← Library‹ 五瓣の椿 第一話 五

「奥蔵おくぞうの二に階かいに、私わたくしの行李こうりがある」と喜兵衛きへえは話はなしだした、「その中なかに金かねが八百はっぴゃく七十ななじゅう両りょうはいっている、いいか、奥蔵おくぞうの二に階かいの行李こうりだよ、私わたくしがこの店みせへ奉公ほうこうに来くるとき、着物きもの類るいを入いれて背負せおって来きた行李こうりだ、もう古ふるくなって、四隅よすみには穴あながあいている、金きんはその中なかに油紙あぶらがみで包つつんで入いれてある」と喜兵衛きへえは云いった。

「私わたくしは千せん両りょうにするつもりだったが、八百はっぴゃく七十ななじゅう両りょうにしかならなかった」

「どうしてそんな話はなしをするの」

「おまえの金かねだからだ」と喜兵衛きへえは云いった、「千せん両りょうになったら、私わたくしはおまえと二人ふたりでこの家いえを出でて、べつに商売しょうばいを始はじめるつもりだった、おそのはよくない女おんなだ、おまえをあの女おんなの側がわに置おきたくなかった、あの女おんなは家付いえつきだから、離別りべつをして出だすというわけにはいかない、恥はずかしいけれども、私わたくしが婿むこ養子ようしで、おそのに逆さからえないことはおまえもよく知しっているだろう、いや、まあ聞きいておくれ、――この年としまで、私わたくしはずいぶんできない辛抱しんぼうをして来きた、婿むこになるとき、亡なくなった旦那だんなに泣ないて頼たのまれたことと、おまえという者ものがいたから、きょうまで辛抱しんぼうして来きたんだ、さもなければとっくにとびだしてしまうか、もっと悪わるいことになっていたかもしれないんだ」

「そんな話はなしやめて、お父ちちつぁん」とおしのが遮さえぎった、「病気びょうきに障さわったらどうするの、あたしもう聞きくのはいやよ」

「もうすぐだ、もう少すこしだから聞きいておくれ」と喜兵衛きへえは云いった、「いいか、私わたくしはおまえ一人ひとりを頼たよりに生いきて来きた、婿むこの縁談えんだんをきめなかったのも、二人ふたりでこの家いえを出でるつもりだったし、べつに商売しょうばいを始はじめたら、そのとき縁組えんぐみをする手筈てはずがつけてあったんだ」

金きんはその目的もくてきで溜ためたものだ。入婿いりむこでも「むさし屋や」の主人しゅじんだから、この家いえの財産ざいさんはおれのものだと云いえるだろう。しかし自分じぶんは自分じぶんの金かねを持もちたかった。それで油屋あぶらやの店みせを開ひらき、この店みせと油屋あぶらやからあがる利益りえきのうち、自分じぶんの取とり前まえをべつにして溜ためたのだ。

「千せん両りょうにはならなかったが、それでも商売しょうばいにとりつく元手もとでにはなるだろう」と喜兵衛きへえは続つづけた、「もしも、――私わたくしにもしものことがあったら、あの金かねを持もって徳次郎とくじろうと」

「いや、よして」おしのは起おき直なおった、「そんな話はなしはいや、お父ちちつぁん」

「はっきり云いおう、おしの」と喜兵衛きへえが云いった、「私わたくしはもうだめなんだ」

おしのはまた半纏はんてんをひっかけ、父ちちの枕許まくらもとへいって坐すわった。総身そうしんがふるえ、舌したが硬こわばって、すぐにはなにも云いえなかった。

「大晦日おおみそかに倒たおれたとき、私わたくしにはそれがわかった」と喜兵衛きへえは続つづけた、「おまえに心配しんぱいさせるのが辛つらさに、隠かくしていたけれども、こんどこそだめだということは、わかっていたんだ」

「お父ちちつぁんが死しぬなら」とおしのは硬こわばった口くちぶりで云いった、「あたしも死しんでよ」

「そうすれば、私わたくしがよろこぶと思おもうか」

「お父ちちつぁんがいなくて、どうして生いきてゆけるの」おしのの頬ほおを涙なみだがこぼれ落おちた、「おっ母ははさん独ひとりになったら、この店みせだってすぐめちゃめちゃにしてしまうだろうし、あたしなんかどうなるかわかりゃしないわ」

「だからこの家いえを出でるんだ」

「お父ちちつぁんが死しぬならあたしも死しぬわ」おしのは泣なきだした、「お父ちちつぁんがいないのに、生いきていてどうするの、なにをたのしみに生いきているのよ」

「もう一ひと言ことだから聞きいてくれ」と喜兵衛きへえが云いった、「私わたくしは徳次郎とくじろうによく話はなしてある、いいか、私わたくしがいけなくなったら、徳次郎とくじろうと二人ふたりでなるべく早はやく、この家いえから出でてゆくんだ、徳次郎とくじろうは若わかいが、信用しんようのおけるしっかりした人間にんげんだ、あれには金かねのことも話はなしてあるから、おそのがなんと云いおうと、一いち日にちも早はやくこの家いえを出でてゆくんだ、わかったか」

「お父ちちつぁんは、あたしを徳とくどんといっしょにするつもりなの」

喜兵衛きへえは首くびを振ふった、「いや、そんなつもりはない、徳次郎とくじろうもそんなことは考かんがえてはいないだろう、もしおまえが、あれを好すきになるようなら、いっしょになるがいいし、そうならないにしても、徳次郎とくじろうはきっとおまえを守まもってくれる、これだけは、間違まちがいのないことだから、信しんじておいで」

これで話はなしは済すんだ、すっかり話はなしたら気きが楽らくになった。私わたくしも眠ねむるからおまえも寝ねるがいい、と云いって喜兵衛きへえは眼めをつむった。

――お父ちちつぁんは死しぬ。

夜具やぐの中なかへ戻もどると、おしのは掻巻かいまきを額がくまでかぶり、声こえをひそめて泣ないた。そんなことがあっていいだろうか。

父ちちは苦労くろうのしどおしだった。妻つまをもちながら、良人おっとらしい扱あつかいをされたことがない。雇人やといにんが寝ねたあとまで、しょうばいのために精根せいこんを磨すり減へらした、「むさし屋や」の資産しさんは先代せんだいの倍ばいちかくになったともいわれるが、父ちちはそのために自分じぶんの命いのちを削けずった。現実げんじつに、自分じぶんの命いのちを削けずってしまったのだ。

――そうしていま、生いきて来きたたのしみをなに一ひとつ味あじわわず苦労くろうのし放はなしで死しんでゆく。

これはあんまりだ、あんまりむごすぎる、とおしのは心こころの中なかで叫さけんだ。神仏しんぶつがあるかないか知しらないが、もしあるなら父ちちを助たすけて下ください。神仏しんぶつというものがあるのなら、このまま父ちちの死しを黙だまって見みてはいられない筈はずです。あたしの寿命じゅみょうを縮ちぢめてもいい、あたしの命いのちを分わけてでも、どうかいま父ちちを死しなせないで下ください。おしのは咽むせび泣なきながら、掻巻かいまきの中なかで合掌がっしょうし、全身ぜんしんを固かたくして祈いのった。

明あくる朝あさ、――卵たまごの黄身きみを入いれた重湯おもゆを、ほんの二にた口くちほど啜すすった喜兵衛きへえは、もし椿つばきがあったら見みたい、と云いった。

「紅あかい山やま椿つばきがあったら欲ほしい」喜兵衛きへえはさぐるように娘むすめを見みた、「子供こどものじぶんから、私わたくしは山やま椿つばきの花はなが好すきだった、ながいこと見みなかったので、もしあったら見みたいと思おもうが、いまは咲さく季節きせつじゃあないだろうか」

「いいえ咲さいているわ、すぐにいって買かって来きましょう」

「買かうのか」

「亀戸かめいどの寮りょうのまわりにはあるけれど、こんな町まちなかではむりよ」おしのは微笑びしょうした、「買かうと云いっても安やすいんだからいいでしょ、ちょっといって来きます」

おしのは自分じぶんで花屋はなやへゆき、山やま椿つばきらしい枝えだぶりのものを選えらんで買かって来き、揷さす物ものもいちばん素朴そぼくな万古ばんこの壺つぼにした。それを持もっていって、眺ながめよいように置おくと、喜兵衛きへえは黙だまって、かなりながいあいだ、うっとりとしたような眼めで見みまもっていた。

「よくなかったかしら」

「いい、いいよ、枝えだぶりもいい」喜兵衛きへえは花はなをみつめたままで云いった、「子供こどものころが思おもいだされてくる、ああ、なつかしい」

父ちちの眼尻めじりから、涙なみだがあふれ落おちるのをみつけ、おしのはすり寄よって、手拭てぬぐいでそっと拭ふいてやった。

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