夏休みか、春のお休みには、和子はお母さんといっしょに旅に出るのがならわしでした。東京の芝浦だとか、大阪だとか、時には北海道の小樽まで出かけたり、また時によっては九州の港であったり、瀬戸内海の島のさびしい村であったり、とにかく、お父さんの乗っている船のつく港へ出かけるのでした。そこにはお父さんが待っていて、和子たちは航海を続ける船に乗りこんで暮したり、また時には五日七日くらいの碇泊期間を親子三人凾館に泊ったり、半月もの滞在となれば部屋を借りたりなどして暮しました。そんな時、お父さんは和子に思いきったお土産を買ってくれました。和子がほしいといえば、そしてそのほしい物がその土地にあれば、和子の希望はみたされました。電気蓄音機を買ったのも、ミシン機械を買ったのもこういう時だったのです。和子が六年生になったばかりの春休みの時、お父さんの船は九州の若松へ着くという電報が入りました。年度末のお仕事のつかれで気分が重いから、夏まで延ばそうというお母さんの意見を、和子ははね返すように反対して、どうでも若松港へ行こうといいはりました。
「年に一度だもの無理もないわねカ子ちゃん、それじゃゆくときめましょう。」
そういって仕度にとりかかったお母さんでした。この時に和子がわがままを通したことが、のちのちとり返しのつかぬ不幸を招くきっかけとなろうなど、十三才の和子が、どうしてよそうすることができたでしょう。和子は先に立って旅行カバンを持ち嬉々として家を出ました。若松で出迎えてくれたお父さんが、お母さんを見るなり、顔色がかわるほどのおどろきで、
「どうした、病人のようじゃないか。」
といわれるまで、和子はお父さんにあえる喜びばかりを先にたててお母さんのことを考えなかった自分に気づきました。そういえばお母さんは、来る途中でも、ろくにお弁当も食べなかったのです。それをさえも和子は、船よいくらいに考えていたのです。急に心配になって、
「お母さん、大丈夫?」
と、幾度も幾度も聞きました。そのたびにお母さんは笑顔になって、
「大丈夫とも、大丈夫よ。心配しないで、お父さんと歩いていらっしゃい。めずらしいものや、ためになるものを、ようく見て、おじいさんにお話しできるように、よくおぼえこんでいらっしゃい。」
そして、お母さん自身は宿屋の一室に、終日床をとってやすんでいました。そのあおざめた顔色は、子供の和子にとっても、いいようのない心配の種でした。お父さんと二人では外を歩いていてもあまり面白くありませんし、お父さんも心配なのか、すぐに宿へ引き返して、三人はほとんど部屋の中ばかりですごしました。村へ帰ると、そのままお母さんは床についてしまい、そしてふたたび学校へ出られるほどの元気をとり返すことができないままに二年間をすごしました。その間に三度ばかり、お父さんが帰宅しましたが、二三日たつと、お父さんは又船へ帰らねばなりませんでした。
ある朝井戸ばたで顔を洗っているおじいさんに向って、お父さんが、
「私も、もう船をおりて家で百姓をしたりようけいをしたりしようと思うんですが、どうでしょう。」
と小さな声で相談をかけますと、おじいさんも小さな声で、
「それがよかろう。もも子(お母さんの名)も気丈夫じゃろうしわしも心丈夫じゃ。あれにもしものことがあると心細いでな。」
かまどの前で朝の仕度をしていた和子は、それを聞くとただごとでないのが分り胸がどきどきしてきました。お父さんは和子のそばへよってきて、
「和子、お母さんを大事にしてあげておくれよ。今にお父さんも帰ってくるからね。船をやめてだよ。」
「…………」和子はだまってうなずきましたが、それと同時に、涙があふれでてきました。
「学校など、一度位落第してもよいから、お母さんを大事に看病してあげてくれな。」
お父さんはかさねていって、お母さんの部屋へゆきました。お父さんはその夜の便船で帰ってゆきました。お母さんの病気以来、ずっと炊事を引受けている和子は、いっそう気をつけて料理などの上手につくれる人のところへ聞きに行ったりしました。
「お母さんが病気したらばこそ、カ子ちゃんずい分うまくなったわ。このおかゆなど、お母さんより上手よ。ふんわりしてねばり気があって。だけど、ホウレンソウは少しうですぎね。」
和子はお母さんのひひょうを聞きながら、心の中で、無理やりに若松へ行くことを主張したあの時を思い出し、
「お母さんごめんなさい。今度こそいい子になりますから早くよくなってください。私のお料理などへたになる方がよいのです。」と祈っていました。