← Library‹ 五瓣の椿 第一話 七

おしのはそこを去さろうとしたが、ふと島村しまむら東蔵とうぞうの姿すがたを認みとめて、立停たちどまった。東蔵とうぞうは松飾まつかざりのところに立たって、こちらに横顔よこがおを向むけていたが、明あきらかに眼めの隅すみで、こっちのようすを見みているようであった。

「あの人ひとと話はなしをさせて」とおしのは佐吉さきちに云いった、「手間てまはとらせないわ、ちょっとだけ訊ききたいことがあるの、いいでしょ」

「沢田さわだ屋やとですか」佐吉さきちは唇くちびるを尖とがらせた。

「ほんのちょっとだけ、お願ねがいよ」とおしのは云いった、「店みせの隅すみでもいいの、立たち話ばなしでいいからちょっと二人ふたりだけにさせて」

佐吉さきちは東蔵とうぞうのほうへゆき、低ひくい声こえで話はなしていたが、東蔵とうぞうはすぐに頷うなずいて、そのまま桝屋ますやの店みせへはいってゆき、佐吉さきちは戻もどって来きて、どうぞと片手かたてを振ふった。

「二に階かいの桐きりを御ご存ぞんじですね」

「左ひだりの端はしだったかしら」

佐吉さきちは頷うなずいた、「先さきにいらしってて下ください、あとからすぐにやります、但ただしなにもお構かまいはできませんから」

「あたしも帰かえりをいそぐのよ」

おしのは駕籠屋かごやに、待まっていてくれと云いい、手早てばやくなにがしか紙かみに包つつんで、佐吉さきちに渡わたした。佐吉さきちはそ知しらぬ顔かおで巧たくみに受取うけとり、おしのを店みせの中なかへ案内あんないした。そして、興行こうぎょうのあるとき以外いがいは見廻みまわりがやかましいからなるべく早はやく、と囁ささやいた。おしのは頷うなずいて、うす暗ぐらい階段かいだんを、音おとのしないようにすばやく登のぼっていった。――母親ははおやとよく来きたことがあるから、「桐きり」という座敷ざしきはすぐにわかった。雨戸あまどが一いち枚まいあけてあるだけだし、もう黄昏たそがれていて、灯あかりのないその十じゅう一いち帖じょうの座敷ざしきはひっそりと暗くらく、寒さむさが身みにしみとおるように思おもえた。

おしのは両袖りょうそでへ手てを入いれ、それを胸むねの上うえで重かさねて、ふるえながら、壁かべに立たてかけてある一いち双そうの、たたまれた屏風びょうぶを見みまもった。

――正月しょうがつはたいてい松まつと鶴つるの絵えだった。

おしのはぼんやりとそう思おもった。

――切きり金がねの地ちに松まつと鶴つるを描えがいた屏風びょうぶが立たてられ、百ひゃく匁蝋燭めろうそくの燭台しょくだいが輝かがやき、蒔絵まきえの膳部ぜんぶが並ならび、役者やくしゃや芸妓げいぎがとりもちに坐すわった、眩まばゆいほどの光ひかりと、華はなやかな色彩しきさいと、唄うたや鳴なり物ものや嬌声きょうせいが……この座敷ざしきいっぱいにくりひろげられたものだ。

自分じぶんも幾いくたびかそういう席せきに坐すわった。役者やくしゃや芸妓げいぎや、桝屋ますやの人ひとたちに世辞せじやあいそを云いわれて、いい気持きもちに美味うまい物ものを喰たべたり、芝居しばいの話はなしに胸むねをときめかしたりしていた。

――お父ちちつぁんの倒たおれるまでそうだった。

父ちちはいつも店みせに坐すわっていた。同どう業ぎょう者しゃの寄合よりあいとか、祝儀しゅうぎ不ふ祝儀しゅうぎとか、やむを得えないつきあいのほかには、殆ほとんど外出がいしゅつもせず、独ひとりで店みせを守まもりとおして来きた。

「この座敷ざしきで」とおしのは呟つぶやいた、「あたしがおっ母ははさんとそんなふうに、いい気きになって遊あそんでいるときでも、お父ちちつぁんはお店みせのうす暗ぐらい帳場ちょうば格子こうしの中なかで――」

おしのはぎゅっと眼めをつむった。そのとき東蔵とうぞうがはいって来きた。お待またせしました、という声こえをうしろに聞きいたとき、おしのは胸むねの上うえで重かさねていた両手りょうてに力ちからをいれ、深ふかく息いきを吸すいこみながら、五ご拍子ひょうしほど身動みうごきもせずに立たっていた。

「どういう御ご用ようでしょうか」と東蔵とうぞうが訊きいた。

おしのはゆっくりと向むき直なおった。緊張きんちょうしているため、その動作どうさは鈍にぶかったが、東蔵とうぞうをみつめた眼めはするどく、相手あいての心こころの隅すみずみまで読よみ取とろうとするような、強つよい光ひかりを湛たたえていた。

「あなた、あたしのおっ母ははさんを知しっているでしょ」とおしのは眼めを動うごかさずに訊きいた、「知しっているわね」

「知しっています」と東蔵とうぞうは答こたえた、「名題なだいになることでたいそうお世話せわになりました、しかしそのほかにはなんのかかわりもありません」

おしのは眼めを細ほそめた。東蔵とうぞうは十じゅう九きゅうか二十にじゅうであろう、女形おやまにしては角張かどばった顔かおで、眼めつきや唇許くちもともきつすぎるが、ぜんたいにすっきりとした清潔せいけつ感かんをもっていた。この人ひとは信しんじてもいい、とおしのは直感ちょっかんした。

「私わたくしはほかの人ひとのようなおとりもちができなかったんです」と東蔵とうぞうは続つづけた、「それが御ご機嫌きげんに障さわって、ずっとお出入でいりもしていません、お訊ききになりたいのはそれだけですか」

おしのはかぶりを振ふった、「父ちちが死しにかかっているんです、それであたし、母ははを伴つれて帰かえりたいんですけれど、誰だれかと江えノ島しまへいったということで」

「そうですか」東蔵とうぞうは頷うなずいた、「こんなことを云いってはいけないんですが、そういう事情じじょうなら申上もうしあげましょう、ごしんぞさんの伴つれていらしったのは菊太郎きくたろうという子役こやくで、いったさきは江えノ島しまではなく箱根はこねです」

おしのは眼めをみはった。

「菊太郎きくたろうは亀戸かめいどのお宅たくへ引取ひきとられていました、亀戸かめいどへ帰かえるのを待まつよりしようがないでしょう」と東蔵とうぞうは云いった、「ごしんぞさんもずいぶん御ご乱行らんぎょうをなさいましたが、菊太郎きくたろうに捉つかまったのは災難さいなんです、年としは明あけて十じゅう八はちですが、あいつは生うまれながらの悪わるで、御ご婦人ふじんがたにとっては厄病やくびょう神かみのようなやつです」

「あなた、おっ母ははさんのことをよく知しってらっしゃるの」

「詳くわしいことは知しりません、佐吉さきちさんは昔むかしからごひいきだからよく知しっているでしょう」と東蔵とうぞうは云いった、「御ご病人びょうにんがそんなふうなら、もうお帰かえりになるほうがよくはありませんか」

おしのはなにか訊きくことがあるように思おもった。この人ひとは頼たよりになる、この人ひとなら本当ほんとうのことがわかる、なにか訊きいておかなければならない大事だいじなことがある。そういう気持きもちを強つよく感かんじたが、現実げんじつにはなにを訊きいたらいいかわからず、おしのは礼れいを云いって別わかれを告つげた。

「ひどいわ、ひどいわおっ母ははさん」駕籠かごをいそがせて帰かえる途中とちゅう、おしのは声こえに出だして呟つぶやいた、「お父ちちつぁんの病気びょうきが重おもいと知しっていながら、そんな人ひとと平気へいきで箱根はこねへゆくなんて」

おしのは自分じぶんの手てをひらいて、眼めに近ちかづけて見みた。駕籠かごの垂たれから、僅わずかにさしこむ残照ざんしょうのほの明あかりで、自分じぶんの指ゆびがふるえているのをおしのは見みた。

――菊太郎きくたろうは寮りょうへ引取ひきとられた。

二十にじゅう八はち日にちにいったとき、やっぱり奥おくの部屋へやに菊太郎きくたろうが隠かくれていたのだ。三味しゃみ線せんと唄うたの声こえ、母はははあたしを騙だました。あたしがゆくまで、母ははは菊太郎きくたろうと二人ふたりで、暢気のんきに雪見ゆきみ酒しゅでもしていたのであろう。そしてあたしが帰かえったあと、二人ふたりはまた飲のみながら相談そうだんをし、箱根はこねへゆくことにきめたのだ。おしのはひらいた手てをぎゅっと握にぎり緊しめ、眼めをつむって、祈いのるように口くちの中なかで云いった。

「おっ母ははさん、帰かえってちょうだい、もしこのままお父ちちつぁんに死しなれたら、いくらおっ母ははさんだって世間せけんに顔向かおむけができないじゃないの、お願ねがいよおっ母ははさん、どうかまにあうように帰かえって来きてちょうだい」

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%