「この土地へ来るまでにあずいぶんほうぼう渡り歩いたが、どこにもおちつく場所はなかった、世間はせちがれえし、にんげんは猜るくて不人情で、おらあ小股をすくわれたり陥し穴へつきおとされたり、ひでえめにあいどおしだった、――さすがのおれも業が煮えて、やけっぱちになって、そうして、……ええくそ、そっちがそうならこっちもと思って――だが智恵のねえやつはしようがねえ、泥棒にへえったのがこの化物屋敷だよ、……へっ、まったくのところうまく出来てやがる」
話しはごくとびとびで前後がとり違ったり、同じことをなんども繰り返したりした。そのうえ成信には理解のつかないところがたくさんある、樽ひろいとか蜆売りとか、そのほか日傭とりの暮しなどは殆んどわからなかった。――しかし成信にはその話しは楽しかった、楽しいといっては違うかもしれない、事実はいたましく哀れなのだ、聞いて思わず歎息のでるようなことがしばしばであった。けれどもそこには成信などの知らない、活き活きした生活があり、人間のあからさまなすがたが感じられた。
夜半に眼がさめて、隣りに熟睡している伝九郎の寝息を聞きながら、成信はしみじみとしたおもいで、酔って川へはまって死んだという彼の実父のことを想像した。七つという年で蜆を売り歩いたという、霜のおりた、寒い、早朝の街のひっそりとした景色を、眼にえがいてみた。
――このおれがもしそのような身の上だったら。
成信は彼と自分とを置き替えてみた。すると置き替えたほうが人間らしく、生き甲斐のあるように感じられた。
古石場の帳場から金をさらって逃げたという男。吝嗇で嘘つきで口やかましい女房。彼を苦しめ、搾れるだけ搾りながら、死ぬまで彼を「親不孝者」と罵しったという養父。妻とは名ばかりで、博奕を打ち酒を飲んで騒ぎ、じつはほかに本当の亭主があったという初めの女。――みんなそれぞれ狡猾でいやらしい、だがそうやって伝九郎をいためつけ、彼を騙し、彼を憎み、彼からくすねたり奪ったりしながら、かれら自身もそれほど恵まれはしなかったであろう。……今でもどこか世間の隅のほうで、それぞれの苦しい生活に追われ、ときにつくねんと溜息でもついているのではないだろうか。
――みんな気の毒な、哀れな本当はよき人たちなんだ。少なくともおれの周囲にいる人間よりは人間らしい。
二十日あまりいっしょに暮すうち、成信はすっかり伝九郎が好きになった。彼の躯には生きた世のなかの匂いが附いている、良いところも醜くいところも、卑しさも清らかさもひっくるめた、正直なあるがままの人間の呼吸が感じられた。
「おう信さん、おめえどじょう汁を食うか」
「――よく知らないが食うだろう」
「食うだろうってどじょう汁も知らねえのか、へえ、おめえ知らねえものばかりじゃねえか」
「――うん、まあそんなところだ」
「よっぽど家が貧乏か、それともお大名の若さまみてえだぜ」
こんなふうで、まだ口にしたことのないものもいろいろ喰べた。武家の生活とは違って、無作法な下品なような感じであるが、すべてに情があり真実がこもっていた。――炊きたての飯に熱い汁をかけて食ううまさ、肌ぬぎの茶漬け、青じその香をきかした冷奴、さらに釜底の狐色に焦げたところへ塩をふった握り飯など、品も作法もなくうまかった。これが本当の喰べものだという気がした。
「おもしれえことがあるぜ、信さん」
ある夜、夕餉をとりながら伝九郎がこう云った。
「世のなかは広大だ、おれがどじだと思ったら、おれに輪をかけた野郎がいやあがる」
「――それはいることは、いるだろう」
「いるったって、それがおめえ、泥棒だぜ」
「――ばかなことを、まさか……」
「それがそうらしいんだ、百姓みてえな恰好なんだが、表の塀のまわりや、裏庭の奥のほうをときどきうろついている、おらあ気がつかねえふうで見ているが、さっき飯を炊いてるときもちらっとしやがった、――厩のぶっ壊れたのがある、あのかげのところだ」
成信は顔を俯むけた。表情の変るのをみられたくなかったのである。伝九郎はまるで気がつかず、にやにやしながら面白そうに云った。
「今夜あたりへえって来るかもしれねえ、そうしたらこんだあおれが見物する番だ、へっ、つんのめったり、踏みぬいたり、どたんばたん独りで暴れて、埃まみれの汗だくんなって、それですっからかんのなんにも無しとくらあ、――へっ、野郎びっくらして馬鹿にでもなっちまうな」
だがその夜はなにごともなかった。