← Library‹ 泥棒と若殿 十

「おぼしめしどおり市井しせいのひととなり、御意ぎょいのままにお暮くらしなされば、御身おんみおひとつなんのお心こころづかいもなく、無事ぶじ安穏あんのんにおすごしあそばすことができましょう、しかしそれだけでようございましょうか、御ご自分じぶんだけ気きまま安楽あんらくにおすごしあそばせば、他たのことはどうなろうと構かまわぬ、そうお思おもいなされますか」

久左衛門きゅうざえもんの眼めはきらきらと光ひかった。

「ただいまそのほうどもの傀儡くぐつと仰おおせられましたが、このたびの御ご継嗣けいし問題もんだいでは三さん名めいの者ものが切腹せっぷくしております、梶田かじたどのをはじめ同志どうしの者ものども、みないのちをなげだし、肝胆かんたんを砕くだいて奔走ほんそういたしました、――こんにちまでの若殿わかとののながい御ご艱難かんなんは、申もうすもおそれおおいしだいですが、われらもまた死しぬ覚悟かくごでやってまいったのです、……滝沢たきざわどの一いち党とうが兵部へいぶさま御ご相続そうぞくをしいましたのは、おそれながら御ご瘋疾しつにわたらせらるるを幸さいわい、おのれの権勢けんせいをほしいままにし、専制せんせい、事ことをおこなう手段しゅだんでございました」

しだいに声こえが激はげしく、調子ちょうしもぐんぐん強つよくなった。

「これまでも滝沢たきざわどの一いち党とうの専断せんだんは眼めにあまるものがあり、大殿おおとのにもよほど御ご心痛しんつうあそばされたとうかがっております、兵部へいぶさま御ご瘋疾しつのあとより、若殿わかとのを御ご世子せいしになおし、それによって重職じゅうしょくの交替こうたいと、政治せいじの更新こうしんとを御ご思案しあんあったと承うけたまわりました、――さればこそ梶田かじたどのはじめわれら同志どうしの者ものは、骨ほねを砕くだき肉にくを削けずるおもいでやってまいったのです、御お家いえのため、政治せいじを建たてなおすため、ひいては七なな万まん五千ごせん石こくの領民りょうみんのために、……そうしてようやく今日きょうという時ときがまいりました、この日ひのためにみな身命しんみょうをなげだして働はたらいたのです、――若殿わかとの、こなたさまはこれらの者ものを捨すてて、自分じぶんおひとりだけ安穏あんのんに暮くらしたいとおぼしめしますか」

いつか成せい信しんは眼めを伏ふせていた。久左衛門きゅうざえもんは声こえをやわらげ、そっと息いきをついて続つづけた。――人間にんげんには身分みぶんのいかんを問とわずそれぞれの責任せきにんがある、庶民しょみんには庶民しょみんの、侍さむらいには侍さむらいの、そして領主りょうしゅには領主りょうしゅの、それぞれが各自かくじの責任せきにんを果はたしてこそ世よのなかが動うごいてゆく。領主りょうしゅとなって一いち藩はんの家臣かしんをたばね、領民りょうみんの生活せいかつをやすんずるよき政治せいじを執とるということは、市井しせいのひとになるよりは困難こんなんで苦くるしい。しかし大殿おおとのも先さき大殿おおとのも、その苦くるしい困難こんなんな責任せきにんを果はたされた。……気きまま安楽あんらくに生いきたいと思おもうまえに、自分じぶんの責任せきにんということも考かんがえなければならぬであろう。われわれ同志どうしばかりでなく、一いち藩はんをあげてあなたを待まっている。みんな手てをさしのべるおもいで待まっているのである。――久左衛門きゅうざえもんはこう云いって、涙なみだでうるんだ眼めでじっとこちらを見みまもった。

「お帰かえり下ください、若殿わかとの、お願ねがいでございます」

眼めを伏ふせたまま成せい信しんはやや暫しばらく黙だまっていた。さっきからみると頬ほおがこけ、眉まゆのあたりに一種いっしゅの気宇きうのあらわれがみえる、彼かれはやがて静しずかに顔かおをあげ、あるかなきかに頷うなずきながら云いった。

「――わかった、城しろへ帰かえろう」

それが聞きこえたのだろう、前栽せんざいの脇わきにつくばっていた四よん人にんの者もの達たちが、いっせいに芝しばの上うえへ手てをつき、耐たえかねた様ように、啜すすり泣なきの声こえをあげた。

「――伝九郎でんくろうはおれにとっては、恩人おんじんともいうべき者ものだ、ゆくすえをくれぐれも頼たのむ」

「必かならず御意ぎょいどおりにつかまつります」

「――おれは明日あすひとりで帰かえる、彼かれとひと夜よるなごりをおしみたい、今日きょうはこれでひきとるように」

成せい信しんはかれらが去さってからも、ながいことそこに坐すわっていた。それから庭にわへ出でてゆき、荒あれはてた邸内ていないをあちらこちら歩あるき廻まわった。彼かれの相貌そうぼうはひきしまり、あたりを見廻みまわす眼めには強つよい意志いしのいろがあらわれた。

「――伝でん九きゅう、……おれは帰かえるよ」

口くちのなかでそっと呟つぶやき、風かぜのわたる晴はれあがった空そらへと、かなしげに眼めをやった。

伝九郎でんくろうが帰かえって来きたとき、成せい信しんは竈へっついで汁しるを拵こしらえていた。頭あたまから灰はいまみれで、煙けむりにまかれたのだろう、眼めのまわりを黒くろく汚よごしていた。伝九郎でんくろうはびっくりし、とんで来きて、彼かれの手てから火ひ吹ふき竹だけをひったくった。

「なにをこんな、おめえがなにもこんなことをするこたあねえじゃねえか、冗談じょうだんじゃねえ、お天気てんきが変へんらあ」

「――今日きょうはおれがするよ、わけがあるんだ」

「わけがあったっておめえに出来できるこっちあねえ、おれが代かわるから向むこうへいって」

「――いや、もう済すんだんだ」

成せい信しんは鍋なべの蓋ふたをとり、笊ざるにあげてあった刻きざみ大根だいこんを入いれた。

「――飯めしも炊たけたし、魚さかなも焼やいてある」

「こいつあびっくり仰天ぎょうてんだ、冗談じょうだんじあねえ、せっかく続つづいていた日和ひよりが、これできっとおじゃんになるぜ」

「――まあ足あしを洗あらえ、そして飯めしにしよう」

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