← Library‹ ちいさこべ 十二

茂次しげじは重吉じゅうきちのそばへゆき、つとめてやさしく頬笑ほうえみかけた。

「重じゅう公こう」と彼かれは云いった、「懲こりたか」

重吉じゅうきちはふるえながら、「ごめんなさい」と云いって泣なきだした。茂次しげじは重吉じゅうきちの肩かたへ手てをやり、軽かるく二三にさん度ど叩たたいてやった。

「泣なくな、男おとこだろう」と茂次しげじは云いった、「悪わるかったと思おもったら二に度どとしなければいいんだ、みんなもそうだぞ、わかったろうな」

子供こどもたちが一斉いっせいに頷うなずき、重吉じゅうきちは激はげしく泣ないた。おりつが駆かけよって来きて、重吉じゅうきちを抱いだいてやり、重吉じゅうきちは泣なきながら、もうしません、ごめんなさいと叫さけんだ。すると、あっちゃんが市しの腕うでの中なかで、「ごめんなさい」と云いって泣なきだしたので、茂次しげじは途方とほうにくれたようにおりつを見みた。

「いって下ください」とおりつはめまぜをしながら云いった、「すぐに御飯ごはんを持もっていきます」

茂次しげじは廊下ろうかへ出でていった。

夕飯ゆうはんの膳ぜんを持もって来きたとき、おりつは「蜜柑みかんの代だいを払はらった」と告つげた。徳二郎とくじろうが受取うけとらないので、ちょうどなくなっていたから蜜柑みかんを二にた箱はこ買かった。重吉じゅうきちが取とったのは二ふたつだから、おつりがくるくらいだと思おもう、とおりつは云いった。

「その話はなしはよせ」と茂次しげじは乱暴らんぼうに云いった、「それから、今日きょうのことは二に度どと口くちにするなって子供こどもたちによく云いっといてくれ」

そして箸はしを取とったが、ふと思おもいだしたように、彼かれはおりつを見みた。

「あのときおめえなにを云いおうとしたんだ」

「あのときって」

「子供こどもたちのことで初はじめて話はなしたときよ、おれが子供こどもたちは置おけねえと云いったとき、おめえはなにか云いいかけた、おれのことを睨にらんでなにか云いおうとして、云いうのをやめて立たっていったことがある、忘わすれたか」

「おどろいた」とおりつが眼めをみはった、「ずいぶんもの覚おぼえがいいのね」

「なにを云いおうとしたんだ」

「さあ、なんだったかしら」おりつはかぶりを振ふった、「覚おぼえていないようよ、でも、どうしてそんなこと気きになさるの」

「こう云いおうとしたんじゃあないのか」と茂次しげじが云いった、「おれがあの子供こどもたちでなくってよかったって、――そうだろう」

「まさか、いくらなんだって」とおりつは眼めをそらしながら云いった、「あたしそんなことを云いえやしませんわ」

「だから云いわずに立たっていったんだ」

「まさかそんな」とおりつは眩まぶしそうな眼めで茂次しげじを見みた、「――でもどうして、いまになってそんな古ふるいことを云いいだすんですか」

「古いにしえかねえさ」と茂次しげじが云いった。

古ふるいことではない、いまでもその言葉ことばが耳みみについている、という顔かおつきで、茂次しげじは飯めしをたべ始はじめた。

それから五ご六むい日か、おりつは心こころたのしい時ときをすごした。茂次しげじに云いわれて思おもいだしたのであるが、あのとき彼女かのじょはそう云いおうとしたのである。言葉ことばはそのままではなかったろう、口くちに出ださなかったのだからわからないが、茂次しげじの頑固がんこさに肚はらが立たって、そんなようなことを云いってやりたかった。

――そうよ、そんなふうなことを云いってやりたかったのよ。とおりつは思おもった。でもよく覚おぼえていたものだ、こっちで云いいもしないことを、あんなふうに覚おぼえているなんてふしぎだ。小ちいさいじぶんあたしをぶったこともちゃんと覚おぼえていてくれたし、いつか重吉じゅうきちがあたしに悪態あくたいをついたのを聞きいて、心配しんぱいしてくれたこともある。そうだ、「おゆうさんとうまくいかなかったらそう云いってくれ」と云いったこともあった。そのほかにもいちいちは数かぞえられないが、自分じぶんに対たいしてこまかく気きを遣つかってくれる。口くちは重おもいしぶっきらぼうだけれど、やさしい劬いたわりがそのはしはしに感かんじられる。

――本当ほんとうはおゆうちゃんよりもあたしのほうが好すきなのかもしれないわ。

そう思おもうなりおりつは首くびを振ふった。好すきにもいろいろある、ばかなことを考かんがえるものではない。茂次しげじの嫁よめはおゆうにきまっているのだ。育そだちでも教養きょうようでも縹緻きりょうでも、おゆうこそ「大おお留とめ」の主婦しゅふにふさわしい、自分じぶんなんかが逆立さかだちをしたって及およぶものではない。うそにもそんなことを思おもってはいけない、とおりつは自分じぶんをたしなめるのであった。

或ある夜よる、――寝床ねどこの中なかへはいってから、おりつは同おなじようなことを考かんがえ、あやされるような、かなしいような気分きぶんにひたりながら、おゆうが嫁よめに来きたら、自分じぶんはこの家いえを出でてゆくのだ、などと気負きおった想像そうぞうで自分じぶんをあまやかしていたが、まもなく、廊下ろうかにかすかなもの音おとがするのを聞きいて、どきっとし、息いきをひそめた。

時刻じこくは十じゅう一いち時じにちかいだろう、みんな寝ねしずまっているから、ずいぶん足音あしおとを忍しのばせているらしいが、廊下ろうかをこちらへ、誰だれかの歩あゆみよって来くるのがよくわかった。

Next chapter →
Click a word · hold for the whole sentence 0%