「おつるさんのことはもう心配はないわ」とおしのは続けた、「あの人は二人の子をかかえて、これから苦労することでしょう、苦労があんまりひどければ、二人の子を伴れて親子心中をするかもしれない、でも決して、あなたに迷惑はかけないと思うわ」
「もうその話はよそうじゃないか」
「憚りさま、お酌」おしのは、盃を出し、源次郎が酌をした、「今夜はいただくのよ」とおしのは云った、「この話はあなたに痛いのね、おつるさんのほかにも、何人となくたのしんだ相手がいるんでしょ、たのしむだけたのしんで、飽きれは猫の仔を捨てるように、さようなら――とも云わずに捨ててしまったんでしょ」
「およねさんのように云うと、男だけが悪いように聞えるけれど」源次郎は手酌で飲み、おしのに酌をしてやりながら、とりいるような口ぶりで云った、「女だって子供じゃあなし、こうすればどうなるかというぐらいの分別はある筈だ」
「そのとおりよ」
「男に妻子があるかないかはべつとして、いろごとというものはひょいとしたはずみでもできてしまう、算盤を置くように、末始終のことを計算したり、是非善悪のけじめをつけてから、さてそれでは、というようなもんじゃあない、男も人間だし女も人間だ、ばかなことをしたり思わぬ羽目を外したり、そのために泣いたり苦しんだりするのが、人間の人間らしいところじゃあないだろうか、いろごとでたのしむのは男だけじゃあない、女のほうが男の何十倍もたのしむという、だからこそ、前後の分別を忘れて男に身を任せるんじゃあないか」
「あなたの云うとおり、そのとおりよ」とおしのは盃の酒を呷った、「あたしはまだ知らないけれど、たのしむところまではそのとおりのようね、でも、そのあとはどうなの、――わかりいいからおつるさんのことにしましょう、男と女、人間同士ひょいとしたはずみでそういうことになった、おつるさんはあなたの何十倍もたのしんだとしましょう、それにしても、おつるさんをくどきおとしたのはあなただし、たとえ何十分の一にもせよ、あなただってたのしんだことはたのしんだ、そうでしょ、それだのにあとで苦しむのは女だけで、あなたは爪の先も痛みはしない、おつるさんはことによると、一生苦しまなければならないかもしれないのに、あなたは妻子とたのしくくらしているうえに、あたしのような者ともこうして隠れあそびをしていられる、――男と女はもともとそういうようにできているのかもしれません、きっとそうなんでしょうよ、けれども、それであなたはなんでもなくって、たまにはああ悪かったぐらい思うこともあるんですか」
「今夜は御機嫌ななめらしいな」源次郎は苦笑しながら、おしのに酌をして云った、「なにかいやなことでもあったのか」
「今夜限りでお別れする、っていうことが云いたかったんです」
源次郎は訝しそうな眼をした、「――およねさん酔ったね」
「酔うのはこれからよ」と云っておしのは汁椀の蓋を取った、「さあ注いで下さいな」
「うれしいね、その調子だ」彼は酌をしてからおしのを見た、「だが、――これっきりで別れるというのは、まさか本気じゃあないだろうね」
「本気よ」とおしのは云った、「自分では本気のつもりよ、いろいろ考えてみると、このへんが別れどきだと思ったの」
「それはひどいよ、別れどきって云ったって、まだ一度も寝たことさえないじゃないか」
「だから今夜はその覚悟で来たって云ったでしょ」
「つまり、やっとのことで始まる、というわけじゃないか、半年の余も待ちに待って、ようやく望みがかなったと思うと、それっきりで別れるなんて罪だ、それはあんまりひどすぎるよ」
おしのは笑った、「あなたの番が来たのよ」
「なんだい、私の番って」
「これまでは女のほうが苦しんだ、何人か、何十人か知りませんけれどね」と笑いながらおしのが云った、「こんどはあなたが苦しむ番なの、わかるでしょ」
「おまえさんは平気なんだね」源次郎の顔に自信ありげな微笑がうかんだ、「今夜なにしても、明日は平気で別れて、そのままでなんともないっていうんだね」
「そんな顔をなさらないで」おしのは気弱そうに云った、「自分でそう決心したんだから、この気持を崩さないでちょうだい、――あなたがそういう顔つきをなさると、躯から力がぬけてしまうような気がするの、あなたって怖い方だわ」
「怖いもんか、私は甘い人間だよ」彼は征服者のように云った、「さあおよね、今夜限りでお別れなら、酒なんかで暇を潰してはいられない、ちょっと向うで休むとしよう」
「女中さんが来ますよ」
「来やあしないよ」彼は立ちあがって手をさし出した、「このうちのことは私がよく知っている、呼ばなければ誰も来る気遣いはないんだから、さあ」
「立たせてちょうだい」
「酔っちまったね」
源次郎は炬燵をまわり、おしのをうしろから抱き起こした。酔って力のぬけたような、やわらかにぐったりとした娘の躯は、源次郎の欲望をかきたて血を狂わせたようだ。彼は片手でおしのを抱き、片手で襖をあけた。次の間には夜具がのべてあり、絹の丸行燈や、枕許の盆なども揃っていた。
「あちらに包みがあるの」とおしのが囁き声で云った、「持って来て下さいな」
源次郎は風呂敷包みを持って来た。
「屏風をまわして」とおしのは云った、「着替えるまで見ないでね」
「行燈へ火を入れよう」と源次郎が云った。
彼が丸行燈に火を移し、襖を閉めると、屏風の中からおしのが、彼の寝衣を出してよこした。もちろんこの家のものである、彼は気もそぞろな動作で、手早く着替えをし、「いいかい」と声をかけた。
「いいわ」とおしのが答えた。
源次郎が屏風をまわってゆくと、おしのは長襦袢になって夜具の上に坐り、扱帯をしめようとするところだった。
「ちょっと」と彼は声をかけた、「それをしめるまえに、ちょっと私に見せておくれ」
「どうして」
「いいからさ、ちょっとだけだから」
前へまわって坐った源次郎の顔を、おしのはするどい眼つきでみつめながら、静かに、長襦袢の衿を左右へひらいた。