茂次は重吉のそばへゆき、つとめてやさしく頬笑みかけた。
「重公」と彼は云った、「懲りたか」
重吉はふるえながら、「ごめんなさい」と云って泣きだした。茂次は重吉の肩へ手をやり、軽く二三度叩いてやった。
「泣くな、男だろう」と茂次は云った、「悪かったと思ったら二度としなければいいんだ、みんなもそうだぞ、わかったろうな」
子供たちが一斉に頷き、重吉は激しく泣いた。おりつが駆けよって来て、重吉を抱いてやり、重吉は泣きながら、もうしません、ごめんなさいと叫んだ。すると、あっちゃんが市の腕の中で、「ごめんなさい」と云って泣きだしたので、茂次は途方にくれたようにおりつを見た。
「いって下さい」とおりつはめまぜをしながら云った、「すぐに御飯を持っていきます」
茂次は廊下へ出ていった。
夕飯の膳を持って来たとき、おりつは「蜜柑の代を払った」と告げた。徳二郎が受取らないので、ちょうどなくなっていたから蜜柑を二た箱買った。重吉が取ったのは二つだから、おつりがくるくらいだと思う、とおりつは云った。
「その話はよせ」と茂次は乱暴に云った、「それから、今日のことは二度と口にするなって子供たちによく云っといてくれ」
そして箸を取ったが、ふと思いだしたように、彼はおりつを見た。
「あのときおめえなにを云おうとしたんだ」
「あのときって」
「子供たちのことで初めて話したときよ、おれが子供たちは置けねえと云ったとき、おめえはなにか云いかけた、おれのことを睨んでなにか云おうとして、云うのをやめて立っていったことがある、忘れたか」
「おどろいた」とおりつが眼をみはった、「ずいぶんもの覚えがいいのね」
「なにを云おうとしたんだ」
「さあ、なんだったかしら」おりつはかぶりを振った、「覚えていないようよ、でも、どうしてそんなこと気になさるの」
「こう云おうとしたんじゃあないのか」と茂次が云った、「おれがあの子供たちでなくってよかったって、――そうだろう」
「まさか、いくらなんだって」とおりつは眼をそらしながら云った、「あたしそんなことを云えやしませんわ」
「だから云わずに立っていったんだ」
「まさかそんな」とおりつは眩しそうな眼で茂次を見た、「――でもどうして、いまになってそんな古いことを云いだすんですか」
「古かねえさ」と茂次が云った。
古いことではない、いまでもその言葉が耳についている、という顔つきで、茂次は飯をたべ始めた。
それから五六日、おりつは心たのしい時をすごした。茂次に云われて思いだしたのであるが、あのとき彼女はそう云おうとしたのである。言葉はそのままではなかったろう、口に出さなかったのだからわからないが、茂次の頑固さに肚が立って、そんなようなことを云ってやりたかった。
――そうよ、そんなふうなことを云ってやりたかったのよ。とおりつは思った。でもよく覚えていたものだ、こっちで云いもしないことを、あんなふうに覚えているなんてふしぎだ。小さいじぶんあたしをぶったこともちゃんと覚えていてくれたし、いつか重吉があたしに悪態をついたのを聞いて、心配してくれたこともある。そうだ、「おゆうさんとうまくいかなかったらそう云ってくれ」と云ったこともあった。そのほかにもいちいちは数えられないが、自分に対してこまかく気を遣ってくれる。口は重いしぶっきらぼうだけれど、やさしい劬りがそのはしはしに感じられる。
――本当はおゆうちゃんよりもあたしのほうが好きなのかもしれないわ。
そう思うなりおりつは首を振った。好きにもいろいろある、ばかなことを考えるものではない。茂次の嫁はおゆうにきまっているのだ。育ちでも教養でも縹緻でも、おゆうこそ「大留」の主婦にふさわしい、自分なんかが逆立ちをしたって及ぶものではない。うそにもそんなことを思ってはいけない、とおりつは自分をたしなめるのであった。
或る夜、――寝床の中へはいってから、おりつは同じようなことを考え、あやされるような、かなしいような気分にひたりながら、おゆうが嫁に来たら、自分はこの家を出てゆくのだ、などと気負った想像で自分をあまやかしていたが、まもなく、廊下にかすかなもの音がするのを聞いて、どきっとし、息をひそめた。
時刻は十一時にちかいだろう、みんな寝しずまっているから、ずいぶん足音を忍ばせているらしいが、廊下をこちらへ、誰かの歩みよって来るのがよくわかった。