おしのはそこを去ろうとしたが、ふと島村東蔵の姿を認めて、立停った。東蔵は松飾りのところに立って、こちらに横顔を向けていたが、明らかに眼の隅で、こっちのようすを見ているようであった。
「あの人と話をさせて」とおしのは佐吉に云った、「手間はとらせないわ、ちょっとだけ訊きたいことがあるの、いいでしょ」
「沢田屋とですか」佐吉は唇を尖らせた。
「ほんのちょっとだけ、お願いよ」とおしのは云った、「店の隅でもいいの、立ち話でいいからちょっと二人だけにさせて」
佐吉は東蔵のほうへゆき、低い声で話していたが、東蔵はすぐに頷いて、そのまま桝屋の店へはいってゆき、佐吉は戻って来て、どうぞと片手を振った。
「二階の桐を御存じですね」
「左の端だったかしら」
佐吉は頷いた、「先にいらしってて下さい、あとからすぐにやります、但しなにもお構いはできませんから」
「あたしも帰りをいそぐのよ」
おしのは駕籠屋に、待っていてくれと云い、手早くなにがしか紙に包んで、佐吉に渡した。佐吉はそ知らぬ顔で巧みに受取り、おしのを店の中へ案内した。そして、興行のあるとき以外は見廻りがやかましいからなるべく早く、と囁いた。おしのは頷いて、うす暗い階段を、音のしないようにすばやく登っていった。――母親とよく来たことがあるから、「桐」という座敷はすぐにわかった。雨戸が一枚あけてあるだけだし、もう黄昏れていて、灯のないその十一帖の座敷はひっそりと暗く、寒さが身にしみとおるように思えた。
おしのは両袖へ手を入れ、それを胸の上で重ねて、ふるえながら、壁に立てかけてある一双の、たたまれた屏風を見まもった。
――正月はたいてい松と鶴の絵だった。
おしのはぼんやりとそう思った。
――切り金の地に松と鶴を描いた屏風が立てられ、百匁蝋燭の燭台が輝き、蒔絵の膳部が並び、役者や芸妓がとりもちに坐った、眩ゆいほどの光と、華やかな色彩と、唄や鳴り物や嬌声が……この座敷いっぱいにくりひろげられたものだ。
自分も幾たびかそういう席に坐った。役者や芸妓や、桝屋の人たちに世辞やあいそを云われて、いい気持に美味い物を喰べたり、芝居の話に胸をときめかしたりしていた。
――お父つぁんの倒れるまでそうだった。
父はいつも店に坐っていた。同業者の寄合いとか、祝儀不祝儀とか、やむを得ないつきあいのほかには、殆んど外出もせず、独りで店を守りとおして来た。
「この座敷で」とおしのは呟いた、「あたしがおっ母さんとそんなふうに、いい気になって遊んでいるときでも、お父つぁんはお店のうす暗い帳場格子の中で――」
おしのはぎゅっと眼をつむった。そのとき東蔵がはいって来た。お待たせしました、という声をうしろに聞いたとき、おしのは胸の上で重ねていた両手に力をいれ、深く息を吸いこみながら、五拍子ほど身動きもせずに立っていた。
「どういう御用でしょうか」と東蔵が訊いた。
おしのはゆっくりと向き直った。緊張しているため、その動作は鈍かったが、東蔵をみつめた眼はするどく、相手の心の隅ずみまで読み取ろうとするような、強い光を湛えていた。
「あなた、あたしのおっ母さんを知っているでしょ」とおしのは眼を動かさずに訊いた、「知っているわね」
「知っています」と東蔵は答えた、「名題になることでたいそうお世話になりました、しかしそのほかにはなんのかかわりもありません」
おしのは眼を細めた。東蔵は十九か二十であろう、女形にしては角張った顔で、眼つきや唇許もきつすぎるが、ぜんたいにすっきりとした清潔感をもっていた。この人は信じてもいい、とおしのは直感した。
「私はほかの人のようなおとりもちができなかったんです」と東蔵は続けた、「それが御機嫌に障って、ずっとお出入りもしていません、お訊きになりたいのはそれだけですか」
おしのはかぶりを振った、「父が死にかかっているんです、それであたし、母を伴れて帰りたいんですけれど、誰かと江ノ島へいったということで」
「そうですか」東蔵は頷いた、「こんなことを云ってはいけないんですが、そういう事情なら申上げましょう、ごしんぞさんの伴れていらしったのは菊太郎という子役で、いったさきは江ノ島ではなく箱根です」
おしのは眼をみはった。
「菊太郎は亀戸のお宅へ引取られていました、亀戸へ帰るのを待つよりしようがないでしょう」と東蔵は云った、「ごしんぞさんもずいぶん御乱行をなさいましたが、菊太郎に捉まったのは災難です、年は明けて十八ですが、あいつは生れながらの悪で、御婦人がたにとっては厄病神のようなやつです」
「あなた、おっ母さんのことをよく知ってらっしゃるの」
「詳しいことは知りません、佐吉さんは昔からごひいきだからよく知っているでしょう」と東蔵は云った、「御病人がそんなふうなら、もうお帰りになるほうがよくはありませんか」
おしのはなにか訊くことがあるように思った。この人は頼りになる、この人なら本当のことがわかる、なにか訊いておかなければならない大事なことがある。そういう気持を強く感じたが、現実にはなにを訊いたらいいかわからず、おしのは礼を云って別れを告げた。
「ひどいわ、ひどいわおっ母さん」駕籠をいそがせて帰る途中、おしのは声に出して呟いた、「お父つぁんの病気が重いと知っていながら、そんな人と平気で箱根へゆくなんて」
おしのは自分の手をひらいて、眼に近づけて見た。駕籠の垂れから、僅かにさしこむ残照のほの明りで、自分の指がふるえているのをおしのは見た。
――菊太郎は寮へ引取られた。
二十八日にいったとき、やっぱり奥の部屋に菊太郎が隠れていたのだ。三味線と唄の声、母はあたしを騙した。あたしがゆくまで、母は菊太郎と二人で、暢気に雪見酒でもしていたのであろう。そしてあたしが帰ったあと、二人はまた飲みながら相談をし、箱根へゆくことにきめたのだ。おしのはひらいた手をぎゅっと握り緊め、眼をつむって、祈るように口の中で云った。
「おっ母さん、帰ってちょうだい、もしこのままお父つぁんに死なれたら、いくらおっ母さんだって世間に顔向けができないじゃないの、お願いよおっ母さん、どうかまにあうように帰って来てちょうだい」