伝九郎はごくたまに、それもきわめて断片的に、自分の身の上ばなしをした。
生活の環境がちがうし、こまかい部分は話さないから、ごくあらましのことしかわからなかったが、ぜんたいとして、その過去はいたましいほど運が悪く、聞くほうでも暗然となるようなことが多かった。――彼は江戸の下町の生れで、家はちょっとした乾物屋だった。父親はおとなしい好人物であったが、酒を飲むとひとが変り、あるだけの金を持ってとびだしたきり、五日も六日も帰らないようなことがしばしばあった。結局は店を飲みつぶしてしまい、親子三人で長屋へひっこむと、まもなく父親は急死した。急死といっても酔って川へおちて死んだのである。
「おらあそれで七つの年から蜆を売りに出たもんだ」
母親が後夫をむかえ、彼は日本橋のほうの海産物の問屋へ小僧にいった。義理の父というひとがまたずぬけた酒のみで、母親はずいぶん苦労したらしい、そのためか三年ばかりして亡くなった。
「だから十三でおらあみなしごになったわけだ、本当はみなしごなんだが残ったその義理のおやじてえのがいる、こいつがおれの厄病神になりあがった」
新三というその男は、妻に死なれてから三日にあげず店へ来た。伝九郎をよびだして小遣い銭をねだる、いつもひどく酔っていて、大きな声をあげたり、ときには暴れたりした。なにかの職人だということだが、もうまえから仕事などはしないらしい。博奕うちにでもなっているのか、風態も悪いしいやな人相だった。――問屋の主人もそんな人間にしげしげ来られるのは迷惑だったろう、新三がたびたび、「こんな給金の安いところへ置くわけにあいかねえ」などと云うのを幸わい、二年たらずで態よく店からひまをだされた。
伝九郎は樽ひろいをした。子守りもした。石屋、左官、車屋、米屋、いろいろな家へ小僧にいった。だがそれは職をおぼえるためではない、年季奉公の約束で、さきに幾ら幾らと養父が金を取る、そうして少し経つとそこを逃げだすのである。つまり先取りの金が目的なのだ、――なかには奉公さきがよくって、逃げたくない、この家で暮したい、そう思うことがある。すると日本橋の問屋の例で、養父が毎日のように酔っぱらって来て、前借を増せとか、給金が安いとか喚きたて、店さきへ寝たり、暴れまわったりする、それでたいてい向うからひまがでた。
二十五で妻をもらったとき、伝九郎は本所で左官のてつだいをしていた。妻は居酒屋などにいた女らしく、養父が伴れて来ていつくようにさせたのであるが、以来、その長屋のひと間は博奕場のようになった。いつも妙な人間が出いりをし、夜どおし賽ころや花札の音がしていた。妻は伝九郎などそっちのけで、そのなかまと博奕を打ったり、酒の相手をして騒いだり、まるで夫婦というようなものではなかった。
「その女は百日もいたかな、まもなくそのなかまの一人とどこかへいっちまった、じつはそれがその女の本当の亭主だったらしい」
養父は彼を搾れるだけ搾りとおした。そして胃を病んで死んだのであるが、寝こんでから息をひきとるまで、半年以上ものあいだ彼を「不孝者」といって罵しり続けた。――伝九郎は三十になっていた、はじめて自分ひとりの、好きなように生きられるときが来た。そう思ったのであるが、これといって手に職があるわけではないし、年がもう年で、そのときどきの仕事を転々と稼ぐよりほかにしかたがなかった。
三十一で二度めの妻をもった。もう二十三になる気の強い女でいちど嫁にいったことがあるらしい、こまめに働らくのはいいが、口やかましいうえにぐちっぽくて、おそろしい吝嗇で、しかも平気で嘘をついた。
「そのじぶんおらあ車力をしていたが、親方にみこまれて古石場の近くへ帳場を持たせてもらった、堅いところをみこまれたんだろう、車を十二台と曳き子を三人あずかった、貸し車もするわけなんだが、――その曳き子のなかに吉五郎という男がいて、こいつはおれより古株なんだが、……悪い野郎で、三月と経たねえうちに帳場の金をさらってずらかりあがった、そればかりならいいが、十二台の車もひとに売る約束で、その金も持ってきあがったにはびっくりした」
もちろん彼はその親方とは縁が切れた。一方では妻の吝嗇と嘘つきと口やかましいのにあいそをつかしていた、がみがみと云いたいほうだいのことを云って、それこそ三杯の飯を二杯に詰めて、そうして自分はへそくりを溜めるというふうだった。――もう顔を見るのも声を聞くのもいやらしくなったので、古石場の帳場がつぶれるとすぐ、彼は江戸を逃げだした。