち」と云って彼はまた手酌で飲んだ、「――だいいち、私をこわい男だと思ったのなら、茶屋の座敷へ呼び出すことはないじゃないか」
「憎らしい方ね」およねは溶けるような媚のある眼で男を見た、「世間を知っているひとならしらないけれど、あたしのように世間もよく知らず、男の方のことなんかなおさら知らない者は、あなたのようなそぶりや、あんな眼つきをされれば、もう自分で自分をどうしようもなくなってしまいますよ」
「覚えがあるんだね」
「初めてだからのぼせあがってしまったんじゃありませんか、覚えがあればこんな悪性な方になんか惚れるもんですか」
「そらその調子だ」と源次郎が云った、「その眼もとや身のこなし、言葉の云いまわしまで沢田屋そっくりだし、沢田屋よりいろけたっぷりだ、およねさんはよっぽど島村東蔵がひいきか、さもなければいろごとで磨きあげたんだろう」
「ええ、あたし沢田屋は好きよ」
「そらまた変った」源次郎は燗徳利を取りあげたまま、感嘆したような眼でおよねを見まもった、「そこがどうもおかしい、世間知らずのうぶなお嬢さんにみえるかと思うと、いろごとの手くだを知り尽した人のようにみえ、またひらりとお嬢さんらしくなってしまう、初めて逢ってからもう百幾十日になるし、こうして二人きりで出会うのも七たびか八たびになるだろう、それでも私にはおよねさんという人がわからない」
およねは微笑しながら首をかしげた。
「気ごころが知れないと云いたいのは私のほうだ」と云うと、男の眼にしんけんな光がうかんだ、「およねさん、本当のことを云ってくれ、おまえさんはどこの誰で、どうしてこんなに私をじらすんだ」
「いやだ、そんな顔をなすって」およねはあまえるように肩を揺った、「それはあたしが云うまで訊かないでって、もうなんどもお願いしたでしょ、あたしだってあなたのこと、なにも訊かないじゃないの、――あたしはあなたが好き、逢ってお顔が見たいから逢う、それでいいじゃありませんか」
「およねさんはそれでいいかもしれないが、私のほうはそれじゃあ済まないよ」
「あらいやだ、初めからその約束だったじゃあありませんか」およねは上半身をまっすぐにした、「それがそんなに御不満なら、これ限りおめにかからないことにしますわ」
「もう私に飽きたというわけか」
「いじ悪なことを仰しゃるからよ」とおよねは沈んだ声で云った、「あたしあなたのおかみさんにしてくれと云いもしないし、こうやって逢うにしても、いちどだって御迷惑をかけたことはないでしょ、あたしのうちがたとえどんな金持にしても、娘の身でこんなことをするにはずいぶん苦労しなければならない、それでもあなたに逢うためならと思って、口では云えないような辛いおもいを」
「わかったわかった、勘弁しておくれ」源次郎はうろたえたように遮った、「年がいもないことを云って私が悪かった、悪いところはあやまるが、しかしおまえにそんな苦労させることは、私だって男だから辛いし、私にできることならなんでもするからって、これまで幾たびも云っているじゃないか」
「私が苦労するのは私の勝手ですもの、そんなことあなたに心配していただかなくってもようございますわ」
「それを水臭いというんだ、その水臭い気持が私にはたまらないんだよ、およねさん」と彼は坐り直したような声で云った、「たった一つだけ訊くが、おまえさんはただこうして逢うだけでいいのかい」
およねはやわらかに眼をそらした。
「およねさんも十二や十三の小娘じゃあない、もし本当に私が好きで逢っているなら、いつまでこんなままごとみたような逢いかたをしていられるわけがない筈だ」と源次郎は云った、「――もしも、ただこんなことをしているだけで満足だとしたら、私を好きだというのは本当じゃあないと思う」
「あなたにはおわかりにならないのよ」
「私とおまえは男と女なんだよ」
「あなたはわからないのね」およねは聞きとりにくいほど低い声で囁いた、「――御夫婦になれるわけじゃないんですもの、女は男の方のように、そうあっさりふみきれるものじゃありませんわ」
「そんなふうに云われると一言もないけれど、男にはこういう辛抱ほど苦しいことはないんだからね」
「あたしだって辛いわ」とおよねは囁いた、「――本当はあたし、今夜は……」