「おぼしめしどおり市井のひととなり、御意のままにお暮しなされば、御身おひとつなんのお心づかいもなく、無事安穏におすごしあそばすことができましょう、しかしそれだけでようございましょうか、御自分だけ気まま安楽におすごしあそばせば、他のことはどうなろうと構わぬ、そうお思いなされますか」
久左衛門の眼はきらきらと光った。
「ただいまそのほうどもの傀儡と仰せられましたが、このたびの御継嗣問題では三名の者が切腹しております、梶田どのをはじめ同志の者ども、みないのちをなげだし、肝胆を砕いて奔走いたしました、――こんにちまでの若殿のながい御艱難は、申すもおそれおおいしだいですが、われらもまた死ぬ覚悟でやってまいったのです、……滝沢どの一党が兵部さま御相続をしいましたのは、おそれながら御瘋疾にわたらせらるるを幸い、おのれの権勢をほしいままにし、専制、事をおこなう手段でございました」
しだいに声が激しく、調子もぐんぐん強くなった。
「これまでも滝沢どの一党の専断は眼にあまるものがあり、大殿にもよほど御心痛あそばされたとうかがっております、兵部さま御瘋疾のあとより、若殿を御世子になおし、それによって重職の交替と、政治の更新とを御思案あったと承わりました、――さればこそ梶田どのはじめわれら同志の者は、骨を砕き肉を削るおもいでやってまいったのです、御家のため、政治を建てなおすため、ひいては七万五千石の領民のために、……そうしてようやく今日という時がまいりました、この日のためにみな身命をなげだして働いたのです、――若殿、こなたさまはこれらの者を捨てて、自分おひとりだけ安穏に暮したいとおぼしめしますか」
いつか成信は眼を伏せていた。久左衛門は声をやわらげ、そっと息をついて続けた。――人間には身分のいかんを問わずそれぞれの責任がある、庶民には庶民の、侍には侍の、そして領主には領主の、それぞれが各自の責任を果してこそ世のなかが動いてゆく。領主となって一藩の家臣をたばね、領民の生活をやすんずるよき政治を執るということは、市井のひとになるよりは困難で苦しい。しかし大殿も先大殿も、その苦しい困難な責任を果された。……気まま安楽に生きたいと思うまえに、自分の責任ということも考えなければならぬであろう。われわれ同志ばかりでなく、一藩をあげてあなたを待っている。みんな手をさしのべるおもいで待っているのである。――久左衛門はこう云って、涙でうるんだ眼でじっとこちらを見まもった。
「お帰り下さい、若殿、お願いでございます」
眼を伏せたまま成信はやや暫らく黙っていた。さっきからみると頬がこけ、眉のあたりに一種の気宇のあらわれがみえる、彼はやがて静かに顔をあげ、あるかなきかに頷ずきながら云った。
「――わかった、城へ帰ろう」
それが聞えたのだろう、前栽の脇につくばっていた四人の者達が、いっせいに芝の上へ手をつき、耐えかねた様に、啜り泣きの声をあげた。
「――伝九郎はおれにとっては、恩人ともいうべき者だ、ゆくすえをくれぐれも頼む」
「必らず御意どおりにつかまつります」
「――おれは明日ひとりで帰る、彼とひと夜なごりをおしみたい、今日はこれでひきとるように」
成信はかれらが去ってからも、ながいことそこに坐っていた。それから庭へ出てゆき、荒れはてた邸内をあちらこちら歩き廻った。彼の相貌はひきしまり、あたりを見廻す眼には強い意志のいろがあらわれた。
「――伝九、……おれは帰るよ」
口のなかでそっと呟やき、風のわたる晴れあがった空へと、かなしげに眼をやった。
伝九郎が帰って来たとき、成信は竈で汁を拵えていた。頭から灰まみれで、煙にまかれたのだろう、眼のまわりを黒く汚していた。伝九郎はびっくりし、とんで来て、彼の手から火吹き竹をひったくった。
「なにをこんな、おめえがなにもこんなことをするこたあねえじゃねえか、冗談じゃねえ、お天気が変らあ」
「――今日はおれがするよ、わけがあるんだ」
「わけがあったっておめえに出来るこっちあねえ、おれが代るから向うへいって」
「――いや、もう済んだんだ」
成信は鍋の蓋をとり、笊にあげてあった刻み大根を入れた。
「――飯も炊けたし、魚も焼いてある」
「こいつあびっくり仰天だ、冗談じあねえ、せっかく続いていた日和が、これできっとおじゃんになるぜ」
「――まあ足を洗え、そして飯にしよう」