「どうしようてんだ、あの野郎、なにをいつまでまごまごしてるんだ、まだへえる決心がつかねえのかな」
伝九郎はもどかしそうに舌打ちをした。
「思いきってへえりあいいじゃねえかなあ、こっちは手出しはしねえんだ、見ていて笑ってやろうってだけなんだ、八方あけっ放しで待ってるんだ、よっぽどの臆病者にちげえねえ」
彼がいくら不平を云っても、やっぱり泥棒のはいるようすはなかった。――するとある日、伝九郎がその話をしてから七日ほど経っていたが、曇り日のむしむしする午後、成信が小書院で横になって本をみていると、まえ庭のほうで「若殿、若殿――」という声がした。成信は頭だけそっちへ向けて、誰だ、と、もの憂げに答えた。
「平馬でございます、鮫島平馬でございます」
成信はだるそうに本を投げた。鮫島平馬、ああ江戸の中屋敷にいた男か、そう思ったが、起きてゆく気持にはなれなかった。
「――なんだ、おれになにか用か」
「急ぎますので、要点だけ申しあげます、大殿には御他界にございます、御承知でいらっしゃいますか」
「――知らない、初めて聞いた」
五月十日に逝去したと云うのを聞きながら、成信は眼をつむって、口のなかでそっと、「父上」と呟いた。平馬はさらに、梶田重右衛門が家老に就任し、滝沢図書助が待命になったこと、つまり情勢が大きく変化し始めたことを述べた。しかし成信にはもうそんなことは興味がない、誰が勝ち誰が負けようと、権力の席がどう変ろうと、彼にはなんの関わりもないことだ。
――そうか、父上はお亡くなりなすったのか、御臨終は平安だったろうか、中屋敷の母上はおなごりを申しにあがれたろうか。
平馬はなお続けていた。この山荘は早くから自分たち同志の者で護って来た。すでに滝沢家の監視はゆるんでいるが、情勢がはっきり決定するまでは油断ができない。非常手段を打たれる心配もあるから、いま暫らくこのままかげから守護をしている、若殿にもそのつもりで辛抱して頂きたい、などとも云った。
そのなかで一つ意外なことがあった。それは三度あらわれた刺客も、ふいに矢を射かけた者も、みな梶田一派の人間だったということで、これには成信もびっくりした。
「まことにやむを得ぬ、苦肉の策でございました」
平馬は歯をくいしばった声でそう云った。
「滝沢党ではかねてから、若殿のお命をおちぢめ申すてだてにあいみえました、それで逆手を打ったのですが、かれらは幸いこれをみやぶることができず、手を濡らさずして目的を達すると思ったようすでございました、――かような事情で、万やむを得ない窮余の策ですから、不礼のだんはどうぞ幾重にもお赦しを願います」
成信はしまいまで横になっていた。そうして平馬が去ろうとしたとき、
「――みんなにそう云え、もうおれに構うな、いいか、おれのことは放っておけと」
刺客が自分のみかただったということは、なにより成信を不愉快にした。それは愚弄ではないか、そのとき成信はしんけんであった。本当に暗殺されるかもしれないと思った。枕のそばへ刀を置く習慣も、夜よく熟睡のできない癖も、みんなそれ以来身についたものである。
――刺客などが来るとすれば梶田一派のまわし者であろう。
城からみまわりに来た役人が、そう云って冷笑したことを思いだす。かれらは裏を掻かれていたわけであるが、成信の身にすれば、「裏を掻く」ことのほうがずっと恥かしかった。
「いやだ、つくづくいやな世界だ」
成信はこう呟やき、なにもかも忘れたいというように、頭をはげしく左右に振った。
「――伝九、二人でどこかへゆくか」
成信はその夜そう云った。
「悪くはねえな、おめえさえいて呉れりあ、おらあどこでどんな苦労でもするぜ」
「――なに、おれだって、なにか、するさ」
「それあさきゆきあそうさ、にんげん遊んで食ってちあ天道さまに申しわけがねえ、けれどもせくこたあねえぜ、おめえの躯が丈夫になり、そういう気持が出てからのはなしさ」
「――おれは、躯は丈夫だよ」
「自分じあそのつもりだろうがそうじあねえ、おめえの躯は病んでる、病気てえものじあねえかもしれねえが」
伝九郎はきまじめな顔でこちらを見た。
「そうよ、躯か心んなかかわからねえが、とにかくどこか相当いたんでる、おらあこれでそういう勘はわりかた慥かなんだ」
「――ほう、そんなふうにみえるかな」
「心配するこたあねえんだぜ、信さん、おれがついてるからな、大船……ってえわけにあいかねえが、おれにできるだけのこたあするつもりだ、まあいいから、当分おめえは暢気にしていねえ」