成信は本気であった。伝九郎といっしょにここを出奔し、どこでもいい、この身で働いて、人間らしい慎ましい生活をしよう。伝九郎を騙し、搾り、くすね、罵しり辱しめたような人間はどこにでもいるに違いない。しかしそれもさして悪くはない、権力争奪の傀儡にされるより、はるかに人間らしく、生き甲斐もありそうだ。
――出てゆこう、伝九郎といっしょに、自分で働いて生きよう。
成信がそう決心するのと反対に、伝九郎はなかなか動くけしきがなかった。堤防工事の人足の親方がだいぶ彼に執心で、その頃はもう小頭にひきあげていた。さきへいってはひと現場まかせてもいいような口ぶりらしい。
「自分でもいやなんだが、どうもおれにあそういうところがあるらしい」
伝九郎はてれくさいような眼つきをした。
「おらあ嫌えなんだ、そういうことはいやなんだけれども、――古石場のときもそうなんだが、へんに信用されるところがあるらしい、べつにおべっかを遣うようなこたあねえつもりなんだが」
しかし信用されてみれば悪い気持ではないし、こちらもそれだけのことをする義理はある。伝九郎はそういうつもりのようだ。
「此処はこのとおりぶっ壊れの化物屋敷で、誰に邪魔をされる心配もねえ、閑静で暢気で、おれたちがこうしているにあ持って来いだぜ、――とにかくもうちっといてみようや」
こんなふうに云っているうちに、十日ばかり経ってしまった。
その日はよく晴れて、秋をおもわせるような、爽やかな、ややつよい西風が、朝からしきりに樹々の枝を鳴らしていた。伝九郎がでかけて一刻あまり経ったろうか、遠くから馬蹄の音が近づいて来て、表門のところで停った。――五、六騎はいるらしい、成信はどきっとし、刀をひきよせてそっちを見た。平馬が云ったように、滝沢派で非常手段を打ちに来たのかもしれない。
――もうやみやみと討たれはしないぞ。
こう思っていると、前栽をまわって五人の武士がはいって来た。なかに一人、塗笠を冠った者がいて、その者だけがそこで笠をぬぎ、刀を侍者に渡して、こちらへ進んで来た。他の四人はその場に膝をついて控えたが、鮫島平馬の顔もそのなかにみえた。
こちらへ来たのは榁久左衛門という者だった。江戸の上屋敷でたびたび会ったことがある、中老格で、慥かずっと馬廻り支配をしていた筈だ。年は四十三、四、柳生流の達者だと聞いたように思うが、――今みるとたいそう痩せて、左右の鬢が白くなったし、日にやけて、とがったような顔に、おちくぼんだ眼だけが強い光りを帯びていた。
「おみ忘れでございましょうか、榁久左衛門にございます」
縁さきに片膝をついて彼はこう云った。そうして、頭を下げたまま、成信にながい辛労をさせたことを詫び、城へ迎えるために来たこと、詳しい事情は城へいってから申しあげよう、御乗馬を曳いて来てあるから、すぐしたくをしてお立ち下さるようにと云った。
「――おれに構うな、平馬にそう申した筈だ」
成信は正坐して静かにそう答えた。
「――城へはゆかぬ、いやだ」
「わたくしは五日まえに江戸からこちらへ到着いたしました、当地におきましてのおいたわしい御日常は、江戸でもあらまし承知しておりましたが、こちらへまいり、三年以来の詳しいことを聞きまして、おそれながら五体も砕けまじい、心魂の消えるおもいにございました」
「――おれが飢えていたことも聞いたか」
成信は寧ろほほ笑みながら云った。
「――おれが泥棒に食わせて貰っていることも聞いたか」
「おそれながらすべて承知いたしております、その者とのお暮しぶりも、そのお暮しぶりが御意にめしたというごようすも、また、御身分をすてて世に隠れるおぼしめしのことも、すべて承知いたしております」
これは成信には思いがけない言葉だった。平馬か、とも思ったが、平馬にもそこまでわかる筈はない、出奔して庶民のなかへはいろうという思案は、伝九郎のほかに知る者はない筈である。――では伝九郎か、そう考えてきて成信ははっと眼をあげた。
「――伝九郎の足をとめたのはそのほうどもか」
「当地の者どもが計らいました、知れざるように手をまわして、賃銀も多く遣わし、役もつけ、今後もながく当地にいて、身の立つようにとも計らってございます」
「――それでおれが城へ帰ると思うのだな」
成信は冷やかな、しかし強い調子でこう云った。
「――おれはいやだ、もうおれに構うな、おまえたちの傀儡になるのはもうごめんだ、おれは人間らしく生きることを知った、おれは人間らしく生きる」
「その仰せは覚悟のうえでまいりました」
久左衛門はこう云って静かにこちらを見あげた。