海蔵さんが人力曳きのたまり場へ来ると、井戸掘りの新五郎さんがいました。人力曳きのたまり場といっても、村の街道にそった駄菓子屋のことでありました。そこで井戸掘りの新五郎さんは、油菓子をかじりながら、つまらぬ話を大きな声でしていました。井戸の底から、外にいる人にむかって話をするために、井戸新さんの声が大きくなってしまったのであります。
「井戸ってもなア、いったいいくらくらいで掘れるもんかイ、井戸新さ。」
と、海蔵さんは、じぶんも駄菓子箱から油菓子を一本つまみだしながらききました。
井戸新さんは、人足がいくらいくら、井戸囲いの土管がいくらいくら、土管のつぎめを埋めるセメントがいくらと、こまかく説明して、
「先ず、ふつうの井戸なら、三十円もあればできるな。」
と、いいました。
「ほオ、三十円な。」
と、海蔵さんは、眼をまるくしました。それからしばらく、油菓子をぼりぼりかじっていましたが、
「しんたのむねを下りたところに掘ったら、水が出るだろうかなア。」
と、ききました。それは、利助さんが牛をつないだ椿の木のあたりのことでありました。
「うん、あそこなら、出ようて、前の山で清水が湧くくらいだから、あの下なら水は出ようが、あんなところへ井戸を掘って何にするや。」
と、井戸新さんがききました。
「うん、ちっとわけがあるだて。」
と、答えたきり、海蔵さんはそのわけをいいませんでした。
海蔵さんは、からの人力車をひきながら家に帰ってゆくとき、
「三十円な。……三十円か。」
と、何度もつぶやいたのでありました。
海蔵さんは藪をうしろにした小さい藁屋に、年とったお母さんと二人きりで住んでいました。二人は百姓仕事をし、暇なときには海蔵さんが、人力車を曳きに出ていたのであります。
夕飯のときに二人は、その日にあったことを話しあうのが、たのしみでありました。年とったお母さんは隣の鶏が今日はじめて卵をうんだが、それはおかしいくらい小さかったこと、背戸の柊の木に蜂が巣をかけるつもりか、昨日も今日も様子を見に来たが、あんなところに蜂の巣をかけられては、味噌部屋へ味噌をとりにゆくときにあぶなくてしようがないということを話しました。
海蔵さんは、水をのみにいっている間に利助さんの牛が椿の葉を喰ってしまったことを話して、
「あそこの道ばたに井戸があったら、いいだろにのオ。」と、いいました。
「そりゃ、道ばたにあったら、みんながたすかる。」
と、いって、お母さんは、あの道の暑い日盛りに通る人々をかぞえあげました。大野の町から車をひいて来る油売り、半田の町から大野の町へ通る飛脚屋、村から半田の町へでかけてゆく羅宇屋の富さん、そのほか沢山の荷馬車曳き、牛車曳き、人力曳き、遍路さん、乞食、学校生徒などをかぞえあげました。これらの人ののどがちょうどしんたのむねあたりで乾かぬわけにはいきません。
「だで、道のわきに井戸があったら、どんなにかみんながたすかる。」
と、お母さんは話をむすびました。
三十円くらいで、その井戸が掘れるということを、海蔵さんが話しました。
「うちのような貧乏人にゃ、三十円といや大した金で眼がまうが、利助さんとこのような成金にとっちゃ、三十円ばかりは何でもあるまい。」
と、お母さんはいいました。海蔵さんは、せんだって利助さんが、山林でたいそうなお金を儲けたそうなときいたことをおもいだしました。
ひと風呂あびてから、海蔵さんは牛車曳きの利助さんの家へ出かけました。
うしろ山で、ほオほオと梟が鳴いていて、崖の上の仁左エ門さんの家では、念仏講があるのか、障子にあかりがさし、木魚の音が、崖の下のみちまでこぼれていました。もう夜でありました。行ってみると、働き者の利助さんは、まだ牛小屋の中のくらやみで、ごそごそと何かしていました。
「えらい精が出るのオ。」
と、海蔵さんがいいました。
「なに、あれから二へん半田まで通ってのオ、ちょっとおくれただてや。」
といいながら、牛の腹の下をくぐって利助さんが出て来ました。
二人が縁ばなに腰をかけると、海蔵さんが、
「なに、きょうのしんたのむねのことだがのオ。」
と、話しはじめました。
「あの道ばたに井戸を一つ掘ったら、みんながたすかると思うがのオ。」
と、海蔵さんがもちかけました。
「そりゃ、たすかるのオ。」
と、利助さんがうけました。
「牛が椿の葉をくっちまうまで知らんどったのは、清水が道から遠すぎるからだのオ。」
「そりゃ、そうだのオ。」
「三十円ありゃ、あそこに井戸がひとつ掘れるだがのオ。」
「ほオ、三十円のオ。」
「ああ、三十円ありゃええだげな。」
「三十円ありゃのオ。」
こんなふうにいっていても、いっこう利助さんが、こちらの心をくみとってくれないので、海蔵さんは、はっきりいってみました。
「それだけ、利助さ、ふんぱつしてくれないかエ。きけば、お前、だいぶ山林でもうかったそうだが。」
利助さんは、いままで調子よくしゃべっていましたが、きゅうに黙ってしまいました。そして、じぶんのほっぺたをつねっていました。
「どうだエ、利助さ。」
と、海蔵さんは、しばらくして答えをうながしました。
それでも利助さんは、岩のように黙っていました。どうやら、こんな話は利助さんには面白くなさそうでした。
「三十円で、できるげながのオ。」
と、また海蔵さんがいいました。
「その三十円をどうしておれが出すのかエ。おれだけがその水をのむなら話がわかるが、ほかのもんもみんなのむ井戸に、どうしておれが金を出すのか、そこがおれにはよくのみこめんがのオ。」
と、やがて利助さんはいいました。
海蔵さんは、人々のためだということを、いろいろと説きましたが、どうしても利助さんには「のみこめ」ませんでした。しまいには利助さんは、もうこんな話はいやだというように、
「おかか、めしのしたくしろよ。おれ、腹がへっとるで。」
と、家の中へむかってどなりました。
海蔵さんは腰をあげました。利助さんが、夜おそくまでせっせと働くのは、じぶんだけのためだということがよくわかったのです。
ひとりで夜みちを歩きながら、海蔵さんは思いました。――こりゃ、ひとにたよっていちゃだめだ、じぶんの力でしなけりゃ、と。