女中が茶を替えに来たとき、おしのは窓框に肱を掛け、その上に顔を伏せたまま、眠ったような恰好をしていた。
「まあ、どうなさいました」と女中が坐りながら声をかけた、「障子をあけたままで、うたた寝などをなすっていると、お風邪をひいてしまいますよ」
「火事を見ていたのよ」と云っておしのは顔をあげた、「そうしたらなんだか気持が悪くなってしまって」
「まったく怖うござんすからね」女中は茶を淹れ替えながら云った、「でももう消えましたでしょう、お武家屋敷でようございました、なんて申しては悪うございましょうけれど、こんな年の瀬になって町家が焼けでもしたら、それこそみじめでございますからね」
「そうね」おしのはぼんやりと云った、「お武家なら御領地もあるし、――」
女中はむろん聞いてもいない、茶をすすめてから、「お伴れさまはおそうござんすのね」と云った。おしのはやはりぼんやりした口ぶりで、あの火事で道を塞がれたのではないか、と答えた。
「そんなことかもしれませんね」女中は炬燵の火をみてから、立ちあがりながらおしのの横顔を見た、「――そろそろお支度を致しましょうか」
おしのはそうして下さいと答えた。
火事は消えていた。飛び火はせず、その武家屋敷だけで済んだらしい。焼け落ちた建物のかがりが、ぼっと赤く、余煙を染めているだけで、やかましかった物音や人声も、もうこっちまでは聞えて来なかった。すると、にわかに寒さがしみるように感じ、おしのは障子を閉めて、炬燵のほうへ戻った。
女中が酒の支度をして来た。火鉢に燗鍋、徳利に角樽、それから盃だけのせた膳。それらを運んでいるうちに源次郎が来た。云い訳をせきこんで云いながら、額の汗を拭き、古渡り更紗の手提げ袋をあけて、桐の小箱を出しておしのの前に置いた。
「これが出来るのを待っていたんでね」と彼は炬燵へははいらずに、火鉢の側へ坐って云った、「気にいるかどうか、あけて見てごらん」
「あとで――」と振り向いて、おしのは女中に云った、「お膳を持って来て下さいな」
「怒ってるのかい」と源次郎が訊いた。
「いろいろ考えて、考えくたびれたところなんです」
「私たちのことをかい」
「いろいろなこと」と云って、おしのはこわいような横眼で彼を見た、「たとえば、――あなたがよろず町のお家へ帰って、おかみさんやお子たちとどんなふうにたのしく話したり笑ったりなさるか」
「ちょっと」源次郎は片手をあげた、「冗談じゃない、いまじぶんになってそんな」
「いま初めてじゃありません、あなたと逢うようになってから別れたあとはいつでもそのことが胸に閊えて、独りで寝ながらどんなに苦しかったかしれやしません」
「だってそれは、そんなことはよく承知の上の筈じゃないか」
「もちろん承知の上よ、だからこれまで一度だってこんなこと云ったためしはないでしょ、いまだってあなたを責めているわけじゃありません、悪いのはあたしですもの、ただこのごろ、ふっとすると淋しくなって、自分が可哀そうに思えてしかたがないんです」
「女中が来るよ」と彼が囁いた。
女中がはいって来、炬燵蒲団の上へ平の膳を置いた。二人前の汁や鉢や皿の物が並べてあり、源次郎が「あとはいいよ」と云った。女中が去ると、彼は手まめに角樽の酒を片口へ移したり、それを徳利に入れて、燗鍋の中へ立てたりしながら、おしのの気を変えようとしてやっきになった。
「私こそおよねさんに怨みが云いたいよ」と彼は燗鍋の下の炭火をあらけながら、調子を変えて云った、「これだけ長いあいだ逢っていながら、いつもうまく躰を躱されておあずけばかりだ、このあいだの伊賀正のときだってそうだろう」
「あたしの罪じゃありませんわ」
「まさか置いてきぼりとは知らないから、いい気になって飲みながら待っていた、女中の手前だって恥ずかしい、すっかり汗をかいちまったよ」
「あれはあたしの罪じゃなくってよ」とおしのは云った、「出ていってみたらおつるさんていう人、小さな子を二人伴れてしょんぼり立ってるじゃないの、広い土間の隅のところで、片手で五つになる子を抱きよせ、背中の子を肩で揺りながら、頼りなげに立っているのを見たら、どうしてもそのままではおけなかったのよ」
「そのままではおけなかったって」
おしのは頷いた、「あたしおつるさんの話を聞いたわ」
「そんな、ばかなことを」
「ばかなことなもんですか、あたしにはいい薬でしたよ」とおしのは云った、「あの人の話を聞いて、あたし初めて自分のゆく末のことを考えました、おつるさんもあなたに妻子のあることを知っていて、そうなった、だから自分が仕合せになるだろう、などと考えるのは間違っています、男は口ではどんな約束もするでしょう、けれどもその約束は信じてはいけない、妻子のある男がほかの女にゆく末のことを約束して、もしもその約束を守ったとしたら、もとの妻や子たちを不仕合せにするでしょう、ひとを不仕合せにして自分が仕合せになろう、などと考えるのは、間違っているばかりではなく人でなしと云ってもいいと思います」
「ちょっと、ちょっと待ってくれ」と源次郎は徳利を出しながら云った、「寺子屋で孝経の話でもするような、そんなやぼなことを云うのはよそうじゃないか、それとも、――今夜はその手ではぐらかそうというつもりか」
「いいえ」おしのはかぶりを振った、「今夜は逃げも隠れもしません、今夜は覚悟をして来たんです」
「そんな大げさなことを」と云って彼は盃を取っておしのにさした、「とにかく一ついくとしよう」
おしのは注がれた盃を膳の上に置き、源次郎に酌をしてやった。
「あたしおつるさんに、国許へ帰るように云いました」いちど置いた盃を持って、それをみつめながらおしのは続けた、「少ないけれど持たせる物を持たせてあげましたから、もうあなたに心配をかけるようなことはないでしょう、今日あたりは常陸のどこやらとかいう、故郷へ帰っているかもしれません」
「持たせる物って、金でもやったんですか」
「あなたは関係のないこと」と云って、おしのは盃の酒をきれいに飲みほした。