焼けたのは日本橋吉川町の「魚万」で、殆んど普請が終りかかっていたのを、きれいに、焼けてしまったのである。これは「大留」にとって大きな痛手だった。料理茶屋だからというだけでなく、客筋とあるじ万兵衛の好みとで、木口はもちろん、すべてに高価な材料が使ってあった。それがすっかり灰になった。出来あがって引渡してからならべつだが、まだこっちの手をはなれていないから、損害は「大留」が負担しなければならない。屋根屋、左官、建具屋などにも、払うものは「大留」が払わなければならないのである。
そこの宰領をしていたのは藤造で、茂次たちといっしょに焼け跡を見廻りながら、「どうしよう」と、まるでのぼせあがったようになっていた。
「もらい火でよかった」と茂次は云った、「自火なら手がうしろへまわるところだ」
そして「魚万」を訪ねた。これは通りの向うの仮小屋で、幸い焼けずに残っていたが、茂次は万兵衛に会って、すぐ再普請にかかると云った。藤造の脇にいた大六と助二郎は、あっという顔で茂次を見たし、万兵衛も意外だったらしく、それはちょっと無理ではないか、と云いかけたが、茂次は大丈夫やると、あっさり云った。
「但し一つお願いがあります」と茂次は続けた、「正直に云いますが、これまで手いっぱいにやって来ましたから、材料を吟味するゆとりがありません、大留が立ち直ったら、改めて普請を仕直すということにして、お気にいらないところがあっても、こんどは眼をつぶってもらいたいんです」
「私のほうはむろんそれでいいが」と万兵衛はまだ信じきれないようすで云った、「しかし本当にむりじゃあないのかい」
茂次はそれには答えずに、「お願いします」と云った。
うちへ帰る途中、大六たちはなにか囁きあっていたが、帰るなり、三人で「話がある」ときりだした。茂次は聞くまでもない、よけいなことは云うなと云った。だが、三人は再普請が不可能なことを、代る代る主張した。こっちが火災でやられたあとであるし、魚万でもその事情は知っている。ここは手付の金を返してあやまるほうがいい。それが順当だと云った。
茂次は「おやじもそうするか」とかれらに訊き返した。
「しかし」と大六が云った、「いまは棟梁の代じゃあない、棟梁はもう亡くなった人だし、若棟梁は高輪やあべ川町はじめ、同業のつきあいまで断わんなすった、助け手といったら木場の和七ぐらいなもので、それで棟梁の代と同じようにやってけると思うんですか」
「おれはそんなこたあ云わねえ、ただ、こういう場合におやじもあやまるかどうか、って訊いてるんだ、あやまると思うか」
「そりゃ、けれども事情てえものがまるで違うから」
「そんならどうして普請を請負った」と茂次は云った、「火事でまる焼けになりおやじも死んだ、そんな中で三つも大きな普請を請負うなんて、初めからむりなこった、おれに云ってくれれば断わったんだ、高輪なりあべ川町なりに肩替りをしてもらい、まずひとおちつきしてからのことにしただろう、けれども、――留守のおめえたちは大留を立て直す一心で請負った、その気持がわかるからむりだとは思ったがなんにも云わなかったんだ」
三人は頭を垂れた。
「これこれの家を建てますと請負ったら、約定どおり家を建てて、普請ぬしに引渡すのが棟梁の仕事だ」と茂次は云った、「こっちが手詰りになったからといって途中であやまるなんてまねは、おやじは一遍だってやったこたあありゃあしねえ、おれはまだ若ぞうだがおやじの伜だ、べらぼうめ、このくらいのこって音をあげてたまるか」
そしてすぐに、「ついでだから云っておこう」と調子を変え、高輪やあべ川町、同業なかまから町内の義理づきあいを断ったのは、単にかた意地ではなく、みんなの厄介になりたくないためである、と云った。「大留」時代の古い関係をそのまま続けていれば、かれらは義理でも助力しなくてはなるまい。それはかれらにとっても軽い負担ではないだろうし、こっちにとっては一生の荷になる。他人の助力で立ち直るなどということは、死んだおやじもよろこぶまいし、自分たちだって恥ずかしい。つきあいを断わったのはこういうわけだから、覚えていてくれ、と茂次は云った。
三人は顔を見あわせた。かれらの顔はいま冷たい水で洗ったばかりのような、すがすがしい色をしており、藤造は微笑さえうかべていた。
「もう一つよけいなことを訊きますが」と大六が云った、「金のくめんはどうします」
「そんなことを気にするな」
「あっしどもでなにかすることはありませんか」
「仕事のほうを頼む」と茂次が云った、「金のほうは大丈夫だ」
それから、火事でいっしょに死んだ二人の職人、銀二と倉太の七十五日をしてやりたいから、かれらの親元をしらべておくように、と助二郎に云った。
その日、夕飯のあとで、茂次は福田屋を訪ねた。仮に庇へあげておいた「大留」の看板を包んで持ち、店のほうからはいって、あるじの久兵衛に会いたいと云った。店には番頭の伊助がいて、いま奥では食事ちゅうだが、こんなところから来ずに奥へじかにいってくれ、と云った。だが茂次は「今夜は店の客なんだ」と答え、店の次にある小部屋、――そこはほかの客と顔の合うのを嫌う者のために使うのだが、その小部屋へとおって待った。小僧が知らせたのだろう、まもなくおゆうが茶を持って来た。
「いらっしゃい、どうしてこんなところに頑張ってるの」
「旦那に用があるんだ」
「旦那だなんて、いやな人」とおゆうはにらんだ、「いったいどうしたの、なぜこんな他人行儀なことをするのよ」
茂次はむっとした顔でおゆうを見た。おゆうは唇で微笑しながら頷いた。
「いいわよ」と彼女は立ちあがった、「あんたってずいぶん我が強いのね」
茂次はなにも云わなかった。おゆうが出ていって暫くすると、自分の茶呑み茶碗を持って久兵衛が来、そこへ坐りながら、「吉川町の普請場が焼けたそうだな」と云った。
「そのことで頼みがあって来たんです」そう云って、茂次はきちんとかしこまった。