← Library‹ 五瓣の椿 第六話 三

「おつるさんのことはもう心配しんぱいはないわ」とおしのは続つづけた、「あの人ひとは二人ふたりの子こをかかえて、これから苦労くろうすることでしょう、苦労くろうがあんまりひどければ、二人ふたりの子こを伴つれて親子おやこ心中しんじゅうをするかもしれない、でも決けっして、あなたに迷惑めいわくはかけないと思おもうわ」

「もうその話はなしはよそうじゃないか」

「憚はばかりさま、お酌しゃく」おしのは、盃さかずきを出だし、源次郎げんじろうが酌しゃくをした、「今夜こんやはいただくのよ」とおしのは云いった、「この話はなしはあなたに痛いたいのね、おつるさんのほかにも、何なん人にんとなくたのしんだ相手あいてがいるんでしょ、たのしむだけたのしんで、飽あきれは猫ねこの仔こを捨すてるように、さようなら――とも云いわずに捨すててしまったんでしょ」

「およねさんのように云いうと、男おとこだけが悪わるいように聞きこえるけれど」源次郎げんじろうは手酌てじゃくで飲のみ、おしのに酌しゃくをしてやりながら、とりいるような口くちぶりで云いった、「女おんなだって子供こどもじゃあなし、こうすればどうなるかというぐらいの分別ぶんべつはある筈はずだ」

「そのとおりよ」

「男おとこに妻子さいしがあるかないかはべつとして、いろごとというものはひょいとしたはずみでもできてしまう、算盤そろばんを置おくように、末すえ始終しじゅうのことを計算けいさんしたり、是非ぜひ善悪ぜんあくのけじめをつけてから、さてそれでは、というようなもんじゃあない、男おとこも人間にんげんだし女おんなも人間にんげんだ、ばかなことをしたり思おもわぬ羽目はめを外はずしたり、そのために泣ないたり苦くるしんだりするのが、人間にんげんの人間にんげんらしいところじゃあないだろうか、いろごとでたのしむのは男おとこだけじゃあない、女おんなのほうが男おとこの何十なんじゅう倍ばいもたのしむという、だからこそ、前後ぜんごの分別ぶんべつを忘わすれて男おとこに身みを任まかせるんじゃあないか」

「あなたの云いうとおり、そのとおりよ」とおしのは盃さかずきの酒さけを呷あおった、「あたしはまだ知しらないけれど、たのしむところまではそのとおりのようね、でも、そのあとはどうなの、――わかりいいからおつるさんのことにしましょう、男おとこと女おんな、人間にんげん同士どうしひょいとしたはずみでそういうことになった、おつるさんはあなたの何十なんじゅう倍ばいもたのしんだとしましょう、それにしても、おつるさんをくどきおとしたのはあなただし、たとえ何十なんじゅう分ぶんの一いちにもせよ、あなただってたのしんだことはたのしんだ、そうでしょ、それだのにあとで苦くるしむのは女おんなだけで、あなたは爪つめの先さきも痛いたみはしない、おつるさんはことによると、一生いっしょう苦くるしまなければならないかもしれないのに、あなたは妻子さいしとたのしくくらしているうえに、あたしのような者ものともこうして隠かくれあそびをしていられる、――男おとこと女おんなはもともとそういうようにできているのかもしれません、きっとそうなんでしょうよ、けれども、それであなたはなんでもなくって、たまにはああ悪わるかったぐらい思おもうこともあるんですか」

「今夜こんやは御ご機嫌きげんななめらしいな」源次郎げんじろうは苦笑くしょうしながら、おしのに酌しゃくをして云いった、「なにかいやなことでもあったのか」

「今夜こんや限きりでお別わかれする、っていうことが云いいたかったんです」

源次郎げんじろうは訝いぶかしそうな眼めをした、「――およねさん酔よったね」

「酔ようのはこれからよ」と云いっておしのは汁椀しるわんの蓋ふたを取とった、「さあ注そそいで下くださいな」

「うれしいね、その調子ちょうしだ」彼かれは酌しゃくをしてからおしのを見みた、「だが、――これっきりで別わかれるというのは、まさか本気ほんきじゃあないだろうね」

「本気ほんきよ」とおしのは云いった、「自分じぶんでは本気ほんきのつもりよ、いろいろ考かんがえてみると、このへんが別わかれどきだと思おもったの」

「それはひどいよ、別わかれどきって云いったって、まだ一いち度ども寝ねたことさえないじゃないか」

「だから今夜こんやはその覚悟かくごで来きたって云いったでしょ」

「つまり、やっとのことで始はじまる、というわけじゃないか、半年はんとしの余あまりも待まちに待まって、ようやく望のぞみがかなったと思おもうと、それっきりで別わかれるなんて罪つみだ、それはあんまりひどすぎるよ」

おしのは笑わらった、「あなたの番ばんが来きたのよ」

「なんだい、私わたくしの番つがって」

「これまでは女おんなのほうが苦くるしんだ、何なん人にんか、何十なんじゅう人にんか知しりませんけれどね」と笑わらいながらおしのが云いった、「こんどはあなたが苦くるしむ番ばんなの、わかるでしょ」

「おまえさんは平気へいきなんだね」源次郎げんじろうの顔かおに自信じしんありげな微笑びしょうがうかんだ、「今夜こんやなにしても、明日あすは平気へいきで別わかれて、そのままでなんともないっていうんだね」

「そんな顔かおをなさらないで」おしのは気弱きよわそうに云いった、「自分じぶんでそう決心けっしんしたんだから、この気持きもちを崩くずさないでちょうだい、――あなたがそういう顔かおつきをなさると、躯むくろから力ちからがぬけてしまうような気きがするの、あなたって怖こわい方ほうだわ」

「怖こわいもんか、私わたくしは甘あまい人間にんげんだよ」彼かれは征服せいふく者しゃのように云いった、「さあおよね、今夜こんや限かぎりでお別わかれなら、酒さけなんかで暇ひまを潰つぶしてはいられない、ちょっと向むこうで休やすむとしよう」

「女中じょちゅうさんが来きますよ」

「来きやあしないよ」彼かれは立たちあがって手てをさし出だした、「このうちのことは私わたくしがよく知しっている、呼よばなければ誰だれも来くる気遣きづかいはないんだから、さあ」

「立たたせてちょうだい」

「酔よっちまったね」

源次郎げんじろうは炬燵こたつをまわり、おしのをうしろから抱だき起おこした。酔よって力ちからのぬけたような、やわらかにぐったりとした娘むすめの躯むくろは、源次郎げんじろうの欲望よくぼうをかきたて血ちを狂くるわせたようだ。彼かれは片手かたてでおしのを抱いだき、片手かたてで襖ふすまをあけた。次つぎの間まには夜具やぐがのべてあり、絹きぬの丸まる行燈あんどんや、枕許まくらもとの盆ぼんなども揃そろっていた。

「あちらに包つつみがあるの」とおしのが囁ささやき声ごえで云いった、「持もって来きて下くださいな」

源次郎げんじろうは風呂敷ふろしき包つつみを持もって来きた。

「屏風びょうぶをまわして」とおしのは云いった、「着替きがえるまで見みないでね」

「行燈あんどんへ火ひを入いれよう」と源次郎げんじろうが云いった。

彼かれが丸まる行燈あんどんに火ひを移うつし、襖ふすまを閉しめると、屏風びょうぶの中なかからおしのが、彼かれの寝衣ねまきを出だしてよこした。もちろんこの家いえのものである、彼かれは気きもそぞろな動作どうさで、手早てばやく着替きがえをし、「いいかい」と声こえをかけた。

「いいわ」とおしのが答こたえた。

源次郎げんじろうが屏風びょうぶをまわってゆくと、おしのは長襦袢ながじゅばんになって夜具やぐの上うえに坐すわり、扱帯しごきをしめようとするところだった。

「ちょっと」と彼かれは声こえをかけた、「それをしめるまえに、ちょっと私わたくしに見みせておくれ」

「どうして」

「いいからさ、ちょっとだけだから」

前まえへまわって坐すわった源次郎げんじろうの顔かおを、おしのはするどい眼めつきでみつめながら、静しずかに、長襦袢ながじゅばんの衿えりを左右さゆうへひらいた。

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%