← Library‹ 五瓣の椿 第五話 二

襖ふすまの向むこうで声こえがした。およねは云いいかけた言葉ことばを切きって「はい」と返辞へんじをした。襖ふすまをあけて、若わかい女中じょちゅうが顔かおを見みせ、廊下ろうかに坐すわったままで云いった。

「こちらさまは丸まる梅うめの御ご主人しゅじんでいらっしゃいましょうか」

「ええそうよ」およねは源次郎げんじろうが制止せいしするより早はやく答こたえた、「それがどうかしたの」

「いまあの、たずねてみえた方ほうがあるんですけれど」

「お客きゃくさまなの」

「それが、あの」女中じょちゅうはちょっと口くちごもった、「小ちいさなお子こを二人ふたり伴つれた女おんなの方ほうで、お名前なまえはつるさんとか仰おっしゃいましたが、ちょっとでいいから御ご主人しゅじんに会あいたいといって」

「だめだめ、いけないよ」源次郎げんじろうはいそいで手てを振ふった、「そんなことを取とり次つぐやつがあるものか、いないって云いうんだいないって」

「でもあとを跟つけて来きて、おはいりになるところを見みたと仰おっしゃるもんですから」

「待またしておいてちょうだい」およねが云いった、「ええ、いまいきますからってね」

女中じょちゅうは襖ふすまを閉しめて去さった。

「冗談じょうだんじゃない、どうするつもりだ」と源次郎げんじろうは狼狽ろうばいした、「私わたくしはそんな者ものには会かいやあしないよ」

「会あうのはあたしが会あいます」とおよねは云いった、「小ちいさな子こを二人ふたりも伴つれ、あなたのあとを跟つけて来きたとすれば、きっとあなたのために泣なかされている人ひとでしょ、――おつるさんですって、いったいどういう人ひとですの」

「困こまったな」彼かれは眉まゆをしかめたが、困こまっているというより、むしろ自慢じまんしているような、おろかな表情ひょうじょうが認みとめられた、「へんなときにへんなことがばれて面目めんぼくないが、泣なかせるとか泣なかせないとか、そんな色いろっぽい話はなしじゃあない、よろず町まちの店みせで使つかっていた女中じょちゅうなんだよ」

「まあ、いいお好このみだこと」

「魔まがさしたのさ、酔よっていてなにも知しらなかった」と彼かれは云いった、「ちょうど女房にょうぼうが湯治とうじにいった留守るすで、酔よいざめの水みずを持もって来きさせたんだが、おつるのほうがその気きでいたらしい、私わたくしにはこれっぽちもそんなつもりはなかったんだ」

「それで二人ふたりも子こをお産うませになったの」とおよねはやさしく睨にらんだ、「口くちは調法ちょうほうなものだというけれど、悪わるい方ほうよ、あなたは」

「いや本当ほんとうに魔まがさしたんだ、女おんなひでりがしているわけじゃあなし、誰だれがすき好このんで女中じょちゅうなんかに手てを出だすものかさ」

「高麗屋こうらいや、――というところね」と云いっておよねは立たちあがった。

「どうするんだ」と源次郎げんじろうが云いった、「会あう必要ひつようなんかありゃあしない、うっちゃっとけばいいんだよ」

「あたしの気きが咎とがめるんだもの、そうはいかなくってよ」およねは男おとこの自尊じそん心しんを煽あおるように云いった、「あたしがその人ひとからあなたを横取よこどりするようなものですもの、その償つぐないぐらいしなければ冥利みょうりが悪わるいわ」

およねは違棚ちがいだなの隅すみに置おいた、小ちいさな袱紗ふくさ包つつみを持もって、そっと廊下ろうかへ出でていった。

それから約やく四半刻はんとき、――酒さけがなくなったので手てを叩たたくと、年増としまの女中じょちゅうが燗かん徳利とっくりを二に本ほん、盆ぼんにのせて持もって来き、お伴つれさまはお帰かえりになりました、と云いった。

「帰かえったって、本当ほんとうか」

「はい、うちの都合つごうがあるからお先さきに失礼しつれいしますって」女中じょちゅうは酌しゃくをしに坐すわりながら、源次郎げんじろうを打うつようなまねをした、「お勘定かんじょうも済すませたし、旦那だんながもっと召めし上あがるかもしれないからって、わたしたちへお心付こころづけのほかに、余分よぶんのものまで置おいていらっしゃいましたよ」

「またか」と彼かれは舌打したうちをした、「ゆだん大敵たいてきだな」

「あんなおきれいな若わかいお嬢じょうさまに」と女中じょちゅうは酌しゃくをしながら云いった、「こんなにまでされるなんて旦那だんなもよっぽどの腕うででいらっしゃるのね」

「一ひとついこう」彼かれは女中じょちゅうに盃さかずきをやった、「おまえさんなんていうんだい」

「おさだと申もうします、どうぞごひいきに」

「いまの話はなしの、あの」と彼かれは顎あごをしゃくった、「あの娘むすめは、このうちの馴染なじみなのか」

「いやですよそんな」女中じょちゅうは盃さかずきを返かえし、片手かたてでまた打うつまねをし、片手かたてで酌しゃくをしながら云いった、「知しってらっしゃるくせになんですか、そんなしらじらしいことを仰おっしゃって」

「いや、私わたくしはこのうちは知しらないんだ、私わたくしは初はじめて来きたんだから」

「そんならあの方ほうだって初はじめてじゃありませんか、それとも旦那だんなのほかに、こんなところで浮気うわきをなさるような」

源次郎げんじろうは手てを振ふって遮さえぎった、「そうじゃない、そんなことじゃない、ただこのうちは馴染なじみかどうかと訊きいただけで、初はじめてなら初はじめてでいいんだよ」

「たんとお聞きかせなさいまし、あたしいただくから」女中じょちゅうは膳ぜんの上うえから勝手かってに盃さかずきを取とった、「憚はばかりさま、お酌しゃくをして下くださいな」

源次郎げんじろうは浮うかない顔かおで徳利とっくりを持もった。

その家いえは日本橋にほんばしばくろ町まちの「伊賀いが正ただし」といって、旅館りょかんと料理りょうり茶屋ちゃやを兼かねていたが、その家いえを小伝馬町こでんまちょうのほうへゆき、堀ほりの手前てまえを左ひだりへ曲まがったところに、二に階かい造つくりで藪蕎麦やぶそばがあった。――その二に階かいの小こ部屋へやで、およねがおつるという女おんなと話はなしていた。五いつつになる女おんなの子こは、卵たまごとじの丼どんぶりをかかえ、しきりに汁しるをはねかしながら、蕎麦そばを喰たべるのに熱中ねっちゅうしてい、年ねんが明あけると二に歳さいになるという下したの女おんなの子こは、母親ははおやに抱いだかれて乳ちちを咥くわえていた。

ここへ来きてからもう一刻いっこくちかく経たつ。おつるは絶たえず眼めを拭ふきながら、少すこし訛なまりのある言葉ことばつきで、源次郎げんじろうとのゆくたてを語かたり続つづけていた。

「わたしもばかだったんです」おつるは鼻はなの詰つまった声こえで云いった、「でもどうしてでしょう、こんなときになると女おんなは、みんな同おなじようなことを云いいますわね、しょせんあたしがばかだったって、……おかしなものですよね」

おつるはそのとき十じゅう五ご歳さいだったという。常陸ひたちのくにのなんとかいう山里やまざとから奉公ほうこうに来きて、半年はんとしと経たたないうちに、女中じょちゅう部屋へやへ忍しのびこまれた。その部屋へやにはほかに三さん人にん、飯炊めしたきの女おんなと下女げじょと、小間こま使しが寝ねていた。騒さわげば難なんはのがれたであろうのに、その三さん人にんに気きづかれては大変たいへんなことになる、という気きがして、声こえも出でなかったし暴あばれもしなかった。

田舎いなかで十じゅう五ごまで育そだったのだから、情事じょうじについてはかなり詳くわしく知しっていた。もちろん見みたり聞きいたりしただけで、具体ぐたい的てきな経験けいけんもなし、躯むくろもまだ女おんなにはなっていなかったが、これがあのことだと思おもい、幸こう不幸ふこうの分わかれめだと思おもった。

――田舎いなかではそうなのだ。

一いち度どでもそういうことがあれば、二人ふたりは夫婦ふうふになるときまっていたし、男おとこにその気きがなくって、いたずらにされたのだとすると、女おんなは泣なかなければならないのだ。

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%