← Library‹ 泥棒と若殿 五

うす暗ぐらくなってから男おとこが帰かえって来きた。

「おう今いまけえったぜ」男おとこは広縁ひろえんのところからそう叫さけんだ、「おそくなっちまった、腹はらが減へったろう、いますぐ飯めしにするからな」

裏うらへまわってゆく男おとこのうしろ姿すがたをみおくりながら、成せい信しんはふと胸むねの温おんたまるような感動かんどうをさそわれた、自分じぶんでは理解りかいしがたい、温ぬくたかく胸むねのうるおうような感動かんどうである。彼かれは久ひさしぶりで机つくえに向むい、それへ両肱りょうひじをついて、厨くりや口くちのもの音おとをなつかしいような気持きもちで聞きいていた。

食膳しょくぜんは味噌みそ汁しると飯めしのほかに、鉢はちいっぱいの梅干うめぼしが出でていた。

「これもみんな買かって来きたものか」

「よせやい、いやなことを云いうな」男おとこは眼めを三角さんかくにし、口くちをとがらした、「にんげんひとり抱かかえて、おめえ、泥棒どろぼうなんぞでやってゆけるもんじあねえや」

「――はあ、そういうものか」

「独ひとり身みならそれあ、まあ泥棒どろぼうでも食くっていけるかもしれねえ、けれどもおめえという者ものを抱かかえてみりあ、まじめに稼かせがなくっちゃあ追おっつきあしねえや」

「――はあ、それは気きの毒どくだな」

「いやな挨拶あいさつをするなよ、気きの毒どくだったってべつに、おれだってそんなに泥棒どろぼうなんぞしたかあねえや、まあ食くおう、――飯めしが少すこしかてえかもしれねえ」

夜よるになると夜具やぐを並ならべて寝ねた。おそろしく疲つかれたとみえて、男おとこは横よこになるとすぐ眠ねむりこんだ。大おおきな鼾いびきをかいたり、どたんばたんと手足てあしを投なげだしたり、夜具やぐの外そとへころげ出でたり、無む作法さほうきわまる寝ねかたであった。――成せい信しんはいつもの癖くせで、蚊遣かやり火ひを焚たきながら、燈火とうかをひき寄よせて夜半やはんすぎまで本ほんを読よんだ。

明あくる朝あさも男おとこはどこかへでかけたが、出でてゆくとき成せい信しんに昼食ちゅうしょくのあるところを教おしえ、今日きょうはなにか魚さかなの干物ひものでも買かって来こようと云いった。

「ところで名なめえが知しれねえで不便ふべんなんだが、おらあ伝九郎でんくろうてえんだ、伝でん九きゅうってえばいいんだが、おめえの名なはなんていうんだ」

「――おれか、おれの名なは……信しんだ」

「ただ信しんだけかい、お侍さむらいらしくないじゃねえか、なんのなに信しんてえわけじゃねえのか」

「――いやそれでいい、信しんでいいんだ」

「ただの信しん、さとうただのぶか」

芝居しばいですれあ碇いかりを背負せおってくる役やくだ、などと、まちがったしゃれを云いいながら出でていった。

伝九郎でんくろうは云いったとおり、その日ひはちめという魚さかなの干物ひものを買かって帰かえった。ここへ幽閉ゆうへいされてから初はじめての魚さかなといってもよい、成せい信しんは幾いくたびも、「うまい」と云いいそうになっては口くちをつぐんだ。――こうして三み日か、四よん日かと経たった。伝九郎でんくろうは大妻おおつま川かわの堤防ていぼう工事こうじで働はたらけらいているという。それはいいが、いつも厳きびしい監視かんし者しゃはどうしたのか、伝九郎でんくろうのような人間にんげんが出ではいりしているのに、どうしてすてておくのか、そこが成せい信しんには不審ふしんに思おもわれた。

「この屋敷やしきへ出ではいりして、誰だれかに咎とがめられたことはなかったか」

いちどそうきいてみたところ、

「おらあそんなへまなこたあしねえよ」

伝九郎でんくろうはさも猜ずるそうに笑わらった。

「この近所きんじょの百姓ひゃくしょうだって、おれたちが此処ここにいるこたあ知しっちあいめえ、工事こうじ場じょうの者ものなんざ云いうまでもねえさ、そこはおれだって考かんがげえてらあな」

ほの暗くらいうちに出でて昏くれてから帰かえる。往来ゆききとも黒谷くろたにの谿流けいりゅうに沿そった杣道そまみちをとるので、まだ途中とちゅうで人ひとにであったこともないと云いった。これまでの監視かんしぶりは、そんなことでごまかされるような、なまぬるいものではなかった。とすれば、あるいは監視かんしがゆるんだのかもしれない。

――そういえば城しろからのみまわりも暫しばらく来こないようだが。

成せい信しんはこんなふうに考かんがえていた。

はなはだ奇妙きみょうな、一種いっしゅの共同きょうどう生活せいかつが、こうして続つづいていった。男おとこは言葉ことばつきこそ対等たいとうであるが、そのほかのことは主人しゅじんに仕つかえる召使めしつかいのようだった。労働ろうどうをして稼かせぎ、煮炊にたきをして成せい信しんに喰たべさせ、洗濯せんたくまでするのである。――家臣かしんに仕つかえられて育そだった成せい信しんすら、ときには済すまないと思おもい、なぜこんなにして呉くれるのかと、訝いぶかしくなることもあった。

「おめえってひとはじつにふしぎだ」伝九郎でんくろうは伝九郎でんくろうでそんなことを云いった、「おらあ生うまれてからこんな気持きもちになったなあ初はじめてだが、おめえを見みているとへんに楽たのしいような、うれしいような、――こう、なんと云いえばいいか、その、世よのなかも案外あんがいいいもんだっていうような気持きもちかな……ふしぎにそんな気持きもちがするんだ」

「――これまではそうではなかったのか」

「そうでねえからこそ、泥棒どろぼうにでもなっちめえてえ量りょう見みにもなったのよ、思おもいだしてもはらわたの煮にえるような、ひでえめにばかりあって来きたからな」

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