← Library‹ ちいさこべ 七

おりつは「おゆうさんのことですか」と訊きき返かえし、茂次しげじが黙だまっているのを見みて、きっぱりとかぶりを振ふった。

「ほかのことはともかく」とおりつは云いった、「あたしは明あきめくらだし、行儀ぎょうぎ作法さほうもよくは知しらないんですから、そのほうはおゆうさんにやってもらいたいと思おもうんです」

「ほんとだな」と茂次しげじがだめを押おした。

「ほんとうです」

「そんならいい」と茂次しげじは頷うなずいた、「――もしうまくいかなかったら、そう云いってくれ」

二人ふたりが顔かおを合あわせたときから、こいつはまずいぞ、と茂次しげじは思おもった。おゆうはさりげなくふるまっていたが、おりつの表情ひょうじょうには反感はんかんとねたみがはっきりあらわれた。気きの強つよい点てんでは負まけず劣おとらずだが、そだちや教養きょうようでは格段かくだんに違ちがうから、おりつがそれをひけめに感かんじ、反感はんかんやねたみを唆そそられるのはやむを得えまい。ことに三十さんじゅう余日よじつのあいだ、馴なれない手てで面倒めんどうをみてきて、ようやく子供こどもたちがなついたところである。どうかするとおゆうに子供こどもたちを横取よこどりされる、という気持きもちも起おこるだろう。いずれにしてもうまくはゆくまいと、思おもったのであるが、日ひが経たっても、そんなようすはみえなかった。茂次しげじは月つきに二に度どの休やすみ以外いがい、ひるまはうちにいないので、おゆうと会あう機会きかいは殆ほとんどない。けれども、毎晩まいばんおりつが話はなすから、その日ひあったことはおよそ知しることができた。おりつの話はなしはおゆうのことが中心ちゅうしんであり、それがたいていおゆうを褒ほめ、おゆうについて感心かんしんしたことばかりであった。

「あたしおゆうさんに字じを教おしえてもらおうと思おもうの」と或ある夜よるおりつが云いった、「明日あすっから子供こどもたちといっしょに始はじめるつもりよ」

茂次しげじは信しんじかねるようにおりつを見みた。

「人間にんげんは学問がくもんが大切たいせつだって、あたしつくづくそう思おもったのよ」とおりつは茂次しげじを見返みかえして云いった、「若わか棟梁とうりょうはちいさこべって知しってるわね」

「なんのこった」

「ちいさこべよ、知しってるんでしょ」

茂次しげじは黙だまって首くびを振ふった。

「うそ」とおりつが云いった、「ほら、ずっとむかしのなんとかっていう天皇てんのうのときに、よその子こをたくさん集あつめてきた人ひとがいるじゃないの」

「それがどうしたんだ」

「それがちいさこべよ、知しってるんじゃないの」

「どうしてそれがちいさこべなんだ」

「天皇てんのうはね、お蚕こさまを集あつめて来こいって仰おっしゃったんですって、天皇てんのうだからさまは付つけないで、ただこって呼よびすてにするでしょ、おかいこがしたかったので、こを集あつめて来こいって仰おっしゃったら、その人ひとよその子こをうんとこさ集あつめて来きたのよ、それで天皇てんのうが笑わらって、ちいさこべのすがる、っていう名なをお付つけになったんですって、そうでしょ」とおりつが云いった、「だからここのうちもちいさこべだって、おゆうさんが云いうの、いっそちいさこ部屋へやって呼よべばいいって、――そんな大昔おおむかしの話はなしがすぐ出でてくるんですもの、やっぱり学問がくもんがなければだめだって思おもっちゃったわ」

「仮名かなの読よみ書かきぐらいできるほうがいいが」と茂次しげじが云いった、「学問がくもんまですることはねえさ」

「あら、読よみ書かきと学問がくもんは違ちがうの」

「誰だれか泣ないてるぜ」と茂次しげじが云いった、「あつぼうじゃねえのか」

おりつは首くびをかしげ、「あっちゃんらしいわ」と云いいながら立たっていった。

十じゅう一いち月がつの中旬ちゅうじゅんに、うちの建たて増ましをした。仕事しごとの関係かんけいで、泊とまり込こむ職人しょくにんが二人ふたりふえたし、そうでなくとも子供こどもたちといっしょでは、どっちのためにも具合ぐあいが悪わるいからである。おりつのいる勝手かってと四よん帖じょう半はんも少すこしひろげ、子供こどもたちの部屋へやは十じゅう二に帖じょうにし、次つぎに職人しょくにんたちのために六ろく帖じょうを二ふたつ、端はしの茂次しげじの部屋へやも八はち帖じょうにした。これがひとかわに横よこに並ならび、南側みなみがわに縁側えんがわをとおした。大おお六ろくと助じょ二郎じろうは「本ほん普請ふしんにしたらどうか」とすすめたが、茂次しげじはとりあわなかった。――すると、その建たて増ましを待まってでもいたように、じっ平たいらにさそわれて逃にげた子供こどものうち、富とみと広治ひろじという二人ふたりが戻もどって来きた。富とみは九きゅう歳さい、広治ひろじは八はち歳さいで、二人ふたりとも乞食こじきのような姿すがたをしており、垢あかだらけで、虱しらみがたかっていた。かれらは暗くらくなってから、空地くうちに佇たたずんでいるのをおりつにみつけられ、おりつがびっくりして呼よびかけると、かれらはおりつにとびつき「ごめんなさい」と云いって泣なきだした。

「あたしわれ知しらずぶっちゃったわ」とおりつは茂次しげじにそう云いった、「二人ふたりのお尻しりのところをぴしゃぴしゃって、――うれしいようなくやしいような、自分じぶんでもわけのわからない気持きもちで、ただもうかっとなっちゃったのよ」

茂次しげじは頷うなずいた。

「わるいわね」とおりつがそっと茂次しげじを見みながら云いった、「また厄介やっかい者しゃがふえちゃって」

「建たて増ましといてよかった」と茂次しげじは云いった、「当分とうぶんたべ物ものに気きをつけるんだな、飢うえていた人間にんげんにいきなり腹はらいっぱい食くわせると、躯むくろをこわすっていうぜ」

「ええ」とおりつは頷うなずいた、「二人ふたりとも手足てあしが竹たけぼっ杭くいみたいで、おなかばかり蛙かわずのようにふくらんでるの」

「竹ちくぼっ杭くいだって」

おりつはすぐに気きづいて、まあと恥はずかしそうに笑わらった、「あれは焼やけぼっ杭くいか」

「ちょっと訊きくが」と茂次しげじがおりつを見みながら云いった、「おゆうさんとはうまくいってるのか」

おりつは微笑びしょうした。

「あたしもういろはを半分はんぶんも書かけるわ、どうしてそんなこと訊きくの」

「こないだ晩飯ばんめしのときに、子供こどもたちの誰だれかがおまえに悪態あくたいをついてた、はっきり聞きこえたわけじゃあないが、おりつなんかいなくってもおゆうさんのねえさんがいるからいいって、そう云いうのが聞きこえたんだ」

「重吉じゅうきちでしょ」とおりつはあっさり云いった、「子供こどもってすぐあんなことを云いいたいのね、しょっちゅうだけれど、しんからそう思おもって云いうわけじゃないのよ」

「それならいいんだ」と茂次しげじは頷うなずいた、「それがわかっていればいいんだ」

おりつは立たとうとしたがまた坐すわって、「ねえ」と声こえを低ひくくした。

「あたし困こまってることがあるの」

茂次しげじは黙だまってあとを待まった。

「こんなこと云いいたくないんだけれど」

「おゆうさんか」

おりつは強つよくかぶりを振ふって、「菊二きくじのことなの」と云いった。茂次しげじは訝いぶかしそうに、おりつの顔かおを見みた。おりつは赤あかくなって、菊二きくじという子こがいやらしいそぶりをすると話はなした。洗濯せんたくをしていると向むかうからみつめるし、干ほし物ものをするときなど腋わきの下したを見みたりするようである。朝あさ早はやく、おりつが着替きがえをしているさいちゅうに「お早はよう」と云いっていきなり障子しょうじをあけることもあるし、とにかくいつもどこからかおりつを見みまもっており、それが子供こどもらしい感かんじはなく、みだらなおとなの眼めつきのように思おもえる、というのであった。

「菊二きくじっていうのはいちばん大おおきな子こだな」と茂次しげじが訊きいた、「年ねんは幾いくつだっけ」

「十じゅう一いちって云いってるけれど、本当ほんとうは十じゅう二にか三さんくらいになるんじゃないかと思おもうわ」

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