おりつは「おゆうさんのことですか」と訊き返し、茂次が黙っているのを見て、きっぱりとかぶりを振った。
「ほかのことはともかく」とおりつは云った、「あたしは明きめくらだし、行儀作法もよくは知らないんですから、そのほうはおゆうさんにやってもらいたいと思うんです」
「ほんとだな」と茂次がだめを押した。
「ほんとうです」
「そんならいい」と茂次は頷いた、「――もしうまくいかなかったら、そう云ってくれ」
二人が顔を合わせたときから、こいつはまずいぞ、と茂次は思った。おゆうはさりげなくふるまっていたが、おりつの表情には反感とねたみがはっきりあらわれた。気の強い点では負けず劣らずだが、そだちや教養では格段に違うから、おりつがそれをひけめに感じ、反感やねたみを唆られるのはやむを得まい。ことに三十余日のあいだ、馴れない手で面倒をみてきて、ようやく子供たちがなついたところである。どうかするとおゆうに子供たちを横取りされる、という気持も起こるだろう。いずれにしてもうまくはゆくまいと、思ったのであるが、日が経っても、そんなようすはみえなかった。茂次は月に二度の休み以外、ひるまはうちにいないので、おゆうと会う機会は殆んどない。けれども、毎晩おりつが話すから、その日あったことはおよそ知ることができた。おりつの話はおゆうのことが中心であり、それがたいていおゆうを褒め、おゆうについて感心したことばかりであった。
「あたしおゆうさんに字を教えてもらおうと思うの」と或る夜おりつが云った、「明日っから子供たちといっしょに始めるつもりよ」
茂次は信じかねるようにおりつを見た。
「人間は学問が大切だって、あたしつくづくそう思ったのよ」とおりつは茂次を見返して云った、「若棟梁はちいさこべって知ってるわね」
「なんのこった」
「ちいさこべよ、知ってるんでしょ」
茂次は黙って首を振った。
「うそ」とおりつが云った、「ほら、ずっとむかしのなんとかっていう天皇のときに、よその子をたくさん集めてきた人がいるじゃないの」
「それがどうしたんだ」
「それがちいさこべよ、知ってるんじゃないの」
「どうしてそれがちいさこべなんだ」
「天皇はね、お蚕さまを集めて来いって仰しゃったんですって、天皇だからさまは付けないで、ただこって呼びすてにするでしょ、おかいこがしたかったので、こを集めて来いって仰しゃったら、その人よその子をうんとこさ集めて来たのよ、それで天皇が笑って、ちいさこべのすがる、っていう名をお付けになったんですって、そうでしょ」とおりつが云った、「だからここのうちもちいさこべだって、おゆうさんが云うの、いっそちいさこ部屋って呼べばいいって、――そんな大昔の話がすぐ出てくるんですもの、やっぱり学問がなければだめだって思っちゃったわ」
「仮名の読み書きぐらいできるほうがいいが」と茂次が云った、「学問まですることはねえさ」
「あら、読み書きと学問は違うの」
「誰か泣いてるぜ」と茂次が云った、「あつぼうじゃねえのか」
おりつは首をかしげ、「あっちゃんらしいわ」と云いながら立っていった。
十一月の中旬に、うちの建て増しをした。仕事の関係で、泊り込む職人が二人ふえたし、そうでなくとも子供たちといっしょでは、どっちのためにも具合が悪いからである。おりつのいる勝手と四帖半も少しひろげ、子供たちの部屋は十二帖にし、次に職人たちのために六帖を二つ、端の茂次の部屋も八帖にした。これがひとかわに横に並び、南側に縁側をとおした。大六と助二郎は「本普請にしたらどうか」とすすめたが、茂次はとりあわなかった。――すると、その建て増しを待ってでもいたように、じっ平にさそわれて逃げた子供のうち、富と広治という二人が戻って来た。富は九歳、広治は八歳で、二人とも乞食のような姿をしており、垢だらけで、虱がたかっていた。かれらは暗くなってから、空地に佇んでいるのをおりつにみつけられ、おりつがびっくりして呼びかけると、かれらはおりつにとびつき「ごめんなさい」と云って泣きだした。
「あたしわれ知らずぶっちゃったわ」とおりつは茂次にそう云った、「二人のお尻のところをぴしゃぴしゃって、――うれしいようなくやしいような、自分でもわけのわからない気持で、ただもうかっとなっちゃったのよ」
茂次は頷いた。
「わるいわね」とおりつがそっと茂次を見ながら云った、「また厄介者がふえちゃって」
「建て増しといてよかった」と茂次は云った、「当分たべ物に気をつけるんだな、飢えていた人間にいきなり腹いっぱい食わせると、躯をこわすっていうぜ」
「ええ」とおりつは頷いた、「二人とも手足が竹ぼっ杭みたいで、おなかばかり蛙のようにふくらんでるの」
「竹ぼっ杭だって」
おりつはすぐに気づいて、まあと恥ずかしそうに笑った、「あれは焼けぼっ杭か」
「ちょっと訊くが」と茂次がおりつを見ながら云った、「おゆうさんとはうまくいってるのか」
おりつは微笑した。
「あたしもういろはを半分も書けるわ、どうしてそんなこと訊くの」
「こないだ晩飯のときに、子供たちの誰かがおまえに悪態をついてた、はっきり聞えたわけじゃあないが、おりつなんかいなくってもおゆうさんのねえさんがいるからいいって、そう云うのが聞えたんだ」
「重吉でしょ」とおりつはあっさり云った、「子供ってすぐあんなことを云いたいのね、しょっちゅうだけれど、しんからそう思って云うわけじゃないのよ」
「それならいいんだ」と茂次は頷いた、「それがわかっていればいいんだ」
おりつは立とうとしたがまた坐って、「ねえ」と声を低くした。
「あたし困ってることがあるの」
茂次は黙ってあとを待った。
「こんなこと云いたくないんだけれど」
「おゆうさんか」
おりつは強くかぶりを振って、「菊二のことなの」と云った。茂次は訝しそうに、おりつの顔を見た。おりつは赤くなって、菊二という子がいやらしいそぶりをすると話した。洗濯をしていると向うからみつめるし、干し物をするときなど腋の下を見たりするようである。朝早く、おりつが着替えをしているさいちゅうに「お早う」と云っていきなり障子をあけることもあるし、とにかくいつもどこからかおりつを見まもっており、それが子供らしい感じはなく、みだらなおとなの眼つきのように思える、というのであった。
「菊二っていうのはいちばん大きな子だな」と茂次が訊いた、「年は幾つだっけ」
「十一って云ってるけれど、本当は十二か三くらいになるんじゃないかと思うわ」