その男は嘘は云わなかった。その男は「私は不人情な人間ではない」と云ったが、まもなくそれが事実だということを証明した。
二人は茶店で腹をこしらえ、あと戻りして藍川の宿の柊屋という(十郎太が昨夜泊った)宿で草鞋をぬいだ。二人はお互いに姓名を告げあい、風呂のあとで酒を飲んだ。その男の名は菅田平野というのであった。十郎太は二度きき直して、「すがたひらの」と口の中で云ってみたうえ、「名前も苗字みたようですね」と云った。菅田平野は北越の浪人で、十郎太より三つ年長の二十九歳であった。
菅田平野は聞き上手で、しかも、座持ちがうまいといわれる種類の人に属していた。十郎太は勘定が気になるので、はじめのうちは酒の数に注意していたが、話が進むにつれて(その話の性質上)やがて気分が昂揚し、自分から景気よく飲みだした。
「よくわかります、うん、私にはよくわかるな、それは」菅田平野はしんみり合槌を打つのであった、「――しかも陸田さんはなんにもなさらない、超然としてかれらのするままにしているというわけですね」
「いや貴方にはわからない」十郎太は首を振った、「――元来が私は政治などというものに興味はないんです、しょせん政治と悪徳とは付いてまわるし、そうでない例はないようですからね、しかしそれにしても国許の状態はひどい、まるでもうめちゃくちゃなんだ」
「わかりますよ、私も御領内を通って来ましたからね」と菅田平野が云った、「――あんなに百姓や町人の窮迫している土地も珍しい、あれこそ苛斂誅求というやつでしょうが、到るところ怨嗟の声で充満しているという感じでしたからね」
「もっとも悪いのは、かれらがその声を無視することです、家中にだって批判の声が起こっている、若い人間のなかにはしんけんに思い詰めている者も少なくないんだ、しかしかれらはそういう声をまったく無視して、私利私欲のために平然と政治を紊っている」
「それでもなお陸田さんは、城代家老としてなにもなさろうとしないんですね」
「日日時事みな平安なり、そう云うだけなんだ」と十郎太は唇をゆがめた、「かれらの悪徳はおまえがすでに知り、おまえの仲間が知り、心ある者が知っている、もはや隠れることはできないし、腫物はすでにうんでいる、まもなく自分からやぶれるだろう、伯父はこう云うだけさ、世の中は晴天ばかりということはないものだ、五風十雨は泰平の兆し、そうのぼせずにおちついておれとね」
「それもわかるが、私には貴方の怒る気持もわかるなあ」
「われわれは日日平安などと云ってはいられない、ものには限度ということがある」十郎太は眼をぎらぎらさせた、「――かれらがそんなにも無恥陋劣で、その悪徳非道にとめどがないとすれば、これを抑える法は一つしかないでしょう、私はそう決心した、私の決心に賛成する者が九人、それぞれが持場を分担して、事を決行しようとしたのです」
「それが事前に露顕したわけですか」
「いや、かれらにではなく、伯父に勘づかれたんです、もっとも詳しいことは知らないでしょう、なにか不穏な事を計画しているという点だけ勘づいて、それで急に江戸へ帰れということになったんだと思う」十郎太は怒りと嘲笑とでむかつくような顔をし、それから投げやりな調子で云った、「――そっちがそう出るなら結構、私はたって千鳥の婿になんかなりたかあないですからね、江戸へ帰ってみんなぶちまけて、もちろん、殿に直訴しますよ、そうしてこの世にはまだ正義というものがあるんだということを、かれらに思い知らせてやるつもりです」
菅田平野は考え深そうに頷いた。
風呂へはいったとき、菅田平野は(十郎太の剃刀を借りて)月代と髭を剃ったから、いま彼の顔はさっぱりと清潔にみえる。もう酒もずいぶん飲んで、相当に酔っているはずなのだが、その顔は赤くならず、むしろ平静に冴えてゆくようであった。彼は十郎太の話をよく吟味するかのように、しきりと思い耽りながら鼻毛を抜いた。右手の拇指と食指の尖端で巧みに鼻毛を摘み、くいと引張って抜くのであるが、抜いたとたんに彼は大きなくしゃみをした。
「失礼しました」と菅田平野は云った、「――これがものを考えるときの私の癖でしてね、どうも失礼」それから抜いた鼻毛を眺めながら続けた、「これは私の杞憂かもしれませんが、まあたぶん杞憂だろうと思うんですが、そういうことだとすると貴方がこのまま江戸へ帰られるのは、私としてはどうかと思いますね」
「どうかとはどう思うんです」
「どうといって、その」と菅田平野は口ごもった、「――そんな状態だとすると、陸田さんが苦境に立つことになりはしませんか、貴方が江戸へ帰って殿に直訴して、もしそれが成功するとすれば、城代家老としての陸田さんの責任も追究されるでしょう、それよりも、私はそのまえに奸物どもが策謀して、罪を陸田さんになすりつけるような、……むろんこれは杞憂だと思うが、奸物どもとしてはそのくらいの謀略はやりかねない、私はそのことを心配しますね」
「するとどうしろというんですか」
「私が云わなければならないでしょうか」
菅田平野は十郎太の顔を見た。同時に、菅田平野は頭の中で考えていた。
――おれはこの機会をものにしてやるぞ。
彼はゆき詰っていた。こんな放浪の苦しみはもうたくさんである、わずか一食の銭を得るために、切腹のまねをしなければならないところまで来てはどん詰りだ。ここはぜひともこの(単純そうな)男を城下へ伴れ戻して、ひと騒動おこして手柄をたてさせ、ついでにおれも仕官するという手だ。仮に仕官ができなくとも相当な礼金はくれるだろう、おれは絶対にこの蔓は放さないぞ、と考えるのであった。
「というと、つまり」と十郎太が云った、「――私に計画を実行しろというのですか」
「及ばずながら助勢しますよ」
十郎太はうなった。うなって、盃をぐっとあおって、そうかも知れないと思った。
「考えてみよう」と十郎太は云った、「――云われてみれば伯父の立場は危ない、日日平安などといって、足もとの崩れるのも知らずにいるんだから、それに、……千鳥だって考えてみればかわいそうだ」
「さっきも云われたようだが、その千鳥というのはどういう人ですか」
「伯父の一人娘ですよ」と十郎太は云った、「――私は婿養子になるはずで、三年まえにこっちへ呼ばれて来たんです」
「御城代の婿養子」
「つまらないことを云いました」と十郎太は首を振った、「――もう切り上げるとしましょうか」