← Library‹ 泥棒と若殿 七

「この土地とちへ来くるまでにあずいぶんほうぼう渡わたり歩あるいたが、どこにもおちつく場所ばしょはなかった、世間せけんはせちがれえし、にんげんは猜ずるくて不ふ人情にんじょうで、おらあ小股こまたをすくわれたり陥おとし穴あなへつきおとされたり、ひでえめにあいどおしだった、――さすがのおれも業ごうが煮にえて、やけっぱちになって、そうして、……ええくそ、そっちがそうならこっちもと思おもって――だが智恵ちえのねえやつはしようがねえ、泥棒どろぼうにへえったのがこの化物ばけもの屋敷やしきだよ、……へっ、まったくのところうまく出来できてやがる」

話はなしはごくとびとびで前後ぜんごがとり違ちがったり、同おなじことをなんども繰くり返かえしたりした。そのうえ成せい信しんには理解りかいのつかないところがたくさんある、樽たるひろいとか蜆しじみ売うりとか、そのほか日傭ひようとりの暮くらしなどは殆ほとんどわからなかった。――しかし成せい信しんにはその話はなしは楽たのしかった、楽たのしいといっては違ちがうかもしれない、事実じじつはいたましく哀あわれなのだ、聞きいて思おもわず歎息ためいきのでるようなことがしばしばであった。けれどもそこには成せい信しんなどの知しらない、活いき活いきした生活せいかつがあり、人間にんげんのあからさまなすがたが感かんじられた。

夜半やはんに眼めがさめて、隣となりに熟睡じゅくすいしている伝九郎でんくろうの寝息ねいきを聞ききながら、成せい信しんはしみじみとしたおもいで、酔よって川かわへはまって死しんだという彼かれの実父じっぷのことを想像そうぞうした。七ななつという年としで蜆しじみを売うり歩あるいたという、霜しものおりた、寒さむい、早朝そうちょうの街まちのひっそりとした景色けしきを、眼めにえがいてみた。

――このおれがもしそのような身みの上うえだったら。

成せい信しんは彼かれと自分じぶんとを置おき替かえてみた。すると置おき替かえたほうが人間にんげんらしく、生いき甲斐がいのあるように感かんじられた。

古石場ふるいしばの帳場ちょうばから金かねをさらって逃にげたという男おとこ。吝嗇りんしょくで嘘うそつきで口くちやかましい女房にょうぼう。彼かれを苦くるしめ、搾しぼれるだけ搾しぼりながら、死しぬまで彼かれを「親おや不孝ふこう者しゃ」と罵ののしったという養父ようふ。妻つまとは名なばかりで、博奕ばくえきを打うち酒さけを飲のんで騒さわぎ、じつはほかに本当ほんとうの亭主ていしゅがあったという初はじめの女おんな。――みんなそれぞれ狡猾こうかつでいやらしい、だがそうやって伝九郎でんくろうをいためつけ、彼かれを騙だまし、彼かれを憎にくみ、彼かれからくすねたり奪うばったりしながら、かれら自身じしんもそれほど恵めぐまれはしなかったであろう。……今いまでもどこか世間せけんの隅すみのほうで、それぞれの苦くるしい生活せいかつに追おわれ、ときにつくねんと溜息ためいきでもついているのではないだろうか。

――みんな気きの毒どくな、哀あわれな本当ほんとうはよき人ひとたちなんだ。少すくなくともおれの周囲しゅういにいる人間にんげんよりは人間にんげんらしい。

二十日はつかあまりいっしょに暮くらすうち、成せい信しんはすっかり伝九郎でんくろうが好すきになった。彼かれの躯むくろには生いきた世よのなかの匂においが附ついている、良よいところも醜みにくいところも、卑いやしさも清きよらかさもひっくるめた、正直しょうじきなあるがままの人間にんげんの呼吸こきゅうが感かんじられた。

「おう信しんさん、おめえどじょう汁じるを食くうか」

「――よく知しらないが食くうだろう」

「食くうだろうってどじょう汁じるも知しらねえのか、へえ、おめえ知しらねえものばかりじゃねえか」

「――うん、まあそんなところだ」

「よっぽど家いえが貧乏びんぼうか、それともお大名だいみょうの若わかさまみてえだぜ」

こんなふうで、まだ口くちにしたことのないものもいろいろ喰たべた。武家ぶけの生活せいかつとは違ちがって、無む作法さほうな下品げひんなような感かんじであるが、すべてに情じょうがあり真実しんじつがこもっていた。――炊たきたての飯めしに熱あつい汁しるをかけて食くううまさ、肌はだぬぎの茶漬ちゃづけ、青あおじその香こうをきかした冷奴ひややっこ、さらに釜かま底そこの狐色きつねいろに焦こげたところへ塩しおをふった握にぎり飯めしなど、品しなも作法さほうもなくうまかった。これが本当ほんとうの喰たべものだという気きがした。

「おもしれえことがあるぜ、信しんさん」

ある夜よる、夕餉ゆうげをとりながら伝九郎でんくろうがこう云いった。

「世よのなかは広大こうだいだ、おれがどじだと思おもったら、おれに輪わをかけた野郎やろうがいやあがる」

「――それはいることは、いるだろう」

「いるったって、それがおめえ、泥棒どろぼうだぜ」

「――ばかなことを、まさか……」

「それがそうらしいんだ、百姓ひゃくしょうみてえな恰好かっこうなんだが、表ひょうの塀へいのまわりや、裏庭うらにわの奥おくのほうをときどきうろついている、おらあ気きがつかねえふうで見みているが、さっき飯めしを炊たいてるときもちらっとしやがった、――厩うまやのぶっ壊こわれたのがある、あのかげのところだ」

成せい信しんは顔かおを俯うつむけた。表情ひょうじょうの変かわるのをみられたくなかったのである。伝九郎でんくろうはまるで気きがつかず、にやにやしながら面白おもしろそうに云いった。

「今夜こんやあたりへえって来くるかもしれねえ、そうしたらこんだあおれが見物けんぶつする番ばんだ、へっ、つんのめったり、踏ふみぬいたり、どたんばたん独ひとりで暴あばれて、埃ほこりまみれの汗あせだくんなって、それですっからかんのなんにも無なしとくらあ、――へっ、野郎やろうびっくらして馬鹿ばかにでもなっちまうな」

だがその夜よるはなにごともなかった。

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