ばくろ町から帰った夜、おしのは風邪をひいたらしく、夜半から急に高熱が出て、まる五日のあいだ寝こんでしまった。
こんどの家は道灌山の下で、大きな植木屋の隠居所であった。それは、佐吉が捜したもので、おしのは京橋の呉服屋の娘、病後の保養にといって借り、佐吉は店のかよい番頭ということにしてあった。
佐吉を桝屋から抜いたのはおしのである。毎月一両という手当で縛り、いまでは根岸に住んでいて、十日に一度ずつおしのを「みまい」といって訪ねて来る。彼はおしのにとってなくてはならない人間であった。佐吉は母の情事をとりもって来た男で、母の相手を捜すにも、また必要なことをしらべるにも、彼の過去や性質はうってつけであったし、また彼自身、おしのに支払わなければならないものを持っていた。
風邪で寝ているあいだ、おしのは「丸梅」の源次郎のことを思った。
――なんという悪い人だろう。
十五にしかならない、田舎の小娘に手を出し、子供を二人も産ませておいて放り出す。しかも子供の一人を「自分の子ではない」と難くせをつけた。おそらく、暇を出されたばあやというのをだきこんだのだろう、証人まである、と云うに至っては下の下だ。
「そんなことができるものだろうか」寝床の中でおしのは自分に問いかけた、「いくら悪いといったって、人間にそんな非道なことができるものだろうか」
おつるの一方口だけ信じては、誤りではないだろうか。おしのは気をしずめるようにそう反問した。けれどもすぐに、「否」と、枕の上で首を振った。
「あの人はそういう人だ」とおしのは声をひそめて呟いた、「あの人もおっ母さんもそういうことのできる人だ、おっ母さんが亡くなったお父つぁんにしたことも、人間にできるようなことではなかった、二人はよく似ている、無情で非道なことを平気でやれるところは、二人ともそっくりだ」
そして自分は二人の子だ、自分のこの躯には、あの二人の血がながれているのだ。
「ああ」おしのは絶叫した、「ああ」
小間使のまさがとんで来たとき、おしのは両手で胸を掻きむしり、けもののような声で呻きながら、夜具の中で身もだえをしていた。まさは下働きのお吉ばあさんを医者へ走らせ、おしのをしずめようと手を尽したが、そのうちおしのは激しく咳こみ、絶息するかと思われたとき喀血した。二度、三度、口からほとばしり出た血が、夜具から畳の上まで飛び散るのを見て、まさのほうが気を失いそうになった。
――お父つぁんと同じ病気になった。
自分の吐いた血の色を見て、おしのはそう思いながら、失神しそうになるのを、けんめいにこらえた。
――お父つぁんが迎えに来たのだ、これはお父つぁんが、あたしのゆくのを待っているという証拠だ。
医者は正直なことは云わなかった。風邪がこじれて喉に傷が出来、それが咳のためにやぶれて出血したのだ。というような、苦しいごまかしを云い、それにしても厳重すぎる養生法を繰返し念を押していった。
「もうすぐよ、お父つぁん」とおしのは夢うつつのうちに囁いた、「もうすぐだから待っててね」
だが、母と源次郎の幻像はなかなかはなれず、それからさらに二日、おしのは母を呪い源次郎を呪い、自分の躯にながれている血を呪って、もだえ続けた。
このあいだに佐吉がみまいに来たが、医者にとめられているので、まさが断わりを云い、おしのには会わずに帰ったという。なにか大事な話があると云っていたそうであるが、彼は次の十日めを待たずに、また訪ねて来て、「どうしても会わなければならない」と云い張った。
おしのは起きて彼と会った。その二、三日は固粥や卵や、叩いた鳥の少量なども喰べるようになったし、病気を恐れる気持はまったくなかった。残った二人の始末をすれば、いつ死んでもいい躯である。
――いいえ、とおしのは思った。いいえそうではない、自首して出てお裁きを受け、事実をすっかり申上げなければならない、それまでは生きているのだ。
はいって来た佐吉は怯えていた。少なくともおしのには、彼が怯えていて、それをけんめいに隠そうとしているのが感じられた。
「聞かれると困るんだが」と佐吉は坐るとすぐに云った、「おまさちゃんを使いにでもやってもらえませんか」
「あの子は大丈夫よ、わかってるじゃないの」とおしのは答えた、「それにあの子は立ち聞きなんかしやあしないわ」
「じゃあ云っちまいましょう」佐吉はもう一と膝前へ出て声をひそめた、「八丁堀の青木という与力を知ってますか」
おしのは頷いた。
「あの男が勘づいたようですぜ」
「勘づいたって、なにを」
「墓を掘り返して骨をしらべたそうです」
「なんのことよ、それ」
おまさが茶と菓子を持って来、そのまま去った。佐吉は茶を啜ったが慌てているために舌をやいて、顔をしかめた。
「正月の火事に疑いを持ったらしい」佐吉は唇を舐めて云った、「旦那は死にかかってる病人だし、おかみさんが潰れるほど酔っていたことは、寮のおまさという女中が知っていた、けれどもおまえさんはそうじゃあなかった、おかみさんの相手をしたにしても、火事になって動けないほど酔っている筈はない、ことによるとおまえさんは殺されたうえ、火をつけて焼かれたんじゃあねえか、――こう考えたそうです」
おしのは息を止めた。
「それで浅草の浄念寺へ、蘭方の医者とかってのを伴れてゆき墓を掘り起こして骨をしらべたっていうわけです」
「ちょっと待って」おしのは遮って、眼をつむり、暫くなにか考えていたが、「いいわ」とやがて云った、「あんた神田川の船市を知っているわね」
「船宿ですね、ええ知ってます」
「これからあそこへいっていてちょうだい」
「どうするんです」
「あたしもあとからすぐいくわ」とおしのは云った、「いってから詳しい話を聞きましょう、相談しなければならないこともあるのよ」
「だって病気に障りゃあしませんか」
「たかが風邪をこじらせただけじゃないの」おしのは枕の下から紙入れを出し、なにがしか包んで佐吉に与えた、
「あのうちに弥太っていう船頭がいるから、屋形船の支度をさせておいてちょうだい、お酒や肴も忘れないように頼んでよ」
佐吉は承知して立ちあがった。