旅の人や、町へゆく人は、しんたのむねの下の椿の木に、賽銭箱のようなものが吊るされてあるのを見ました。それには札がついていて、こう書いてありました。
「ここに井戸を掘って旅の人にのんでもらおうと思います。志のある方は一銭でも五厘でも喜捨して下さい。」
これは海蔵さんのしわざでありました。それがしょうこに、それから五、六日のち、海蔵さんは、椿の木に向かいあった崖の上にはらばいになって、えにしだの下から首ったまだけ出し、人々の喜捨のしようを見ていました。
やがて半田の町の方からお婆さんがひとり、乳母車を押してきました。花を売って帰るところでしょう。お婆さんは箱に目をとめて、しばらく札をながめていました。しかし、お婆さんは字を読んだのではなかったのです。なぜなら、こんなひとりごとをいいました。
「地蔵さんも何もないのに、なんでこんなとこに賽銭箱があるのじゃろ。」そしてお婆さんは行ってしまいました。
海蔵さんは、右手にのせていたあごを、左手にのせかえました。
こんどは村の方から、しりはしょりした、がにまたのお爺さんがやって来ました。「庄平さんのじいさんだ。あの爺さんは昔の人間でも、字が読めるはずだ。」と、海蔵さんはつぶやきました。
お爺さんは箱に眼をとめました。そして「なになに。」といいながら、腰をのばして札を読みはじめました。読んでしまうと、「なアるほど、ふふウん、なアるほど。」と、ひどく感心しました。そして、懐の中をさぐりだしたので、これは喜捨してくれるなと思っていると、とり出したのは古くさい莨入れでした。お爺さんは椿の根元でいっぷくすって行ってしまいました。
海蔵さんは起きあがって、椿の木の方へすべりおりました。
箱を手にとって、ふってみました。何の手ごたえもないのでした。
がっかりして海蔵さんは、ふうッと、といきをもらしました。
「けっきょく、ひとは頼りにならんとわかった。いよいよこうなったら、おれひとりの力でやりとげるのだ。」
といいながら、海蔵さんは、しんたのむねをのぼって行きました。