← Library‹ 五瓣の椿 第五話 四

ばくろ町まちから帰かえった夜よる、おしのは風邪かぜをひいたらしく、夜半やはんから急きゅうに高熱こうねつが出でて、まる五いつ日かのあいだ寝ねこんでしまった。

こんどの家いえは道灌山どうかんやまの下もとで、大おおきな植木うえき屋やの隠居いんきょ所しょであった。それは、佐吉さきちが捜さがしたもので、おしのは京橋きょうばしの呉服ごふく屋やの娘むすめ、病後びょうごの保養ほようにといって借かり、佐吉さきちは店みせのかよい番頭ばんとうということにしてあった。

佐吉さきちを桝屋ますやから抜ぬいたのはおしのである。毎月まいつき一両いちりょうという手当てあてで縛しばり、いまでは根岸ねぎしに住すんでいて、十とお日かに一いち度どずつおしのを「みまい」といって訪たずねて来くる。彼かれはおしのにとってなくてはならない人間にんげんであった。佐吉さきちは母ははの情事じょうじをとりもって来きた男おとこで、母ははの相手あいてを捜さがすにも、また必要ひつようなことをしらべるにも、彼かれの過去かこや性質せいしつはうってつけであったし、また彼かれ自身じしん、おしのに支払しはらわなければならないものを持もっていた。

風邪かぜで寝ねているあいだ、おしのは「丸まる梅うめ」の源次郎げんじろうのことを思おもった。

――なんという悪わるい人ひとだろう。

十じゅう五ごにしかならない、田舎いなかの小娘こむすめに手てを出だし、子供こどもを二人ふたりも産うませておいて放ほうり出だす。しかも子供こどもの一人ひとりを「自分じぶんの子こではない」と難なんくせをつけた。おそらく、暇ひまを出だされたばあやというのをだきこんだのだろう、証人しょうにんまである、と云いうに至いたっては下したの下しただ。

「そんなことができるものだろうか」寝床ねどこの中なかでおしのは自分じぶんに問といかけた、「いくら悪わるいといったって、人間にんげんにそんな非道ひどうなことができるものだろうか」

おつるの一方いっぽう口くちだけ信しんじては、誤あやまりではないだろうか。おしのは気きをしずめるようにそう反問はんもんした。けれどもすぐに、「否いや」と、枕まくらの上うえで首くびを振ふった。

「あの人ひとはそういう人ひとだ」とおしのは声こえをひそめて呟つぶやいた、「あの人ひともおっ母ははさんもそういうことのできる人ひとだ、おっ母ははさんが亡なくなったお父ちちつぁんにしたことも、人間にんげんにできるようなことではなかった、二人ふたりはよく似にている、無情むじょうで非道ひどうなことを平気へいきでやれるところは、二人ふたりともそっくりだ」

そして自分じぶんは二人ふたりの子こだ、自分じぶんのこの躯からだには、あの二人ふたりの血ちがながれているのだ。

「ああ」おしのは絶叫ぜっきょうした、「ああ」

小間こま使しのまさがとんで来きたとき、おしのは両手りょうてで胸むねを掻かきむしり、けもののような声こえで呻うめきながら、夜具やぐの中なかで身みもだえをしていた。まさは下働したばたらきのお吉きちばあさんを医者いしゃへ走はしらせ、おしのをしずめようと手てを尽つくしたが、そのうちおしのは激はげしく咳せきこみ、絶息ぜっそくするかと思おもわれたとき喀血かっけつした。二に度ど、三さん度ど、口くちからほとばしり出でた血ちが、夜具やぐから畳たたみの上うえまで飛とび散ちるのを見みて、まさのほうが気きを失うしないそうになった。

――お父ちちつぁんと同おなじ病気びょうきになった。

自分じぶんの吐はいた血ちの色いろを見みて、おしのはそう思おもいながら、失神しっしんしそうになるのを、けんめいにこらえた。

――お父ちちつぁんが迎むかえに来きたのだ、これはお父ちちつぁんが、あたしのゆくのを待まっているという証拠しょうこだ。

医者いしゃは正直しょうじきなことは云いわなかった。風邪かぜがこじれて喉のどに傷きずが出来でき、それが咳せきのためにやぶれて出血しゅっけつしたのだ。というような、苦くるしいごまかしを云いい、それにしても厳重げんじゅうすぎる養生ようじょう法ほうを繰返くりかえし念ねんを押おしていった。

「もうすぐよ、お父ちちつぁん」とおしのは夢ゆめうつつのうちに囁ささやいた、「もうすぐだから待まっててね」

だが、母ははと源次郎げんじろうの幻像げんぞうはなかなかはなれず、それからさらに二ふた日か、おしのは母ははを呪のろい源次郎げんじろうを呪のろい、自分じぶんの躯むくろにながれている血ちを呪のろって、もだえ続つづけた。

このあいだに佐吉さきちがみまいに来きたが、医者いしゃにとめられているので、まさが断ことわりを云いい、おしのには会あわずに帰かえったという。なにか大事だいじな話はなしがあると云いっていたそうであるが、彼かれは次つぎの十とお日かめを待またずに、また訪たずねて来きて、「どうしても会あわなければならない」と云いい張はった。

おしのは起おきて彼かれと会あった。その二に、三み日かは固粥かたがゆや卵たまごや、叩たたいた鳥とりの少量しょうりょうなども喰たべるようになったし、病気びょうきを恐おそれる気持きもちはまったくなかった。残のこった二人ふたりの始末しまつをすれば、いつ死しんでもいい躯むくろである。

――いいえ、とおしのは思おもった。いいえそうではない、自首じしゅして出でてお裁さばきを受うけ、事実じじつをすっかり申上もうしあげなければならない、それまでは生いきているのだ。

はいって来きた佐吉さきちは怯おびえていた。少すくなくともおしのには、彼かれが怯おびえていて、それをけんめいに隠かくそうとしているのが感かんじられた。

「聞きかれると困こまるんだが」と佐吉さきちは坐すわるとすぐに云いった、「おまさちゃんを使つかいにでもやってもらえませんか」

「あの子こは大丈夫だいじょうぶよ、わかってるじゃないの」とおしのは答こたえた、「それにあの子こは立たち聞ぎきなんかしやあしないわ」

「じゃあ云いっちまいましょう」佐吉さきちはもう一いちと膝ひざ前まえへ出でて声こえをひそめた、「八丁堀はっちょうぼりの青木あおきという与力よりきを知しってますか」

おしのは頷うなずいた。

「あの男おとこが勘かんづいたようですぜ」

「勘かんづいたって、なにを」

「墓はかを掘ほり返かえして骨ほねをしらべたそうです」

「なんのことよ、それ」

おまさが茶ちゃと菓子かしを持もって来き、そのまま去さった。佐吉さきちは茶ちゃを啜すすったが慌あわてているために舌したをやいて、顔かおをしかめた。

「正月しょうがつの火事かじに疑うたがいを持もったらしい」佐吉さきちは唇くちびるを舐なめて云いった、「旦那だんなは死しにかかってる病人びょうにんだし、おかみさんが潰つぶれるほど酔よっていたことは、寮りょうのおまさという女中じょちゅうが知しっていた、けれどもおまえさんはそうじゃあなかった、おかみさんの相手あいてをしたにしても、火事かじになって動うごけないほど酔よっている筈はずはない、ことによるとおまえさんは殺ころされたうえ、火ひをつけて焼やかれたんじゃあねえか、――こう考かんがえたそうです」

おしのは息いきを止とめた。

「それで浅草あさくさの浄きよし念ねん寺じへ、蘭方らんぽうの医者いしゃとかってのを伴つれてゆき墓はかを掘ほり起おこして骨ほねをしらべたっていうわけです」

「ちょっと待まって」おしのは遮さえぎって、眼めをつむり、暫しばらくなにか考かんがえていたが、「いいわ」とやがて云いった、「あんた神田かんだ川かわの船ふね市しを知しっているわね」

「船宿ふなやどですね、ええ知しってます」

「これからあそこへいっていてちょうだい」

「どうするんです」

「あたしもあとからすぐいくわ」とおしのは云いった、「いってから詳くわしい話はなしを聞ききましょう、相談そうだんしなければならないこともあるのよ」

「だって病気びょうきに障さわりゃあしませんか」

「たかが風邪かぜをこじらせただけじゃないの」おしのは枕まくらの下したから紙入かみいれを出だし、なにがしか包つつんで佐吉さきちに与あたえた、

「あのうちに弥太やたっていう船頭せんどうがいるから、屋形船やかたぶねの支度したくをさせておいてちょうだい、お酒さけや肴さかなも忘わすれないように頼たのんでよ」

佐吉さきちは承知しょうちして立たちあがった。

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