諸戸は私を離した。私達は動物の本能で、敵に対して身構えをした。
耳をすますと、生き物の呼吸が聞える。
「シッ」
諸戸が犬を叱る様に叱った。
「やっぱりそうだ。人間がいるんだ。オイ、そうだろう」
意外にも、その生き物が人間の言葉を喋った。年とった人間の声だ。
「君は誰だ。どうしてこんな所へ来たんだ」
諸戸が聞返した。
「お前は誰だ。どうしてこんな所にいるんだ」
相手も同じことを云った。
洞窟の反響で、声が変って聞えるせいか、何となく聞覚えのある声の様でいて、その人を思い出すのに骨が折れた。暫くの間、双方探り合いの形で、黙っていた。
相手の呼吸が段々ハッキリ聞える。ジリジリと、こちらへ近寄って来る様子だ。
「若しや、お前さん方は、諸戸屋敷の客人ではないかね」
一間ばかりの近さで、そんな声が聞えた。今度は低い声だったので、その調子がよく分った。
私はハッとある人を思出した。だが、その人は已に死んだ筈だ。丈五郎の為に殺された筈だ。……死人の声だ。一刹那、私はこの洞窟が本当の地獄ではないか、私達は已に死んでしまったのではないか、という錯覚を感じた。
「君は誰だ。若しや……」
私が云いかけると、相手は嬉し相に叫び出した。
「アア、そうだ。お前さん蓑浦さんだね。もう一人は、道雄さんだろうね。わしは徳だよ。丈五郎に殺された徳だよ」
「アア、徳さんだ。君、どうしてこんな所に」
私達は思わず声を目当に走り寄って、お互の身体を探り合った。
徳さんの舟は魔の淵の所で、丈五郎の落した大石の為に顛覆した。だが、徳さんは死ななかったのだ。丁度満潮の時だったので、彼の身体は、魔の淵の洞窟の中へ吸い込まれた。そして、潮が引き去ると、ただ一人闇の迷路にとり残された。それから今日まで、彼は地下に生きながらえていたのだった。
「で、息子さんは? 私の影武者を勤めてくれた息子さんは?」
「分らないよ、大方鮫にでも食われてしまったのだろうよ」
徳さんはあきらめ果てた調子であった。無理もない。徳さん自身、再び地上に出る見込みもない、まるで死人同然の身の上なんだから。
「僕の為に、君達をあんな目に合わせてしまって、さぞ僕を恨んでいただろうね」
私は兎も角も詫言を云った。だが、この死の洞窟の中では、そんな詫言が、何だか空々しく聞えた。徳さんはそれについては、何とも答えなかった。
「お前達、ひどく弱っている塩梅だね。腹が減っているんじゃないかね。それなら、ここにわしの食い残りがあるから、たべなさるがいい。食い物の心配は要らないよ、ここには大蟹がウジャウジャいるんだからね」
徳さんが、どうして生きていたかと、不審に耐えなんだが、成程、彼は蟹の生肉で飢をいやしていたのだ。私達はそれを徳さんに貰って、たべた。冷くドロドロした、塩っぱい寒天みたいなものだったが、実にうまかった。私はあとにも先にも、あんなうまい物をたべたことがない。
私達は徳さんにせがんで、更らに幾匹かの大蟹を捕えて貰い、岩にぶつけて甲羅を割って、ペロペロと平げた。今考えると不気味にも汚くも思われるが、その時は、まだモヤモヤと動いている太い足をつぶして、その中のドロドロしたものを啜るのが、何とも云えずうまかったものだ。
飢餓が恢復すると、私達は少し元気になって、徳さんとお互の身の上を話し合った。
「そうすると、わしらは死ぬまでこの穴を出る見込みはないのだね」私達の苦心談を聞いた徳さんが、絶望の溜息を吐いた。
「わしは残念なことをしたよ。命がけで、元の穴から海へ泳ぎ出せばよかったのだ。それを、渦巻に巻き込まれて、迚も命がないと思ったものだから、海へ出ないで、穴の中へ泳ぎ込んでしまったのだよ。まさかこの穴が、渦巻よりも恐ろしい、八幡の藪知らずだとは思わなかったからね。あとで気がついて引返して見たが、路に迷うばかりで、迚も元の穴へ出られやしない。だが、何が幸になるか、そうしてわしが、さ迷い歩いたお蔭で、お前さん達に逢えた訳だね」
「こうして食物が出来たからには、僕達は何も絶望してしまうことはないよ。百に一つ、まぐれ当りで外に出られるものなら、九十九へんまで、無駄に歩いて見ようじゃないか、何日かかろうとも、何月かかろうとも」
人数がふえたのと、蟹の生肉のお蔭で、私は俄に威勢がよくなった。
「アア、君達はもう一度娑婆の風に当りたいだろうね。僕は君達が羨ましいよ」
諸戸が突然悲しげに云った。
「変なことを云いなさるね。お前さんは命が惜しくはないのかね」
徳さんが不審そうに尋ねた。
「僕は丈五郎の子なんだ。人殺しの、片輪者製造人の、悪魔の子なんだ。僕はお陽様が怖い。娑婆に出て、正しい人達に顔を見られるのが恐ろしい。この暗闇の地の底こそ悪魔の子にはふさわしい住家かも知れない」
可哀想な諸戸。彼はその上に、私に対する、さっきのあさましい所業を恥じているのだ。
「尤もだ。お前さんは何にも知らないだろうからね。わしはお前さん達が島へ来た時に、よっぽどそれを知らせてやろうかと思った。あの夕方、わしが海辺にうずくまって、お前さん達を見送っていたのを覚えていなさるかね。だが、わしは丈五郎の返報が恐ろしかった。丈五郎を怒らせては、一時もこの島に住んではいられなくなるのだからね」
徳さんが妙なことを言い出した。彼は以前諸戸屋敷の召使であったから、ある点まで丈五郎の秘密を知っている筈だ。
「僕に知らせるって、何をだね」
諸戸が身動きをして、聞返した。
「お前さんが、丈五郎の本当の子ではないということをさ。もうこうなったら何を喋っても構わない。お前さんは丈五郎が本土から、かどわかして来た、よその子供だよ。考えても見るがいい、あの片輪者の汚らしい夫婦に、お前さんの様な綺麗な子供が生れるものかね。あいつらの本当の子は、見世物を持って方々巡業しているんだよ。丈五郎に生写しの傴僂だ」読者は知っている、嘗つて北川刑事が、尾崎曲馬団を追って静岡県のある町へ行き、一寸法師に取入って、「お父つぁん」のことを尋ねた時、一寸法師が「お父つぁんとは別の若い傴僂が曲馬団の親方である」と云った。その親方が、丈五郎の実の子だったのだ。
徳さんは語りつづける。
「お前さんも、どうせ片輪者に仕込むつもりだったのだろうが、あの傴僂のお袋がお前さんを可愛がってね、あたり前の子供に育て上げてしまった。そこへ持って来て、お前さんが、中々利口者だと分ったものだから、丈五郎も我を折って、自分の子にして、学問を仕込む気になったのだよ」
何ぜ自分の子にしたか。彼は悪魔の目的を遂行する上に、真実の親子という、切っても切れぬ関係が必要だったのだ。
諸戸道雄は悪魔丈五郎の実子ではなかったのである。驚くべき事実だ。