常陸は気の強いおくにぶりだという。そうばかりともいえないが、おつるは気の強いほうであった。源次郎には妻もあり三人の子もある。「丸梅」の店は繁昌しているし、勝手もとも裕福である。これでは主婦になる望みなどとうていないし、黙っていれば慰みものになるだけであろう。そう思ったので、源次郎に今後の身の保証を求めた。
――ああいいとも、私もそのつもりだ。
源次郎はそう云った。いますぐといってもおまえは年が若すぎる、二、三年もしたら家を持たせ、袋物の店を出してやろう。私は女房よりおまえのほうがすきだから、そうなったらこっちは店の者に任せ、おまえといっしょにくらすことにする、そう約束をしてくれた。それは嘘ではなかった。十七の年にみごもると、堀江三丁目の横丁に家を借り、ばあやを一人雇って気楽にくらすようになった。
一年あまりは手当も充分にあり、着物や頭の物なども買ってくれたが、そのうちにだんだん足が遠くなり、手当も減るばかりで、去年の秋、二番めの子をみごもったときは、おれの子ではない、などと云いだした。おれは月に一度か二た月に一度ぐらいしか来ない。そのあいだおまえがなにをしていたか、こっちにはちゃんとわかっている。その子の親はほかにある、とはっきり云った。
「それを聞いたときわたし、気が遠くなりそうでした」とおつるは云った、「そのときはもうくらしが苦しいので、ばあやには暇を出したあとなんですけど、ことによるとばあやがなにか根もない告げ口でもしたんでしょうか、こっちには証人がいるんだという口ぶりでした」
およねはそっと頷いてみせた。
「それっきりよりつかなくなり、僅かずつでも届いていた手当さえ、一文も来なくなったんです」おつるは機械的に眼を拭いた、「それでなくとも手内職をしなければやってゆけなかったのに、身重になって手当が一文も来ないんですから、どうにもしようがありません、その家をたたんで、同じ二丁目の裏店へ引越しました」
それから出産まで、出産してから今日まで、買って貰った着物や帯や、頭の道具などを売って、内職の足しにしながらどうやら凌いで来た。けれども源次郎の気の変る望みもないし、このままでは親子三人が飢え死にするかもしれないので、いっそ常陸の田舎へ帰ろうと思った。
「まだ二た親がいますからね、まさか追い帰しもしないでしょうけれど」とおつるは続けた、「こんな小さなのを二人も伴れてゆくんですから、兄よめの手前もまさか手ぶらじゃあ帰れません、それで思いきって丸梅の店へ訪ねてゆきました」
蕎麦を喰べ終った子が、母親のところへ寄って来てぐずりだした。もっとなにか喰べるのだという、およねは小銭を出して与え、もう夜だからそれでがまんをし、明日になったらすきな物を買ってお喰べなさい、となだめた。
「だめなことはわかってました」おつるは礼を述べてから続けた、「旦那は留守だといい、おかみさんが出て来て、わたしのことを犬畜生のように云うんです」
むろん一言もない、相手にすれば亭主を寝取られたのだ。どんなに憎んでも憎みたりないであろう、おつるはなにも云わずに帰って来た。そのときたった一度「死んでしまおうか」と思ったということだ。
「そんなことを考えたのはそのとき一度だけで、すぐに、いやなこったと思い直しました」とおつるは云った、「ちゃんとした夫婦でいて亭主に先だたれ、二人も、三人もの子をかかえてやってゆく人が世間には幾らもいる、なにくそ死んでたまるものかって思いました」
それから源次郎を外で捉まえようとし、暇をみては店から出て来るのを見張っていた。三度ばかり捉まえたが、力ずくで突き放されてしまったので、今夜は他人のいる前で話をつけようと思い、ばくろ町まで跟けていった、ということであった。
「たいへんだったわねえ」およねは溜息をついて云った、「――でもあなたの云うとおりよ、あんな人にみれんを持っていたら、それこそ一生をめちゃめちゃにされてしまうわ、女だって自分の産んだ子の一人や二人そだてられないことはない、田舎へ帰って立派にそだてあげて、そういう人でなしを見返してやるがいいわ」
そしておよねは袱紗包みをあけ、金二十両と、小粒で二両を合わせ、紙に包んでさしだした。おつるはあっけにとられて見ていたが、自分の前にさしだされたので、首を振りながらしりごみをした。
「これでは足りないけれど、手土産くらいは買ってゆけるでしょう」とおよねは云った、「これを持って一日も早く田舎へお帰りなさい、ちっとも遠慮することはないのよ」
「どういうわけですか」おつるは訝しげにおよねを見た、「こんなたいまいなお金を、見ず知らずのあたしにどうして下さるんですか」
「あたしも女だからよ、女同士であんたの苦労がよくわかるし、このお金はあたしには要らないからよ」
「あなたはあたしを」
「いいえなにも云わないで」およねは袱紗をたたみながらかぶりを振った、「いまは意地にこだわったりみえを張ったりするときじゃないわ、それは当然あなたが受取っていいお金よ、お子たちのためにもすなおに取ってちょうだい、わかるわね」
おつるは頭を垂れ、「済みません」と云って、すぐに眼をあげた、「――でもいったい、あなたはどなたでしょう、お名前だけでも聞かせて下さいませんか」
「道ばたですれちがっただけの者よ」
「でもそれではわたしの気が済みませんもの」
「いいわ」とおよねは立ちあがりながら云った、「もしあたしのことを思いだすようなことがあったら、今日を命日だと思って、線香の半分でもあげてちょうだい、それだけで充分よ」
「まあ、そんな」おつるは眼をみはった、「なにを仰しゃるんですか、まあ」
「冗談よ、かんにんしてちょうだい」およねは二人の子供の顔に触りながら云った、「――田舎のおじいさまやおばあさまのところへ帰るのよ、丈夫な、いい子になって、お母ちゃんに孝行なさいね」そしておよねはその座敷を出た。