← Library‹ 日日平安 三

枕まくらを並ならべて寝ねると、菅田すがた平野へいやはたちまち眠ねむりこんでしまった。喰たべたいほど喰たべ、飲のみたいだけ飲のみ、温あたたかい夜具やぐに入はいったのだからむりもない。横よこになるとすぐいびきをかいて熟睡じゅくすいした。十郎太じゅうろうたはしばらく寝ねつけなかった。菅田すがたの云いうようには決心けっしんがつかないのである、いちど燃もえあがった火ひを消けされたばかりなので、その火ひがすぐには燃もえつかない、というような感かんじであった。

「あの黒くろ藤ふじ源太夫げんだゆうめ」と彼かれはつぶやく、「――仲島なかじま弥五郎やごろうに前まえ林はやし久之ひさゆき進しん、奸物かんぶつども」

そうして、かれら奸物かんぶつどもの風貌ふうぼうを思おもいだしてみる。黒くろ藤ふじ源太夫げんだゆうは五十ごじゅう二に歳さいの次席じせき家老かろう、仲島なかじま弥五郎やごろうは四十よんじゅう五ご歳さいで留守るす役やく上席じょうせき、前まえ林はやし久之ひさゆき進しんは五十ごじゅう歳さいで国許くにもと用人ようにん。これらが藩政はんせいを毒どくする中心ちゅうしん人物じんぶつで、なかんずく黒くろ藤ふじと仲島なかじまとがその首魁しゅかいであった。むろん十郎太じゅうろうたはかれらを知しっているし、その風貌ふうぼうもありありと眼めにうかぶが、同時どうじに「日日にちにち平安へいあん」などと云いう、のんびりした伯父おじの顔かおが見みえ、自分じぶんを江戸えどへ追おい払はらったことなども頭あたまにひっかかって、どうにも闘志とうしがわいてこないのであった。

「とにかく戻もどってからのことだ」と十郎太じゅうろうたはつぶやいた、「――いやなら紙入かみいれだけ取とって江戸えどへ帰かえればいい、戻もどってみたうえで肚はらをきめよう」

菅田すがた平野へいやはいい心持こころもちそうに眠ねむっていた。

明あくる日ひの十じゅう時じころ、二人ふたりは城下じょうか町ちょうへ向むかって宿やどを立たった。十郎太じゅうろうたは江戸えどへ追放ついほうされたのも同様どうようだから、夜よるにならなければ町まちへははいれない、藍川あいかわの宿やどから城下じょうかまでは五ご里り足たらずで、早はやく宿やどを立たつわけにゆかなかったのである。心配しんぱいした勘定かんじょうのほうは払はらえたけれども、あとにはわずかしか残のこらなかった。それで握飯にぎりめしをつくってもらい、宿やどを出でるとすぐ裏道うらみちへ曲まがった。街道かいどうをいって、もし家中かちゅうの者ものにでも会あっては悪わるいからである。丘おかを越こえたり畑はたけの間あいだをぬけたり、途中とちゅうの山蔭やまかげの泉いずみのわくところで握飯にぎりめしを喰たべたりしながら、石いし鉢山はちやままで来きたが、まだ時間じかんが余あまった。そこは山やまといっても高たかさ百ひゃく五十ごじゅう尺しゃくばかりで、城しろの東北とうほくに当あたり、城下じょうか町ちょうがすぐ前まえに眺ながめられる。二人ふたりはそこで日ひの暮くれるのを待まったうえ、夜よるの八はち時じころに町まちへおりていった。

石いし鉢山はちやまのほうからはいると、武家ぶけ屋敷やしきの裏うらにゆき当あたる。陸田りくでん家かは大手おおて筋すじの塔とうヶが辻つじという処ところにあり、その構かまえは三十さんじゅう間けんに四十よんじゅう間まばかりの広大こうだいなものであった。北面ほくめんに正門せいもん。西にしに馬うま入いれの門もん。三さん方ほうに築地塀ついじべいを廻めぐらし、南側みなみがわの濠ほりに沿そった一方いっぽうだけ黒くろく塗ぬった柵さくになっていた。柵さくの内側うちがわは杉すぎの深ふかい林はやしで、その杉林すぎばやしが邸内ていないの半なかばを占しめている。築地つきじ塀へいの外そとからもそれらの梢こずえが高たかく、くろぐろと夜空よぞらをぬいているのが見みえた。十郎太じゅうろうたは濠ほりに接せっした築地つきじ塀へいの端はしまでゆき、そこから柵さくのほうをのぞいた。濠ほりは両岸りょうがんを石いしで組くんだ幅はば二に間けんばかりのもので、かなり豊ゆたかな水みずが音おとを立たてて流ながれている。風かぜのない暖あたたかい夜よるで、さあさあというその水音みずおとが、杉林すぎばやしにひっそりと反響はんきょうしていた。

「ここから入はいるんだが」と十郎太じゅうろうたが柵さくの一部いちぶを指ゆびさした、「――貴方あなたも入はいったほうがいいでしょう、人ひとが通かよってみつかるとうるさいから」

菅田すがた平野へいやは頷うなずいた。

柵さくの一いち本ほんが動うごくようになっている。たぶん粛清しゅくせい派はの仲間なかまがひそかに出入でいりしたのであろう、菅田すがた平野へいやはそんなふうに想像そうぞうしながら、十郎太じゅうろうたのやりかたをまねて、柵さくの中なかへ入はいった。

「ここで待まっていて下ください、いちおうようすを見みて来きます」

十郎太じゅうろうたはそうささやいて、杉林すぎばやしの中なかの踏ふみつけ径みちを向むこうへ去さった。菅田すがた平野へいやは待まっていた。あたりはまっ暗くらで、湿しめった空気くうきは重おもたく杉すぎの匂においがした。

「おれは逭のがさないぞ」菅田すがた平野へいやは口くちの中なかでつぶやいた、「おれは逭さない、この蔓つるは決けっして逭さない、あの男おとこをそそのかして必かならずものにしてみせるぞ、城代じょうだい家老かろうの婿むことくれば本筋ほんすじだからな、うん、そうやすやすと見み逭せるもんじゃないさ」

四半しはん刻とき以上いじょうも時間じかんが経たって、どうしたのかと思おもっているところへ、十郎太じゅうろうたが戻もどって来きた。暗くらいのでよくわからないが、荒あらい呼吸こきゅうやおちつかない動作どうさで、彼かれのひどく昂奮こうふんしていることが菅田すがた平野へいやにわかった。

「貴方あなたの予言よげんが当あたりました」と十郎太じゅうろうたは云いった、「――どうかこっちへ来きて下ください、相談そうだんにのってもらいたいことがあります」

菅田すがた平野へいやは黙だまって十郎太じゅうろうたについていった。黙だまってついてゆきながら、彼かれは心こころの中なかでほくそ笑えみ「しめたな」とつぶやいていた。

「貴方あなたの心配しんぱいされたことは杞憂きゆうではなかった」と十郎太じゅうろうたは歩あるきながら云いった、「――奸物かんぶつどもは急きゅうに逆手さかてを打うって、昨夜さくやこの屋敷やしきへ踏ふん込こみ、伯父おじをどこかへ拉致らちしたそうです」

「城代じょうだい家老かろうその人ひとをですか」

「いまこの屋敷やしきはかれらの手てで押おさえられ、伯母おばと千鳥ちどりも一室いっしつに監禁かんきんされて、一味いちみの者ものに見張みはられているというのです」

「たぶんそれは」と菅田すがた平野へいやが云いった、「――井坂いさかさんが江戸えどへ帰かえられたのを誤解ごかいしたんでしょうな、自分じぶんたちの悪事あくじを江戸えどへ報告ほうこくにいったというふうに」

「こっちです、静しずかにして下ください」

杉林すぎばやしを出でた左側ひだりがわに大おおきな建物たてものがあった。その向むこうに厩うまやがあるとみえ、馬うまたちの鼻はなをならす声こえや、地面じめんを掻かく蹄ひづめの音おとが聞きこえた。十郎太じゅうろうたはこちらの、大おおきな建物たてものの中なかへ、菅田すがた平野へいやを伴つれこんだ。それは馬草まぐさ小屋こやであった。中なかへ入はいって引戸ひきどを閉しめると、甘酸あまずっぱい乾ほし草くさの匂においでむせそうになった。

「こいそ」と十郎太じゅうろうたがささやいた、「――どこにいる」

返辞へんじはなかったが、乾ほし草くさの山やまの蔭かげから(袖そでで提灯ちょうちんを隠かくしながら)一人ひとりの娘むすめが出でて来きた。十じゅう八はちばかりの、小柄こがらな躯からだつきで、眼鼻めはなだちのちまちまとした、いかにもはしこそうな顔かおをしている。十郎太じゅうろうたは彼女かのじょを「千鳥ちどりの侍女じじょこいそです」といって、菅田すがた平野へいやにひきあわせた。

こいそは二人ふたりの前まえでもういちど話はなした。

「菊井きくい六郎ろくろう兵衛ひょうえという大おお目付めつけの方ほうが指揮しきで、三十さんじゅう人にんばかりの人ひとが来きました」とこいそは云いった。「――ゆうべのちょうどいまごろで、旦那だんなさまは庄野しょうの主税ちからさまと御ご対談たいだんちゅうでした」

踏ふみ込こんで来きたかれらは、三さん手しゅに分わかれて、菊井きくいら十じゅう人にんは陸田りくでん精兵せいへい衛と、客きゃくの庄野しょうの主税ちからを取囲とりかこみ、他たの一いち組くみは家士かしたちを長屋ながやに押込おしこめ、もう一いち組くみは邸内ていないの警備けいびに当あたった。菊井きくいらは主人しゅじんの居間いまを捜索そうさくして、多数たすうの書類しょるいを押収おうしゅうしたうえ、精兵せいへい衛を(客きゃくもいっしょに)用意よういして来きた駕籠かごへ乗のせてつれ去さった。陸田りくでん夫人ふじんのおの女おんなは温和おんわで気きの弱よわい人ひとだが、さすがに怒おこって理由りゆうを問といただした。しかし菊井きくい六郎ろくろう兵衛ひょうえは相手あいてにならなかった。

――私わたくしはなにも知しりません、御ご家老かろうに汚職おしょくの事実じじつがあり、それが暴露ばくろしたそうで、罪状ざいじょうの湮滅いんめつを防ふせぐために非常ひじょうの処置しょちをとるのだとか聞ききました。

こう云いって、おの女おんなと千鳥ちどりをも各自かくじの居間いまに監禁かんきんし、(一人ひとりずつ看視かんし者しゃを置おいた)召使めしつかいたち全部ぜんぶにも厳重げんじゅうに禁足きんそくを申もうし渡わたしてたち去さった。いま正門せいもんのところに二人ふたり、邸内ていないに五ご人にん、見張みはりの者ものがいるということである。

「戻もどって来きてよかったですな、ええ」と菅田すがた平野へいやは溜息ためいきをついて云いった、「――私わたくしが貴方あなたを呼よびとめ、貴方あなたが紙入かみいれを忘わすれたことがわかった、そのためにこういう、その、危急ききゅう存亡そんぼうのばあいに、まにあうことができた、いやまったく、世よの中なかにはなにが仕合しあわせになるかわからないようなことがあるものです」

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