← Library‹ 五瓣の椿 第一話 六

喜兵衛きへえは話はなした。――彼かれは川崎かわさき在の農家のうかで育そだった。いまでは兄あにが家いえを継つぎ、村むらでもかなりな田地でんじ持もちになっているが、彼かれの育そだつころはまだ半分はんぶん小作こさくで、生活せいかつもかなり苦くるしかった。そんなことはどっちでもいいが、家いえのうしろに小ちいさな丘おかがあり、その丘おかを越こしたところに、竹藪たけやぶに囲かこまれて小ちいさな池いけがあった。藪やぶの中なかにも山やま椿つばきの若木わかぎが幾いく本ほんか伸のびていたが、池畔ちはんにある古木こぼくはその太ふとい根ねの一部いちぶを池いけに浸ひたし、枝えだも池いけの上うえまで伸のばしてい、花期かきになると、落おちた花はなで、池いけの水みずが見みえなくなるくらいであった。

「眼めをつむると、いまでもそのけしきがありありと見みえる」と喜兵衛きへえは云いった、「私わたくしは子供こどものじぶん、親おやに叱しかられるとか、友達ともだちと喧嘩けんかをしたあととか、悲かなしい、たよりないような気持きもちになるとかすると、よく独ひとりでその池いけの側がわへいって、ぼんやりと時ときをすごしたものだ」

ほかの季節きせつは知しらない、記憶きおくに残のこっているのは椿つばきの咲さいているときのことだけである。竹藪たけやぶは黄色きいろく霜枯しもがれ、池いけの水みずは寒さむざむと澱よどんでいる。椿つばきの木きの幹みきは灰色はいいろで、空そらは鬱陶うっとうしく曇くもっていたようだ。すべてがしらちゃけた淡色たんしょくにいろどられている中なかで椿つばきの葉はの黒くろずんで光ひかる群ぐん葉ようと、葉はがくれにつつましく咲さいている紅あかい花はなとは、際立きわだっているようで却かえってものかなしく、こちらの心こころにしみいるように思おもえた。

「この花はなだ」と喜兵衛きへえは眼めを向むけて云いった、「小ちいさい私わたくしは池いけの端はたに佇たたずんで、独ひとりっきりでこの花はなを見みていたものだ、或あるときは泣なきながら、或あるときは途方とほうにくれながら、――この花はなを見みていると、何十なんじゅう年ねんも昔むかしの自分じぶんの姿すがたが、ありありと眼めにうかんでくる、なつかしい」

本当ほんとうになつかしい、と云いいながら、喜兵衛きへえはまた涙なみだをこぼした。

「どうしてそう云いって下くださらなかったの」おしのは頬ほおを拭ふいてやりながら云いった、「云いって下くだされば椿つばきの花はなぐらい、いつでも活いけてあげられたのに」

「そうだったな」と頷うなずいて、喜兵衛きへえは暫しばらく黙だまっていたが、やがて独ひとり言ごとのように、低ひくい声こえで云いった、「――けれどもな、おしの、あきんどというものは、隠居いんきょでもしない限かぎり、花はないじりなどはしないものだ、ことに私わたくしは婿むこの身みで、亡なくなった旦那だんなに義理ぎりがあるし、本当ほんとうを云いうと、むさし屋やのしんしょうを興おこすということ以外いがいにはなにも考かんがえなかった、椿つばきのことなぞも、きょうまで思おもいだしさえしなかったんだよ」

おしのはそっと顔かおをそむけた。

夕方ゆうがたになり、父ちちが眠ねむっているのを慥たしかめて、おしのは石町こくちょうの伊勢いせ久ひさしを訪たずねた。「伊勢いせ久ひさし」は瀬戸せと物もの問屋とんやで、主婦しゅふのおとよは古ふるくから母ははと親したしくしていた。縹緻きりょうもよくないし、ひどく肥こえていて躯むくろつきもみにくいが、派手はでづくりで遊あそび好ずきなところは母ははとよく似にていた。日本橋にほんばし通とおり二に丁目ちょうめの、吉井よしい屋やの妻女さいじょもそのなかまであるが、住居じゅうきょが近ちかいためか、気性きしょうが合あっているからか伊勢いせ久ひさしの妻女さいじょのほうが、母ははとはもっとも親したしかった。二十にじゅう九きゅう日にちに「往いき帰かえり七なな日にち」ということででかけたとすると、四よん日かはその帰かえる日ひに当あたっている。もし伊勢いせ久ひさしで帰かえっていたら、すぐに亀戸かめいどへ迎むかえをやるつもりであったが、訪たずねてゆくとおとよはいた。――肥こえ太ふとった躯むくろに派手はですぎる小袖こそでを着き、反そり返かえるような恰好かっこで出でて来きたおとよは、おしのの問といに首くびを振ふり、子供こどものような細ほそい声こえで、あたしは知しらない、と答こたえた。

「だって」おしのは戸惑とまどった、「吉井よしい屋やのおばさんといっしょに、うちのおっ母ははさんと江えノ島しまへいらしったんじゃないんですか」

「いかないわよ」とおとよはまた首くびを振ふった、「吉井よしい屋やのおはんさんも、二ふた日かの晩ばんからきのう夕方ゆうがたまで、泊とまりがけでうちへ来きていたわよ」

「では暮くれからどこへもいらっしゃらなかったんですか」

「おそのさんは江えノ島しまへいったんですって」とおとよのほうで訊きき返かえした、「そんならきっと東蔵とうぞうといっしょだわ、きっとそうよ」

「東蔵とうぞうって、――どこの人ひとでしょう」

「中村なかむら座ざの役者やくしゃよ、あんた知しらないの」とおとよは平気へいきな顔かおで云いった、「まだ名題なだいになったばかりの若手わかてだけれど、いまに売うり出だすだろうってたいそうな評判ひょうばんだし、いいひいき筋すじもずいぶんあるの」

ところが去年きょねんの顔見世かおみせから、おそのさんが熱ねつをあげはじめ、殆ほとんど独ひとり占じめにしていたそうだ、というところまで聞きいて、おしのは逃にげるようにいとまを告つげた。

「あ、おしのちゃん」とうしろからおとよが云いった、「詳くわしいことは桝屋ますやの佐吉さきちに訊きくとわかってよ」

おしのは怒いかりと恥はずかしさとで、身みがちぢむように思おもった。おとよの話はなす口くちぶりと、その話はなしの不潔ふけつないやらしさとは、これまでかつて経験けいけんしたことのないものであり、それが自分じぶんの母ははに関係かんけいしていると思おもうと、激はげしい悪心おしんにおそわれ、いまにも嘔吐おうとしそうになった。

だがどうしよう、父ちちは死しにかかっている。どんなにいやらしくけがらわしくとも、知しらずにいる母ははをそのままにしてはおけない。

――中村なかむら座ざへいってみよう。

桝屋ますやは中村なかむら座ざの芝居しばい茶屋ちゃやで、佐吉さきちというのは、その店みせに属ぞくする出で方かただった。若手わかての役者やくしゃが正月しょうがつの芝居しばいをぬけるというのは、ちょっと不ふ自然しぜんに思おもえたが、駕籠かごに乗のってゆく先さきを云いうと、中村なかむら座ざは間口まぐちをひろげる普請ふしんちゅうで、春はる芝居しばいのあくのは十とお日かごろらしい、ということであった。

「いいわ」とおしのは云いった、「とにかく桝屋ますやへいってちょうだい」

佐吉さきちに訊きけば詳くわしいことがわかる、とおとよが云いった。佐吉さきちは古ふるくからいる男おとこで、おしのもよく知しっている。母ははがその役者やくしゃといっしょだとすれば、桝屋ますやで知しらない筈はずはないし、帰かえって来きたかどうかもわかるだろう、おしのはそう考かんがえたのであった。

桝屋ますやの前まえで駕籠かごをおりると、表ひょうを閉しめた店みせの前まえに、佐吉さきちが若わかい男おとこと立たち話ばなしをしていた。おしのはこの一いち年ねん半はんばかり来こなかったので、彼かれはちょっとわからなかったらしい。それから吃驚びっくりしたように、頭あたまへ手てをやりながら反そった。これはどうも、すっかりおみそれをしました、暫しばらくおめにかからないうちに、すっかりおきれいになって、などと、とめどもなくあいそを並ならべだすので、おしのは「ちょっと」と遮さえぎり、こっちへ来きてくれ、という手てまねをしながら、脇わきのほうへ寄よった。――若わかい男おとこは黙だまって反対はんたいのほうへ遠とおのき、佐吉さきちはおしのの側がわへ来きた。

「おっ母ははさんのこと知しってるでしょ」とおしのは低ひくい声こえで云いった、「あんたのせいにするんじゃないから正直しょうじきに云いって、東蔵とうぞうっていう役者やくしゃと江えノ島しまへいったこと知しってるわね」

「弱よわったな、いいえそりゃあもう決けっして、隠かくしだてなんかしやあしませんが」佐吉さきちは頭あたまを掻かき、いかにも閉口へいこうしたように肩かたをすくめた、「その、東蔵とうぞうという役者やくしゃはあそこにいるんで、ええ、いまあっしと話はなしていたあの男おとこです」

おしのは振ふり返かえって見みた。その若わかい男おとこは、店みせの前まえに立たててある松飾まつかざりの、松まつの葉はを弄まさぐっていた。

「屋号やごうは沢田さわだ屋や、島村しまむら東蔵とうぞうといって、女形おやまではいま売出うりだしの」

「では誰だれといったの」おしのはまた遮さえぎって訊きいた、「誰だれ、どういう人ひと」

「菊太郎きくたろうといって、子役こやくを勤つとめていましたが、去年きょねんの顔見世かおみせが終おわったあと芝居しばいをやめて、それ以来いらいごしんぞさんのお世話せわになっていたようですから、もし江えノ島しまへおいでなすったとするとその菊太郎きくたろうと」

「うちはどこ」とおしのは云いった、「その菊太郎きくたろうという人ひとはどこに住すんでいるの」

「その、それは」と佐吉さきちは吃どもりながら云いった、「たしかずっと、亀戸かめいどの寮りょうのほうにいるとかっていう、あっしはよく知しりませんが」

おしのの顔かおがさっと白しろくなり、あまりに強つよく噛かんだためだろう、下唇したくちびるに血ちの滲にじむのが見みえた。

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