← Library‹ 孤島の鬼 恋人の灰

私わたくしはそれから二三にさん日にち、会社かいしゃも休やすんでしまって、母親ははおやや兄あに夫婦ふうふに心配しんぱいをかけた程ほども、一いち間けんにとじ籠こもった切きりであった。たった一いち度ど、初代しょだいの葬儀そうぎに列れっした外そとには、一いち歩ほも家いえを出でなかった。

一いち日にち二ふた日かとたつに従したがって、ハッキリと本当ほんとうの悲かなしさが分わかって来きた。初代しょだいとのつき合あいは、たった九きゅうヶ月かげつでしかなかったけれど、恋こいの深ふかさ烈はげしさは、そんな月日つきひで極きまるものではない。私わたくしはこの三十さんじゅう年ねんの生涯しょうがいにそれは色々いろいろな悲かなしみも味あじわって来きたけれど、初代しょだいを失うしなった時とき程ほどの、深ふかい悲かなしみは一いち度どもない。私わたくしは十じゅう九きゅうの年としに父親ちちおやを、その翌年よくねんに一人ひとりの妹いもうとをなくしたが、生来せいらい柔弱にゅうじゃくな質たちの私わたくしは、その時ときも随分ずいぶん悲かなしんだけれど、でも、初代しょだいの場合ばあいとは比くらべものにはならぬ。恋こいは妙みょうなものだ。世よに比たぐいなき喜よろこびを与あたえてもくれる代かわりには、又人またひとの世よの一番いちばん大おおきな悲かなしみを伴ともなって来くる場合ばあいもあるのだ。私わたくしは幸さちか不幸ふこうか失恋しつれんの悲かなしみというものを知しらぬのだが、どの様ような失恋しつれんであろうとも、それはまだ耐たえることが出来できるであろう。失恋しつれんという間まは、まだ相手あいては他人たにんなのだ。だが、私わたくし達たちの場合ばあいは、双方そうほうから深ふかく恋こいし合あって、あらゆる障碍しょうがいを物ものともせず、そうだ、私わたくしのよく形容けいようする様さまに、どことも知しれぬ天上てんじょうの、桃色ももいろの雲くもに包つつまれて、身みも魂たましいも、溶とけ合あって、全まったく一ひとつのものになり切きってしまっていた。どんな肉親にくしんもこうまで一ひとつになり切きれるものではないと思おもう程ほど、初代しょだいこそは、一いち生涯しょうがいに、たった一いち度ど巡めぐり合あった、私わたくしの半身はんしんであったのだ。その初代しょだいがいなくなってしまった。病死びょうしなればまだしも看病かんびょうする隙ひまもあったであろうに、私わたくしと機嫌きげんよく分わかれてから、たった十じゅう時間じかん余あまりの後あとに、彼女かのじょはもう物もの云いわぬ悲かなしい蝋ろう人形にんぎょうとなって、私わたくしの前まえに横よこたわっていたのだ。しかも、無残むざんに殺ころされて、どこの誰だれとも分わからぬ奴やつに、あの可憐かれんな心臓しんぞうを、むごたらしく抉えぐられて。

私わたくしは彼女かのじょの数々かずかずの手紙てがみを読よみ返かえしては泣なき、彼女かのじょから贈おくられた彼女かのじょの本当ほんとうの先祖せんぞの系図けいず帳ちょうを開ひらいては泣なき、大事だいじに保存ほぞんしてあった、いつかホテルで描えがいた彼女かのじょの夢ゆめに出でて来くるという浜辺はまべの景色けしきを眺ながめては泣ないた。誰だれに物ものを云いうのもいやだった。誰だれの姿すがたを見みるのもいやだった。私わたくしはただ、狭せまい書斎しょさいにとじ籠こもって、目めをつむって、今いまはこの世よにない初代しょだいと丈だけ逢あっていたかった。心こころの中なかで、彼女かのじょと丈だけ話はなしがしていたかった。

彼女かのじょの葬式そうしきの翌朝よくあさ、私わたくしはふとある事ことを思おもいついて、外出がいしゅつの用意よういをした。嫂あによめが「会社かいしゃへいらっしゃるの」と聞きいたけれど、返事へんじもしないで外そとに出でた。無論むろん会社かいしゃへ出でる為ためではなかった。初代しょだいの母親ははおやを慰問いもんする為ためでもなかった。私わたくしは丁度ちょうどその朝あさは、なき初代しょだいの骨上こつあげが行おこなわれることを知しっていた。アア、私わたくしは嘗かつての恋人こいびとの悲かなしき灰はいを見みる為ために、いまわしい場所ばしょを訪おとずれたのである。

私わたくしは丁度ちょうど間まに合あって、初代しょだいの母親ははおやや親戚しんせきの人ひと達たちが、長ながい箸はしを手てにして、骨ほね上あげの儀式ぎしきを行おこなっている所ところへ行合ゆきあわした。私わたくしは母親ははおやにその場ばにそぐわぬ悔くやみを述のべて、ボンヤリ竈かまどの前まえに立たっていた。そんな際さい誰だれも私わたくしの無躾ぶしつけをとがめる者ものはなかった。隠亡おんぼうが、金火箸かなひばしで乱暴らんぼうに灰はいの塊かたまりをたたき割わるのを見みた。そして、彼かれはまるで冶金家やきんかが、坩堝るつぼの金糞かなくその中なかから何なんかの金属きんぞくでも探さがし出だす様ように、無む雑作ぞうさに、死人しにんの歯はを探さがし出だして、別べつの小ちいさな容器ようきに入いれていた。私わたくしは、私わたくしの恋人こいびとが、そうして、まるで「物もの」の様ように取扱とりあつかわれるのを、殆ほとんど肉体にくたい的てきな痛いたみをさえ感かんじて、眺ながめていた。だが、来こなければよかったなどとは思おもわなんだ。私わたくしには最初さいしょから、ある幼おさない目的もくてきがあったのだから。

私わたくしはある機会きかいに、人々ひとびとの目めをかすめて、その鉄板てっぱんの上うえから、一握にぎりの灰はいを、無残むざんに変かわった私わたくしの恋人こいびとの一いち部分ぶぶんを盗ぬすみとったのである。(アア、私わたくしは余あまりに恥はずかしいことを書かき出だしてしまった)そして、附近ふきんの広ひろい野原のはらへ逃のがれて、私わたくしは、気違きちがいみたいに、あらゆる愛情あいじょうの言葉ことばをわめきながら、それを、その灰はいを、私わたくしの恋人こいびとを、胃いの腑ふの中なかへ入いれてしまったのであった。

私わたくしは草くさの上うえに倒たおれて、異常いじょうなる昂奮こうふんにもがき苦くるしんだ。「死しにたい、死しにたい」とわめきながら、転ころげまわった。長ながい長ながい間あいだ、私わたくしは、そこにそうして横よこたわっていた。だが私わたくしは、恥はずかしいけれど死しぬ程ほど強つよくはなかった。或あるいは、死しんで恋人こいびとと一体いったいになるという様ような、古風こふうな気持きもちにはなれなんだ。その代かわりに、私わたくしは死しの次つぎに、強つよく、死しの次つぎに古風こふうな、一ひとつの決心けっしんをしたのである。

私わたくしは、私わたくしから大切だいじな恋人こいびとを奪うばった奴やつを憎にくんだ。初代しょだいの冥福めいふくの為ためにというよりは、私わたくし自身じしんの為ために恨うらんだ。腹はらの底そこから、そいつの存在そんざいを呪のろった。私わたくしは検事けんじが如何いかに疑うたがおうと、警察けいさつ官かんが何なんと判断はんだんしようと、初代しょだいの母親ははおやが下手げしゅ人にんだとは、どうしても信しんじられなかった。だが、初代しょだいが殺ころされた以上いじょう、仮令たとえ賊ぞくの出入でいりした形跡けいせきが絶無ぜつむであろうとも、そこには、下手へた人ひとが存在そんざいしなければならぬ。何者なにものだか分わからぬもどかしさが、一層いっそう私わたくしの憎にくしみをあおった。私わたくしは、その野原のはらに仰臥ぎょうがして、晴はれた空そらにギラギラと輝かがやいていた太陽たいようを、目めのくらむ程ほど見みつめながら、それを誓ちかった。

「俺おれはどうしたって、下手へた人ひとを見みつけ出だしてやる。そして、俺おれ達たちの恨うらみをはらしてやる」

私わたくしが陰気いんきで内気うちき者しゃであった事ことは、読者どくしゃも知しる通とおりであるが、その私わたくしが、どうしてその様ような強つよい決心けっしんをすることが出来できたのであるか、又また其後そののちのあらゆる危険きけんに突進とっしんんで行いった、あの私わたくしに似にげなき勇気ゆうきを獲得かくとくすることが出来できたのであるか、私わたくしは顧かえりみて不思議ふしぎに思おもう程ほどであるが、それは凡すべて亡ほろびた恋こいのさせる所ところであったろう。恋こいこそ奇妙きみょうなものである。それは時ときには人ひとを喜よろこびの頂点ちょうてんに持上もちあげ、時ときには悲かなしみのどん底ぞこにつきおとし、又また時ときには、人ひとに比類ひるいなき強力きょうりょくを授さずけさえするのだ。

やがて、昂奮こうふんから醒さめた私わたくしは、やっぱり同おなじ場所ばしょに横よこたわったまま、やや冷静れいせいに、それから私わたくしの為なすべき事ことを考かんがえた。そして、様々さまざまに考かんがえ巡めぐらす内うちに、ふと一いち人物じんぶつのことを思出おもいだした。その名なは読者どくしゃも已すでに知しっている、私わたくしが素人しろうと探偵たんていと名なづけた所ところの、深しん山木やまき幸吉こうきちのことである。警察けいさつは警察けいさつでやるがいい、私わたくしは私わたくし自身じしんで犯人はんにんを探さがし出ださないでは、承知しょうちが出来できぬのだ。「探偵たんてい」という言葉ことばはいやだけれど、私わたくしは甘あまんじて「探偵たんてい」をやろうと決心けっしんした。それについては、私わたくしの奇妙きみょうな友人ゆうじんの深山木やまき幸吉こうきち程ほど、適当てきとうな相談そうだん相手あいてはないのである。私わたくしは立上たちあがると、その足あしで附近ふきんの省線しょうせん電車でんしゃの駅えきへと急いそいだ。鎌倉かまくらの海岸かいがん近ちかくに住すむ深山みやま木きの家いえを訪たずねる為ためであった。

読者どくしゃ諸君しょくん、私わたくしは若わかかった。私わたくしは恋こいを奪うばわれた恨うらみに我われを忘わすれた。前途ぜんとにどれ程ほどの困難こんなんがあり、危険きけんがあり、この世よの外ほかの活いき地獄じごくが横よこたわっているかを、まるで想像そうぞうもしていなかった。その内うちのたった一ひとつをすら、予知よちすることが出来できたなら、私わたくしのこの向見むこうみずな決心けっしんが、やがて私わたくしの尊敬そんけいすべき友人ゆうじん、深しん山木やまき幸吉こうきちの生命いのちをさえ奪うばうものであることを、予知よちし得えたならば、私わたくしは或あるいは、あの様ような恐おそろしい復讐ふくしゅうの誓ちかいをしなかったかも知しれないのだ。だが、私わたくしはその時とき、何なんのその様ような顧慮こりょもなく、成否せいひは兎とも角かくも、一ひとつの目的もくてきを定さだめ得えた事ことが、やや私わたくしの気分きぶんを清々すがすがしくしたのであったか、足並あしなみも勇いさましく、初夏しょかの郊外こうがいを、電車でんしゃの駅えきへと急いそいだのである。

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