← Library‹ 孤島の鬼 暗中の水泳

私わたくしは子供こどもの時分じぶん、金網かなあみの鼠取ねずみとり器きにかかった鼠ねずみを、金網かなあみの中なかに這入はいったまま、盥たらいの中なかへ入いれ、上うえから水みずをかけて殺ころしたことがある。外そとの殺ころし方かた、例たとえば火箸ひばしを鼠ねずみの口くちから突つき刺さす、という様ようなことは恐おそろしくて出来できなかったからだ。だが、水責みずぜめも随分ずいぶん残酷ざんこくだった。盥たらいに水みずが満みちて行いくに従したがって、鼠ねずみは恐怖きょうふの余あまり、狭せまい網あみの中なかを、縦横じゅうおう無尽むじんに駈かけ廻まわり、昇のぼりついた。「あいつは今いま、どんなにか鼠取ねずみとりの餌えさにかかったことを後悔こうかいしているだろう」と思おもうと、云いうに云いえない変へんな気持きもちになった。

でも、鼠ねずみを生いかして置おく訳わけには行いかぬので、私わたくしはドンドン水みずを入いれた。水面すいめんと金網かなあみの上部じょうぶとがスレスレになると、鼠ねずみは薄赤うすあかい吻くちさきを、亀甲きっこう型がたの網あみの間あいだから、出来できる丈だけ上方かみがたに突つき出だして、悲かなしい呼吸こきゅうを続つづけた、悲痛ひつうな惶あわただしい鳴声なきごえを発はっしながら。

私わたくしは目めをつむって、最後さいごの一いち杯はいを汲くみ込こむと、盥たらいから眼めをそらしたまま、部屋へやに逃にげ込こんだ。十じゅう分ふんばかりして、恐々こわごわ行いって見みると、鼠ねずみは網あみの中なかで、ふくれ上あがって浮ういていた。

岩屋いわや島しまの洞窟どうくつの中なかの私わたくし達たちは、丁度ちょうどこの鼠ねずみと同おなじ境涯きょうがいであった。私わたくしは洞窟どうくつの小高こだかくなった部分ぶぶんに立上たちあがって、暗闇くらやみの中なかで、足あしの方ほうから段々だんだん這はい上のぼってくる水面すいめんを感かんじながら、ふとその時ときの鼠ねずみのことを思おもい出だしていた。

「満潮まんちょうの水面すいめんと、この洞穴ほらあなの天井てんじょうと、どちらが高たかいでしょう」

私わたくしは手探てさぐりで、諸戸もろとの腕うでを掴つかんで叫さけんだ。

「僕ぼくも今いまそれを考かんがえていた所ところだよ」諸戸もろとは静しずかに答こたえた。「それには、僕ぼく達たちが降くだった坂道さかみちと、昇のぼった坂道さかみちと、どちらが多おおかったか、その差さを考かんがえて見みればいいのだ」

「降ふった方ほうが、ずっと多おおいじゃありませんか」

「僕ぼくもそんなに感かんじる。地上ちじょうと海面かいめんとの距離きょりを差引さしひいても、まだ降ふった方ほうが多おおい様ような気きがする」

「すると、もう助たすかりませんね」

諸戸もろとは何なんとも答こたえなかった。私わたくし達たちは墓穴ぼけつの様ような暗闇くらやみと沈黙ちんもくの中なかに茫然ぼうぜんと立たちつくしていた。水面すいめんは、徐々じょじょに、だが、確実かくじつに高たかさを増まして、膝ひざを越こえ、腰こしに及およんだ。

「君きみの智恵ちえで何なんとかして下ください。僕ぼくはもう、こうして死しを待まっていることは、耐たえられません」

私わたくしは寒さむさにガタガタ震ふるえながら、悲鳴ひめいを上あげた。

「待まち給たまえ、まだ絶望ぜつぼうするには早はやい。僕ぼくはさっき、蝋燭ろうそくの光ひかりでよく調しらべて見みたんだが、ここの天井てんじょうは上うえに行いく程ほど狭せまく、不ふ規則きそくな円錐えんすい形けいになっている。この天井てんじょうの狭せまいことが、若もしそこに岩いわの割目われめなんかがなかったら、一縷いちるの望のぞみだよ」

諸戸もろとは考かんがえ考かんがえそんなことを云いった。私わたくしは彼かれの意味いみがよく分わからなんだけれど、それを問とい返かえす元気げんきもなく、今いまはもう腹はらの辺へんまでヒタヒタと押おし寄よせて来きた水みずに、ふらつきながら、諸戸もろとの肩かたにしがみついていた。うっかりしていると、足あしが辷すべって、横よこざまに水みずに浮うき相しょうな気きがするのだ。

諸戸もろとは私わたくしの腹はらの所ところに手てをまわして、しっかり抱いだいていて呉くれた。真しんの闇やみで、二三にさん寸すんしか隔へだたっていない相手あいての顔かおも見みえなんだけれど、規則きそく正ただしく強つよい呼吸こきゅうが聞きこえ、その暖あたたかいいきが頬ほおに当あたった。水みずにしめった洋服ようふくを通とおして、彼かれのひきしまった筋肉きんにくが暖あたたかく私わたくしを抱擁ほうようしているのが感かんじられた。諸戸もろとの体臭たいしゅうが、それは決けっしていやな感かんじのものではなかったが、私わたくしの身近みぢかかに漂ただよっていた。それらの凡すべてが、闇やみの中なかの私わたくしを力強ちからづよくした。諸戸もろとのお蔭かげで私わたくしは立たっていることが出来できた。若もし彼かれがいなかったら私わたくしはとっくの昔むかしに水みずにおぼれてしまったかも知しれないのだ。

だが、増水ぞうすいはいつやむとも見みえなかった。またたく間あいだに、腹はらを越こし、胸むねに及および、喉のどに迫せまった。もう一いち分ふんもすれば、鼻はなも口くちも水みずにつかって、呼吸こきゅうを続つづける為ためには、我々われわれは泳およぎでもする外そとはないのだ。

「もう駄目だめだ。諸戸もろとさん僕ぼく達たちは死しんでしまう」

私わたくしは喉のどのさける様ような声こえを出だした。

「絶望ぜつぼうしちゃいけない。最後さいごの一いち秒びょうまで、絶望ぜつぼうしちゃいけない」諸戸もろとも不ふ必要ひつように大おおきな声こえを出だした。「君きみは泳およげるかい」

「泳およげることは泳およげるけれど、もう僕ぼくは駄目だめですよ。僕ぼくはもう早はやく一ひと思おもいに死しんでしまいたい」

「何なんを弱よわいことを云いっているんだ。何なんでもないんだよ。暗闇くらやみが、人間にんげんを臆病おくびょうにするんだ。しっかりし給たまえ。生いきられる丈だけ生いきるんだ」

そして、遂ついに私わたくし達たちは水みずに身体からだを浮うかして、軽かるく立泳たちおよぎをしながら呼吸こきゅうを続つづけねばならなかった。

その内うちに手足てあしが疲つかれて来くるだろう。夏なつとは云いえ地底ちていの寒さむさに、身体しんたいが凍こごえて来くるだろう。そうでなくても、この水みずが天井てんじょうまで一杯いっぱいになったら、どうするのだ。私わたくし達たちは水みずばかりで生いきられる魚類ぎょるいではないのだ。愚おろかにも私わたくしはそんな風ふうに考かんがえて、いくら絶望ぜつぼうするなと云いわれても、絶望ぜつぼうしない訳わけには行いかなんだ。

「蓑みの浦うら君くん、蓑みの浦うら君くん」

諸戸もろとに手てを強つよく引ひかれて、ハッと気きがつくと、私わたくしはいつか夢見ゆめみ心地ここちに、水中すいちゅうにもぐっているのであった。

「こんなことを繰返くりかえしている内うちに、だんだん意識いしきがぼんやりして、そのまま死しんでしまうのに違ちがいない。ナアンだ。死しぬなんて存外ぞんがい呑気のんきな楽らくなことだな」

私わたくしはウツラウツラと、寝ね入いりばなの様ような気持きもちで、そんなことを考かんがえていた。

それから、どの位くらい時間じかんがたったか、非常ひじょうに長ながい様ようでもあり、又また一瞬いっしゅん間かんの様ようにも思おもわれるのだが諸戸もろとの狂気きょうきの様ような叫声きょうせいに私わたくしはふと目めを醒さました。

「蓑みの浦うら君くん、助たすかった。僕ぼく等とうは助たすかったよ」

だが、私わたくしは返事へんじをする元気げんきがなかった。ただ、その言葉ことばが分わかったしるしに、力ちからなく諸戸もろとの身体からだを抱だきしめた。

「君きみ、君きみ」諸戸もろとは水中すいちゅうで、私わたくしを揺ゆり動うごかしながら、「いきが変へんじゃないかね。空気くうきの様子ようすが普通ふつうとは違ちがって感かんじられやしないかね」

「ウン、ウン」

私わたくしはぼんやりして、返事へんじをした。

「水みずが増まさなくなったのだよ。水みずが止とまったのだよ」

「引潮ひきしおになったの」

この吉報きっぽうに、私わたくしの頭あたまはややハッキリして来きた。

「そうかもしれない。だが、僕ぼくはもっと別べつの理由りゆうだと思おもうのだ。空気くうきが変へんだもの。つまり空気くうきの逃にげ場ばがなくて、その圧力あつりょくでこれ以上いじょう水みずが上のぼれなくなったのじゃないかと思おもうのだよ。そら、さっき天井てんじょうが狭せまいから、若もし裂さけ目めがないとしたら、助すけるって言いっただろう。僕ぼくは初はじめからそれを考かんがえていたんだよ。空気くうきの圧力あつりょくのお蔭かげだよ」

洞窟どうくつは私わたくし達たちをとじ籠こめた代かわりには、洞窟どうくつそのものの性質せいしつによって、私わたくし達たちを助たすけてくれたのだ。

その後あとの次第しだいを詳くわしく書かいていては退屈たいくつだ。手てっ取とり早はやく片付かたづけよう。結局けっきょく私わたくし達たちは水責みずぜめを逃のがれて、再ふたたび地底ちていの旅行りょこうを続つづけることが出来できたのだ。

引潮ひきしおまでは暫しばらく間あいだがあったけれど、助たすかると分わかれば、私わたくし達たちは元気げんきが出でた。その間あいだ水みずに浮ういていること位くらいなんでもなかった。やがて引潮ひきしおが来きた。増ました時ときと同おなじ位くらいの速度そくどで、水みずはグングン引ひいて行いった。尤もっとも、水みずの入口いりぐちは、洞窟どうくつよりも高たかい箇所かしょにあるらしく(それがある水準すいじゅんまで潮しおが満みちた時とき、一いち度どに水みずが這入はいって来きたのだが)その入口いりぐちから水みずが引ひくのではなかったけれど、洞窟どうくつの地面じめんに、気附きづけかぬ程ほどの裂さけ目めが沢山たくさんあって、そこからグングン流ながれ出だして行いくのだ。若もしそれがなかったら、この洞窟どうくつには絶たえず、海水かいすいが満みちていたであろう。さて数十すうじゅう分ぶんの後あと、私わたくし達たちは水みずのかれた洞窟どうくつの地面じめんに立たつことが出来できた。助じょったのだ。だが、講釈こうしゃく師しではないけれど、一難いちなん去さって又また一難いちなんだ。私わたくし達たちは今いまの水みず騒さわぎで、マッチをぬらしてしまった。蝋燭ろうそくはあっても、点火てんかすることが出来できない。それに気きづいた時とき、闇やみの為ため見みえはしなかったけれど、私わたくし達たちはきっと真青まっさおになったことに相違そういない。

「手てさぐりだ。ナアニ、光ひかりなんかなくったって、僕ぼく等とうはもう闇やみになれてしまった。手てさぐりの方ほうが却かえって、方角ほうがくに敏感びんかんかも知しれない」

諸戸もろとは泣なき相しょうな声こえで、負まけおしみを云いった。

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