うす暗くなってから男が帰って来た。
「おう今けえったぜ」男は広縁のところからそう叫んだ、「おそくなっちまった、腹が減ったろう、いますぐ飯にするからな」
裏へまわってゆく男のうしろ姿をみおくりながら、成信はふと胸の温たまるような感動をさそわれた、自分では理解しがたい、温たかく胸のうるおうような感動である。彼は久しぶりで机に向い、それへ両肱をついて、厨口のもの音をなつかしいような気持で聞いていた。
食膳は味噌汁と飯のほかに、鉢いっぱいの梅干が出ていた。
「これもみんな買って来たものか」
「よせやい、いやなことを云うな」男は眼を三角にし、口をとがらした、「にんげんひとり抱えて、おめえ、泥棒なんぞでやってゆけるもんじあねえや」
「――はあ、そういうものか」
「独り身ならそれあ、まあ泥棒でも食っていけるかもしれねえ、けれどもおめえという者を抱えてみりあ、まじめに稼がなくっちゃあ追っつきあしねえや」
「――はあ、それは気の毒だな」
「いやな挨拶をするなよ、気の毒だったってべつに、おれだってそんなに泥棒なんぞしたかあねえや、まあ食おう、――飯が少しかてえかもしれねえ」
夜になると夜具を並べて寝た。おそろしく疲れたとみえて、男は横になるとすぐ眠りこんだ。大きな鼾をかいたり、どたんばたんと手足を投げだしたり、夜具の外へころげ出たり、無作法きわまる寝かたであった。――成信はいつもの癖で、蚊遣り火を焚きながら、燈火をひき寄せて夜半すぎまで本を読んだ。
明くる朝も男はどこかへでかけたが、出てゆくとき成信に昼食のあるところを教え、今日はなにか魚の干物でも買って来ようと云った。
「ところで名めえが知れねえで不便なんだが、おらあ伝九郎てえんだ、伝九ってえばいいんだが、おめえの名はなんていうんだ」
「――おれか、おれの名は……信だ」
「ただ信だけかい、お侍らしくないじゃねえか、なんのなに信てえわけじゃねえのか」
「――いやそれでいい、信でいいんだ」
「ただの信、さとうただのぶか」
芝居ですれあ碇を背負ってくる役だ、などと、まちがったしゃれを云いながら出ていった。
伝九郎は云ったとおり、その日はちめという魚の干物を買って帰った。ここへ幽閉されてから初めての魚といってもよい、成信は幾たびも、「うまい」と云いそうになっては口をつぐんだ。――こうして三日、四日と経った。伝九郎は大妻川の堤防工事で働らいているという。それはいいが、いつも厳しい監視者はどうしたのか、伝九郎のような人間が出はいりしているのに、どうしてすてておくのか、そこが成信には不審に思われた。
「この屋敷へ出はいりして、誰かに咎められたことはなかったか」
いちどそうきいてみたところ、
「おらあそんなへまなこたあしねえよ」
伝九郎はさも猜るそうに笑った。
「この近所の百姓だって、おれたちが此処にいるこたあ知っちあいめえ、工事場の者なんざ云うまでもねえさ、そこはおれだって考げえてらあな」
ほの暗いうちに出て昏れてから帰る。往来とも黒谷の谿流に沿った杣道をとるので、まだ途中で人にであったこともないと云った。これまでの監視ぶりは、そんなことでごまかされるような、なまぬるいものではなかった。とすれば、あるいは監視がゆるんだのかもしれない。
――そういえば城からのみまわりも暫らく来ないようだが。
成信はこんなふうに考えていた。
はなはだ奇妙な、一種の共同生活が、こうして続いていった。男は言葉つきこそ対等であるが、そのほかのことは主人に仕える召使いのようだった。労働をして稼ぎ、煮炊きをして成信に喰べさせ、洗濯までするのである。――家臣に仕えられて育った成信すら、ときには済まないと思い、なぜこんなにして呉れるのかと、訝かしくなることもあった。
「おめえってひとはじつにふしぎだ」伝九郎は伝九郎でそんなことを云った、「おらあ生れてからこんな気持になったなあ初めてだが、おめえを見ているとへんに楽しいような、うれしいような、――こう、なんと云えばいいか、その、世のなかも案外いいもんだっていうような気持かな……ふしぎにそんな気持がするんだ」
「――これまではそうではなかったのか」
「そうでねえからこそ、泥棒にでもなっちめえてえ量見にもなったのよ、思いだしてもはらわたの煮えるような、ひでえめにばかりあって来たからな」