← Library‹ 日日平安 二

その男おとこは嘘うそは云いわなかった。その男おとこは「私わたくしは不ふ人情にんじょうな人間にんげんではない」と云いったが、まもなくそれが事実じじつだということを証明しょうめいした。

二人ふたりは茶店ちゃみせで腹はらをこしらえ、あと戻もどりして藍川あいかわの宿しゅくの柊屋ひいらぎやという(十郎太じゅうろうたが昨夜さくや泊とまった)宿やどで草鞋わらじをぬいだ。二人ふたりはお互たがいに姓名せいめいを告つげあい、風呂ふろのあとで酒さけを飲のんだ。その男おとこの名なは菅田平野すがたひらのというのであった。十郎太じゅうろうたは二に度どきき直なおして、「すがたひらの」と口くちの中なかで云いってみたうえ、「名前なまえも苗字みょうじみたようですね」と云いった。菅田すがた平野へいやは北越ほくえつの浪人ろうにんで、十郎太じゅうろうたより三みつ年長ねんちょうの二十にじゅう九きゅう歳さいであった。

菅田すがた平野へいやは聞きき上手じょうずで、しかも、座持ざもちがうまいといわれる種類しゅるいの人ひとに属ぞくしていた。十郎太じゅうろうたは勘定かんじょうが気きになるので、はじめのうちは酒さけの数かずに注意ちゅういしていたが、話はなしが進すすむにつれて(その話はなしの性質せいしつ上じょう)やがて気分きぶんが昂揚こうようし、自分じぶんから景気けいきよく飲のみだした。

「よくわかります、うん、私わたくしにはよくわかるな、それは」菅田すがた平野へいやはしんみり合槌あいづちを打うつのであった、「――しかも陸田くがたさんはなんにもなさらない、超然ちょうぜんとしてかれらのするままにしているというわけですね」

「いや貴方あなたにはわからない」十郎太じゅうろうたは首くびを振ふった、「――元来がんらいが私わたくしは政治せいじなどというものに興味きょうみはないんです、しょせん政治せいじと悪徳あくとくとは付ついてまわるし、そうでない例れいはないようですからね、しかしそれにしても国許くにもとの状態じょうたいはひどい、まるでもうめちゃくちゃなんだ」

「わかりますよ、私わたくしも御ご領内りょうないを通とおって来きましたからね」と菅田すがた平野へいやが云いった、「――あんなに百姓ひゃくしょうや町人ちょうにんの窮迫きゅうはくしている土地とちも珍めずらしい、あれこそ苛斂誅求かれんちゅうきゅうというやつでしょうが、到いたるところ怨嗟えんさの声こえで充満じゅうまんしているという感かんじでしたからね」

「もっとも悪わるいのは、かれらがその声こえを無視むしすることです、家いえ中ちゅうにだって批判ひはんの声こえが起おこっている、若わかい人間にんげんのなかにはしんけんに思おもい詰つめている者ものも少すくなくないんだ、しかしかれらはそういう声こえをまったく無視むしして、私利しり私欲しよくのために平然へいぜんと政治せいじを紊みだっている」

「それでもなお陸田りくでんさんは、城代じょうだい家老かろうとしてなにもなさろうとしないんですね」

「日日にちにち時事じじみな平安へいあんなり、そう云いうだけなんだ」と十郎太じゅうろうたは唇くちびるをゆがめた、「かれらの悪徳あくとくはおまえがすでに知しり、おまえの仲間なかまが知しり、心こころある者ものが知しっている、もはや隠かくれることはできないし、腫物はれものはすでにうんでいる、まもなく自分じぶんからやぶれるだろう、伯父おじはこう云いうだけさ、世よの中なかは晴天せいてんばかりということはないものだ、五ご風ふう十じゅう雨うは泰平たいへいの兆きざし、そうのぼせずにおちついておれとね」

「それもわかるが、私わたくしには貴方あなたの怒おこる気持きもちもわかるなあ」

「われわれは日日にちにち平安へいあんなどと云いってはいられない、ものには限度げんどということがある」十郎太じゅうろうたは眼めをぎらぎらさせた、「――かれらがそんなにも無恥むち陋劣ろうれつで、その悪徳あくとく非道ひどうにとめどがないとすれば、これを抑おさえる法ほうは一ひとつしかないでしょう、私わたくしはそう決心けっしんした、私わたくしの決心けっしんに賛成さんせいする者ものが九きゅう人にん、それぞれが持場もちばを分担ぶんたんして、事ことを決行けっこうしようとしたのです」

「それが事前じぜんに露顕ろけんしたわけですか」

「いや、かれらにではなく、伯父おじに勘かんづかれたんです、もっとも詳くわしいことは知しらないでしょう、なにか不穏ふおんな事ことを計画けいかくしているという点てんだけ勘かんづいて、それで急きゅうに江戸えどへ帰かえれということになったんだと思おもう」十郎太じゅうろうたは怒いかりと嘲笑ちょうしょうとでむかつくような顔かおをし、それから投なげやりな調子ちょうしで云いった、「――そっちがそう出でるなら結構けっこう、私わたくしはたって千鳥ちどりの婿むこになんかなりたかあないですからね、江戸えどへ帰かえってみんなぶちまけて、もちろん、殿とのに直訴じきそしますよ、そうしてこの世よにはまだ正義まさよしというものがあるんだということを、かれらに思おもい知しらせてやるつもりです」

菅田すがた平野へいやは考かんがえ深ぶかそうに頷うなずいた。

風呂ふろへはいったとき、菅田すがた平野へいやは(十郎太じゅうろうたの剃刀かみそりを借かりて)月代さかやきと髭ひげを剃そったから、いま彼かれの顔かおはさっぱりと清潔せいけつにみえる。もう酒さけもずいぶん飲のんで、相当そうとうに酔よっているはずなのだが、その顔かおは赤あかくならず、むしろ平静へいせいに冴さえてゆくようであった。彼かれは十郎太じゅうろうたの話はなしをよく吟味ぎんみするかのように、しきりと思おもい耽ふけりながら鼻毛はなげを抜ぬいた。右手みぎての拇指ぼしと食指しょくしの尖端せんたんで巧たくみに鼻毛はなげを摘つみ、くいと引張ひっぱって抜ぬくのであるが、抜ぬいたとたんに彼かれは大おおきなくしゃみをした。

「失礼しつれいしました」と菅田すがた平野へいやは云いった、「――これがものを考かんがえるときの私わたくしの癖くせでしてね、どうも失礼しつれい」それから抜ぬいた鼻毛はなげを眺ながめながら続つづけた、「これは私わたくしの杞憂きゆうかもしれませんが、まあたぶん杞憂きゆうだろうと思おもうんですが、そういうことだとすると貴方あなたがこのまま江戸えどへ帰かえられるのは、私わたくしとしてはどうかと思おもいますね」

「どうかとはどう思おもうんです」

「どうといって、その」と菅田すがた平野へいやは口くちごもった、「――そんな状態じょうたいだとすると、陸田りくでんさんが苦境くきょうに立たつことになりはしませんか、貴方あなたが江戸えどへ帰かえって殿とのに直訴じきそして、もしそれが成功せいこうするとすれば、城代じょうだい家老かろうとしての陸田りくでんさんの責任せきにんも追究ついきゅうされるでしょう、それよりも、私わたくしはそのまえに奸物かんぶつどもが策謀さくぼうして、罪つみを陸田りくでんさんになすりつけるような、……むろんこれは杞憂きゆうだと思おもうが、奸物かんぶつどもとしてはそのくらいの謀略ぼうりゃくはやりかねない、私わたくしはそのことを心配しんぱいしますね」

「するとどうしろというんですか」

「私わたくしが云いわなければならないでしょうか」

菅田すがた平野へいやは十郎太じゅうろうたの顔かおを見みた。同時どうじに、菅田すがた平野へいやは頭あたまの中なかで考かんがえていた。

――おれはこの機会きかいをものにしてやるぞ。

彼かれはゆき詰ずまっていた。こんな放浪ほうろうの苦くるしみはもうたくさんである、わずか一いち食しょくの銭ぜにを得えるために、切腹せっぷくのまねをしなければならないところまで来きてはどん詰づまりだ。ここはぜひともこの(単純たんじゅんそうな)男おとこを城下じょうかへ伴つれ戻もどして、ひと騒動そうどうおこして手柄てがらをたてさせ、ついでにおれも仕官しかんするという手てだ。仮かりに仕官しかんができなくとも相当そうとうな礼金れいきんはくれるだろう、おれは絶対ぜったいにこの蔓つるは放はなさないぞ、と考かんがえるのであった。

「というと、つまり」と十郎太じゅうろうたが云いった、「――私わたくしに計画けいかくを実行じっこうしろというのですか」

「及およばずながら助勢じょせいしますよ」

十郎太じゅうろうたはうなった。うなって、盃さかずきをぐっとあおって、そうかも知しれないと思おもった。

「考かんがえてみよう」と十郎太じゅうろうたは云いった、「――云いわれてみれば伯父おじの立場たちばは危あぶない、日日にちにち平安へいあんなどといって、足あしもとの崩くずれるのも知しらずにいるんだから、それに、……千鳥ちどりだって考かんがえてみればかわいそうだ」

「さっきも云いわれたようだが、その千鳥ちどりというのはどういう人ひとですか」

「伯父おじの一人娘ひとりむすめですよ」と十郎太じゅうろうたは云いった、「――私わたくしは婿むこ養子ようしになるはずで、三さん年ねんまえにこっちへ呼よばれて来きたんです」

「御ご城代じょうだいの婿むこ養子ようし」

「つまらないことを云いいました」と十郎太じゅうろうたは首くびを振ふった、「――もう切きり上あげるとしましょうか」

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